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日本は、日本の正史を、あらためてきちんと検証し、学び直すべきです。

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◆【お知らせ】◆
11月25日(土)18:30 第20回 百人一首塾
12月16日(土)18:30 第46回 倭塾 公開講座
12月23日(土)18:30 第21回 百人一首塾
1月6日(土)13:30 第47回 倭塾 公開講座
1月20日(土)18:30 第22回 百人一首塾
2月8日(木)18:30 第23回 百人一首塾
2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
※2月の倭塾・百人一首塾の開催日が変更になっています。
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一般に、時代区分には、「先史時代、古代、中世、近世、近代、現代」という区分が用いられます。
そのなかで「古代」というのは、青銅器や多少の鉄器が用いられた伝説の時代で、碑文などによって、多少の文字が残されている程度の時代のことをいいます。
ですから、古代ローマ帝国は「古代」です。
もうすこし細かくいうと、紀元前8世紀のギリシアの都市国家の発生の時代から5世紀の西ローマ帝国崩壊までが「古代」です。
その前の時代は「先史時代」で、土器や石器が用いられていた神話の時代であり、考古学的な遺跡や遺物でしかわからない時代と定義されます。
「古代」から「中世」に至ると、中央集権国家が形成され、王朝文化が栄え、文献資料も多数残されるわけです。
そのあとの「近世」が、いわゆる封建時代。
「近代」は、産業革命によって市民層が力を得だした時代、第二次世界大戦後の世界が「現代」です。
ところがいまの文科省の指導要領では、平安時代が「古代」は「古代」であり、奈良時代、飛鳥時代といった我が国が十七条憲法を制定したり、冠位十二階を定められた時代は「古代」にもあたらないというのです。
これはどう考えても、おかしなことです。
文科省の担当官が勝手に決めているわけではなくて、学者たちも交えて決めているわけですから、文科省のみならず学者たちまで、「頭がおかしい」としかいいようがありません。
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なぜこのようなことになるかというと、近隣諸国条項に従って、近隣諸国、具体的にはChina、南Koreaに配慮した結果なのだそうです。
しかしそんなことをしたら、Chinaはいまなお中央集権の王朝政治であって、分類上は誰がどうみても「古代」のままです。
Koreaも、財閥を封建領主にみたてれば、社会の体質は封建社会です。
それらに配慮するなら、日本は戦後の「現代」にさえ至っていないことになります。
歴史というのは、政治的配慮ではなく、史実を記述するストーリーのことをいいます。
史実を記述するには、様々なストーリーが考えられますが、その中で最も合理的に説明できるものが歴史です。
そして時代区分でいうところの「古代」の定義が、「中央集権国家が形成され、王朝文化が栄え、文献資料も多数残されている時代」というなら、十七条憲法が制定された飛鳥時代から、武家が台頭する平安時代の終わりまでが、どうみても日本の「古代」です。
いまの日本では、鎌倉時代からが「古代」だというのですが、それで納得できる人など、いないのではないかと思います。
ところが悲しいかな、学問の府が、いまでは学問よりも学会内政治が優先しているのだそうです。
事実よりも、学会の上の教授の意向が大事なのであって、学問そのものは二の次です。
これでは大学の名に値しないし、そのような曲学阿世の学者もどきが珍重されるようでは、日本国の良識が疑われます。
ちなみによく言われることに「記紀は歴史のうちにはいらない」というものがあります。
なるほど国家の史書の形式をとって書かれているけれど、記紀に記載されている内容は荒唐無稽で信頼性に乏しいから、むしろ外国の文献によって日本の歴史を考察することが、正しい歴史の見方なのだそうです。
しかし記紀に書かれた歴代天皇の時代のほとんどは、考古学的検証によっても実在があきらかにされています。
にもかかわらず記紀が信頼性に乏しいと言われるのは、ひとつには記紀が、頭が八つある蛇だとか、ウサギと話したとかの、荒唐無稽な子供向け神話としてしか理解されていないこと、もうひとつがたとえば山佐知毘古が580歳統治したとか、ありえないような話が書かれているとされていることが理由です。
ところが、ありえない話にしてしまっているのは、記紀の読み方が、子供向けの理解しか及んでいないためで、記紀をちゃんと大人として読めば、ヤマタノオロチは実は水害に弱い盆地に堤防をこしらえた話だし、ウサギは「菟」であって行商人であり、商業流通中心の世を、モノ作り国家に改造した話だし、580歳の「歳」というのは、いまでいう一ヶ月のことでしかないということが、ちゃんとわかるわけです。
しかもそもそも古事記の前文には、「この書は国家の典教とするために書いた」とちゃんと書かれています。
ということは、そこに描かれた物語を、荒唐無稽な作り話と考えるほうが、勉強不足なのです。
さらに日本書紀に至っては、対外的に漢字をつかって「日本は勇敢で恐ろしい国だ」と思わせる一方で、同じ文を大和言葉で読み下せば、民が和すことで、みんなが豊かに安心して安全に暮らすことのできる社会を築こうとしたという日本の統治の根幹が書かれています。
要するにちゃんと読もうとしないで、ただの思いこみで「記紀は使えない」などと言うのは、およそ学者らしくない暴論でしかない。
そのような暴論に日本がいいようにやられてしまうのは、日本人が日本を見失ってしまっているからだといえます。
まさにアイデンティティが失われてしまっているのです。
アイデンティティというのは、自己同化性(自分を何か偉大なものと同化させることで、それを自己の根本にすること)とされますが、もっというなら、それは「人としての尊厳を確立するもの」のことをいいます。
「人としての尊厳を失ったら人ではない。」
このことはとても大事なことです。
人ではないから、「ひとでなし」といいます。
あるいは古い言葉なら「人非人」。
「人モドキ」と言っても良い。
要するに、人の皮をかぶったケダモノになってしまうのです。
昨今頻発する女性を襲う強姦魔や、金の亡者となって巷を徘徊するオレオレ詐欺師、連続殺人犯など、まさにケダモノとしかいいようのないものです。
室町時代に書かれた「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」には、
「此頃都ニハヤル物
夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸 還俗 自由(まま)出家
俄大名 迷者
安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん)
禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)」
などと書かれています。
まるでいまの日本です。
日本を取り戻すためには、日本人自身が、堂々と日本を語れるようにならなくてはいけないのだと思います。
外国人とコミュニケーションをとるために、英語が話せるようになることが必要だと言われた時代がありました。
たしかに占領統治下の日本において、たとえば国務省には、英語が話せる人が少なかった。
一方、外務省は英語の達人が多かった。
そのため、戦前の国務省は廃止され、占領統治家の日本に外務省など必要ないのに、外務省は生き残りました。
英語を母国語にしている人たちに統治されたのです。
それは当時としては仕方がなかったことだと思います。
ところが昨今では、翻訳ソフトが非常に進歩し、簡単な日常会話くらいなら、日本語で話せば、スマホが代って英語やその他の国の言葉でしゃべってくれます。
まだまだ精度が低いと笑ってはいけません。
10年後には、学術論文から、専門分野に至るまで、相当正確に翻訳してくれるようになるのだそうです。
人類は、言語の違いを、これからの時代、ITで乗り越える、そういう時代が迫ってきているのです。
そしてそのとき(もちろんいまもですが)、大切なことは、日本人が日本を、堂々としっかり語れることです。
ChineseやKoreanがダメだと言っているだけでは、逆にダメなのです。
彼らがびっくりしてかしこまるほど、我々日本人が、日本をしっかりと語れることが常識化していくようにしていかなければならない。
教育はそのためにあるのです。
人としての誇りを育むのが教育です。
誇りを奪うなら、それは教育の名に値しないのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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