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ごくあたりまえな常識として、片方に職人技に支えられた旧くからの日本があります。
反対側に、精巧さとは程遠い製品しか作れずに、日本との製品競争に破れていく国があります。
その破れた国のノウハウをいたずらに採り入れれば、日本製品の品質が落ちる。
これは当然の帰結です。
そして日本製品の品質の良さが失われれば、日本製品は競争力を失います。
では質問です。
外国の制度をいたずらに取り入れることは、未来の日本にとって、良いこととといえるのでしょうか。

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◆【お知らせ】◆
9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
9月21日(木)13:00 埼玉縣護國神社奉納揮毫
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
11月 5日(日)第45回 倭塾 公開講座
11月25日(土)第20回 百人一首塾
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大正14年(1925年)にアメリカで出版された杉本鉞子(えつこ)の『武士の娘』(英題:『A Daughter of the Samurai』)は、またたく間にドイツ語、フランス語など7か国語に翻訳され、世界的ベストセラーになって、いまなお、西欧では日本研究の最重要図書として読み継がれている本です。
ちなみにいまから100年近く前の大正時代に出版された本が、いまなおベストセラーとして読み継がれているのは、西欧社会が言語の連続性を保持していることによります。
わかりやすいのがKoreaで、もともとは漢字文化だったものが、いまではハングルしか教育されません。
このため、学生や現職世代の人たちにとって、読める(学べる)書は、戦後になってから書かれた本だけで、それ以前に書かれた本は、同じ国の同じ人たちの言語でありながら、彼らにはまったく読めなくなってしまっています。
このことはChinaも同様で、文字が簡体字になってしまった結果、現代Chinaの人たちは、戦前戦中以前に自分の国の言語で書かれた本をまったく読めない。
読める書は、KoreaもChinaも、ひたすら反日をあおる本だけになっているわけです。
これは、施政者が文化や伝統を隠して、自分たちにとって都合のよい捏造した歴史だけしか国民に教えないという、たいへん厚かましく、また不埒なことです。
けれど、そうしたKoreaやChinaを、私たち日本人は笑えません。
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戦後の国語教育で、口語体と称する現代文だけしか教育されなくなった日本人もまた、戦前戦中に書かれた文語調の文章を読めないし、意味もわからなくなっています。
さらにいうと、江戸から明治初期に書かれた膨大な筆字の書籍や記録も、いまでは読めるのは、ごく限られたわずかな人だけです。
その数はといえば、おそらくエチオピア語を読み書きできる人の数と大差ないのではないか。
要するに日本人も文化の断絶を謀(はか)られているのです。
さて、冒頭の杉本鉞子の『武士の娘』ですが、その中で今日お話しようと思うのは、時給のことです。
杉本鉞子は、長岡藩の家老であった稲垣平助の娘で、米国で商いをしていた杉本松雄と結婚して米国に住むようになるのですが、その米国で実の姉のように親しくしていたフローレンスという女性がいました。
あるとき、杉本鉞子は、そのフローレンス嬢とともに長岡に帰省し、フローレンス嬢は、そのまままる2年、長岡に住んでいます。
そのフローレンス嬢が、あるとき田舎道を歩いていると、崖の上に二人の職人さんがいて、厳しい眼をして景色を見ている。
何をしているのかと問うと、その景色の美しさを庭つくりにいかに活かそうかと考えて景色を見ているというのです。
そうした日本のいわゆる職人気質について、杉本鉞子は米国の庭職人との比較を本の中で述べています。
長くなるので要約を申し上げると、米国の庭職人は可哀想だというのです。
なぜかといえば、彼らは時給で仕事をしている。
彼らは時間に縛られ、給料も時給でもらうから、時間から時間に縛れるばかりで、自分で納得の行く仕事ができない。
そこへいくと日本の職人には、時給という概念はない。
庭つくりや手入れそのものについて給金が払われるから、彼らは庭石をほんの2〜3尺(50cm〜1メートル)程度動かすだけでも、その向きや、庭全体とのバランスを考えて、何時間でも何日でも、納得できるまで、その仕事に打ち込むことができる。
人間にとって、納得のいく仕事、満足の行く仕事を成し遂げたときの喜びほど、素晴らしいものはない。
にも関わらず、残念なことに米国の職人は、そのような満足を得る仕事をさせてもらえないし、することができないでいる、と述べているわけです。
何年も前から、我が国では、マクドナルドのマニュアル商法がもてはやされ、仕事も住み込みから、通勤スタイルに変わり、給料も月給制から、多くの社員がパート・アルバイトの時間給労働者へと変化しました。
近年の典型はコンビニのアルバイトで、高校生のアルバイトから、50代60代の中高年アルバイトまで、同じ時給で同じ制服を着て、同じマニュアルに沿って同じ時間給で働いています。
そのことの良し悪しを言うつもりはありません。
ただ、同じ時間給なら、暇でお客さんの来ないコンビニの方が、働くのは楽です。
お客さんが来ないコンビニは、短期間で潰れてしまいますが、アルバイトの店員は、別なコンビニに転職するだけのことです。
そこに、店主と一体化して店を盛り立てていこうとか、店の集客を高めるために独自に工夫をしようとかいう姿勢は、一切要求されません。
ただ、時間内に決められた用事を済ませるだけです。
仕事の達成感とか、何かを成し遂げたときの仕事の喜びというものは、そこにはあまりないように見受けられます。
このことは、とりわけハード、ソフトを問わず、モノ作り世界においては、きわめて重要な意味を持つと思われます。
より精度の高い、より良いものをつくる職人技は、単に時間給で図れるものではないからです。
しっかりした制度の高いものをつくる、それこそが日本の工業の強みです。
もちろんロボット管理など、製造業でも、その一部には時間単位の方が都合がよい職種があるかもしれません。
しかし、社会の隅々にまで、より良いもの、より精度の高いもの、芸術性のあるもの、満足できる仕事、納得できる仕事ができる社会環境や、そうしたものを大事にする教育、企業側の給与制度、ひいては我が国の社会の構造そのものこそ、我が国産業にとって大切な要素なのではないでしょうか。
ところが残念なことに、性能の低い製品しか、現実につくれない、そのために日本製品よりも品質が劣るものしか作れない、そういう国の社会制度の在り方を日本の国として、あるいは企業として学び、模倣し、日本の社会構造を変えてしまう。
その結果何が起こるのかといえば、日本製品の品質の低下です。
そして日本製品の競争力の低下です。
そのことは、我が国の将来に、果たして良い影響をもたらすのでしょうか。
どこかの議員が不倫したとか、離党するとか、はっきりいって、どうでも良いことなのです。
日本の政治が、真に日本の未来を担い、より良い豊かな日本を築きたいのなら、そのようなどうでも良いことに関わっている暇などないのではないかと、私は思います。
そもそも、日本の政治が日本の産業を保護しないで、いったいどこの国の政治でしょうか。
また、日本の企業が、日本人とともになくて、いったいどこの国の企業なのでしょうか。
私たちは、私たちの国柄を、最早根幹から見直すか、さもなくば、民度をどこかの国なみに劣化させ、日本製品の競争力さえも失って、貧国に堕ちて、子や孫たちに哀れな未来を遺すのでしょうか。
<参考>
武家の娘 杉本鉞子
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2922.html
お読みいただき、ありがとうございました。

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