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テレビの報道番組では、国会より北朝鮮問題よりこの相撲界のトラブルの話題でもちきりで、話題が大きくなればなるほど、貴乃花親方の沈黙があたかも世紀の大注目であるかのように演出されています。
視聴者の多くは、メディアのあまりにも露骨な貴乃花親方上げ、相撲協会下げに偏った報道番組の編成に、ほとんどの方が、すでに辟易しているようです。
ところがそれでも、まるでいまの日本に、この相撲協会の問題以外はまったくないかのように、大相撲のことだけが派手にクローズアップされているかのようです。
事件そのものについては、いまだ情報が不確かなこともありますので言及を避けたいと思います。
ここで触れるのは、容易ではない民族的な気質の違いです。

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◆【お知らせ】◆
11月25日(土)18:30 第20回 百人一首塾
12月16日(土)18:30 第46回 倭塾 公開講座
12月23日(土)18:30 第21回 百人一首塾
1月6日(土)13:30 第47回 倭塾 公開講座
1月20日(土)18:30 第22回 百人一首塾
2月8日(木)18:30 第23回 百人一首塾
2月18日(日)18:30 第48回 倭塾公開講座
※2月の倭塾・百人一首塾の開催日が変更になっています。
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モンゴル人力士の活躍は、私はとても良いことだと思っています。
ただ、民族の違いは、気質の違いもあることを、私たちは知る必要があります。
モンゴル族は、きわめて厳しい自然環境のもとで暮らす遊牧民です。
家族もしくは一族でたくさんの家畜を率いて生活をしますが、強くて偉大な父が歳をとって現役を引退し、息子が一族のリーダーとなると、息子の地位が父より上になります。
ですから食事のときも、一番良くて美味しい肉はその息子が食べ、現役を引退した父は、その残り滓を食べます。
一族の指揮においても、父がかつてどれだけ偉大な指揮者であったとしても、父に権限はありません。
息子がリーダーとなった以上、すべての指揮権は息子にあります。
こうした習慣は、彼らにとってはあたりまえのことで、一族で、もっとも勇敢で強い者がリーダーでなければ、一族全員が死んでしまうのです。
父がどれだけ偉大であったとしても、現役を引退したら、ただの人でしかありません。
過去の栄光は一族の誇りであっても、いまの指揮には関係ないのです。
このことは日本にやってきて相撲取りになっても変わりません。
彼らには彼らの文化があるのです。
ですから、横綱になれば、彼らにとっては一族どころか国のリーダー(ハーン)となったようなものですから、横綱が一番になります。
入門当時から兄弟子に世話になっていたとしても、横綱が上なのです。
ですから兄弟子のほうが下になって横綱に敬意を払い、言うことをきかなければなりません。
親方も同じです。
親方に拾われて、世話になって、食べさせてもらって、力士として訓練してもらって、横綱になったら、彼らの感覚では、横綱が親方より上なのです。
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日本の文化では、親方はどこまで行っても親方です。
親方と弟子の関係は、親子関係と同じであり、たとえ弟子が横綱になったとしても、親方には頭が上がらない。
それが日本的伝統です。
もともと農業国である日本では、何より集団性が重んじられ、それぞれが人として対等です。
ですから年長者、先輩は、生涯先輩であり、兄弟子であり、親方です。
横綱になっても、兄弟子は兄弟子ですし、親方にはちゃんと従う。
その代わり土俵では横綱として、しっかりと勤めを果たす。
それが礼であり、作法であり、日本的文化です。
つまりその力士の背景となっている文化が異なるのです。
この文化的ギャップは、自然と、海を渡って日本にやってきたモンゴル人力士たちを、モンゴル集団というネットワークに駆り立てます。
モンゴル人の中では、モンゴル式の文化が当然に重んじられるからです。
さて、一方で日本人力士といいながら、実は日本的文化を持たない力士がいます。
これがKorean系の在日力士です。
Koreaは、かつて日本の一部でした。
ところがその後、Chinaの属国となり、元が大帝国を築いた頃には、モンゴルの一部となり、その後はまたChinaの一部になり、近代にはいってからは日本の一部にもなったりしています。
そうした複雑な歴史にあって、庶民が収奪被害を受けなかった時代というのは、かつての日本統治の時代だけで、それ以外の時代は、歴史を通じて、常に上に立つ者は、下の者から好きなだけ収奪ができ、下の者はその上の者に理不尽であろうがどうしようが、ただ従うだけという社会を構成してきました。
モンゴルには自然環境の厳しさがあり、日本には災害の多い国土の中で農業を維持しなければならないという厳しさがあり、それらが文化を築く背景になっていますが、Koreaの場合は、自然環境云々よりも、人的環境の厳しさだけが、社会の背景になってきました。
ですからKorean社会では、アポジと呼ばれる大物さんが、すべてを支配します。
これは社会制度とは関係なく、人間関係の中で上にのし上がった者であり、彼らの社会の支配者です。
日本人にとってわかりにくい存在ですが、言ってみれば、ヤクザ社会における、ヤクザの親分さんのような存在と考えるとわかりやすいかもしれません。
アポジは、合法非合法両方を取り仕切る親分です。
その親分には、さらに、大親分がいます。
そしてそうして構成される裏社会が、実は社会のすべてを取り仕切ります。
なぜなら親分の言うことを聞かなければ、表社会でどれだけ成功していようが、殺されるだけだからです。
実は、個人的には反日でもなんでもない、どとらかといえば親日的なKoreanでも、いつの間にか反日に走る背景に、このアポジさんの存在があります。
彼らの社会では、日本国内でもそうなのですが、月に一度、あるいは毎週一度の割合で、末端のKoreanが集会を開きます。
不参加を決め込めば、暴力に襲われますから、参加はしなければなりません。
その集会のリーダーが集まる会議が、月に一度あり、その地域の親分のもとに馳せ参じて、報告を行い情報交換を行います。
必要があれば、資金などの提供を親分が誰かに命じて行わせます。
要するに在日文化にあっては、親分であるアポジの意向がすべてであって、そのことは横綱であるとか、兄弟子であるとかいうことよりも優先します。
それが彼らのしきたりであり文化です。
日本人からしたら、そこにある社会、たとえば相撲界なら、各相撲部屋の親方や協会こそ尊重すべき存在であり(そのための協会であり、部屋なのですから当然です)、また、兄弟子は尊重されるし、横綱は尊敬の対象です。
それ以外のアングラ集団が、そうした表社会の指示よりも優先されるなど、もってのほかと考えるのは、それは私たちが日本人であるからのことにすぎません。
KoreanにはKoreanの文化があるのです。
そしてKorean系の力士や、親方にとっては、ただその時点で強い者である横綱が、誰よりも強くて大きな存在となるというモンゴルの文化は、まったく受け入れられないものです。
日本人力士なら、協会の意向であるとか、親方の意向であるといえば、日本人はルールを重んじますから、それで言うことを聞かせられます。
ところが、モンゴル人力士は、横綱こそがルールであって、それ以外の裏社会は、関係のないものとなります。
つまり、アポジさんの言うことなど、誰も聞かないのです。
そして・・・今回の問題が加熱してくるとどうなるかというと、最終的に相撲協会の現任の日本人の親方たちの理事は、ほぼ全員が責任問題となって辞任、辞職となっていくことになります。
すると、被害者となっている在日親方が、次の選挙で相撲協会の理事になります。
逆にいえば、それまで発言をひかえて黙ってさえいれば、理事長ポストが転がり込んでくるというわけです。
しかしこのことは、日本の国技である相撲の変質を招くことです。
相撲は、ただ強ければ良いというものではありません。
もともと相撲は奉納相撲です。
ですから行司は神官の姿をします。
相撲の掛け声は「はっけよい、のこった」ですが、これは「八卦良い」からきているという俗説がありますが、それですと、「のこった(残った)」の説明がつきません。
むしろ、大和言葉の「はつき、よひ」から来ているという説が自然で、これは「初の気は良い。だからがんばって残れ!」という意味と解せられます。
その「初の気」というのは、神々によって祝福を与えられているという意味ですから、もっと噛み砕いていえば、
「神々の祝福が与えられているぞ。がんばって残れ!」
といった意味になります。
つまり相撲は神事なのです。
その歴史は『古事記』の葦原中国平定にまでさかのぼり、建御雷神(たけみかつちのかみ)に出雲の建御名方神(たけみなかたのかみ)が「然欲為力競」と言って、建御雷神の腕をとって投げようとしたという神事に端を発します。
そして相撲の始祖とされる野見宿禰(のうみのすくね)と当麻蹴速(とうまのけはや)の試合は、紀元前23年の垂仁天皇の時代にまでさかのぼります。
そして全国の村々では、かつては毎年7月頃、神事相撲が行われていました。
これは五穀豊穣を祈り、また神々のご加護に感謝する農耕神事として行われ続けてきたことです。
そして相撲会では、親方が、まさに親となって力士を育て、力士は精進して大関となり、さらに人格識見とも優れた力士が横綱になりました。
ですから横綱は人々の模範であり、神々の神界の力士とこの世の境にある注連縄(しめなわ)を横に張る存在であったわけです。
だから、勝って奢らず、負けて腐らず、相撲を極めた存在として尊敬を集めたわけです。
そして横綱であっても、親方の前では頭を垂れる。
そうした姿がまた、孝の道でもあったわけです。
ところがこうした相撲界の歴史ある文化が、黒幕ボスによってかき回されたり、あるいはただ強ければ良いとされるなどでは、相撲の国技が泣いてしまいます。
我が国の国技である以上、我が国の伝統文化としての相撲のあり方を、私たちはメディアの挑発に軽々と騙され、乗せられるのではなく、しっかりと踏まえていかなければならないと思います。
ご参考までに、似たようなことが、かつての柔道界にもあったことを付記します。
国際柔道連盟の会長職をKoreanが射止めたのですが、およそスポーツ界に似つかわしくない露骨な金権運営に、欧州勢が猛反発し、結果、その理事長は辞任に追い込まれています。
柔道はいま、昔ながらの講道館柔道と、オリンピック競技にもなっている国際スポーツ柔道の二種類があり、有効、効果といったよくわからないルールでただ勝てば良いというスポーツ柔道と、試合に勝つことよりも心技体を研ぐことに中心を置く柔道の違いになっています。
この違いが鮮明になったのが、Korean会長の時代でもありました。
実際にお子様に柔道を習わせている方ならおわかりいただけると思いますが、試合に勝つ柔道と、心技体を磨く柔道では、練習の仕方も、その結果としての試合運びもまったく異なります。
試合はあくまで試合でしかない、というのが日本的武道の心得です。
もちろん試合に勝つことは大事ですが、それはあくまで自己鍛錬のための一つの段階にすぎず、日頃の鍛錬を通じて自己の心技体を鍛え上げることこそが大事とされてきたのが日本の武道です。
ですから、日本的武道に、「俺、強ぇ!」はありません。
勝って驕らず、負けて挫けず、ひたすら心技体の高みを目指して精進し続けることで、人として完成された大人になっていくというのが、日本的武道です。
ですから強くなればなるほど、日本人はむしろ駆け出しの武道家よりも腰が低くなります。
ところが、ただ試合に勝てば良いとだけしか武道を理解できない人たちの場合、強くなるとまるでヤクザ者のようになっていきます。
フランスでは、男女とも大学で柔道は必須科目です。
それは柔道を習えば痴漢を撃退できるとかそういうことではなくて、頭でっかちにならず、親を敬い、人として完成された大人を目指すために、柔道は欠かせない「武道」であると考えられているからです。
日本人がそうした精神性を失ってはならないと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
<参考図書>
↓この本、実に良い勉強になりました。

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