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国や民族によって、価値観とか行動原理はまったく異なります。
個人の場合には、良い人柄であったとしても、組織・団体などの集団行動の指揮になると、その特性はたいへん露骨なものになります。
ここでは、実際にあった「巨頭会談」とその結果を通じて、国際社会の非情さを考えてみたいと思います。

20170911 毛沢東
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10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
11月 5日(日)第45回 倭塾 公開講座
11月25日(土)第20回 百人一首塾
 *****
昭和20年のことです。
重慶で、世紀の巨頭会談と呼ばれる会談が行われました。
「蒋介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」です。
この年の8月15日、日本が自主的に戦闘行為を終結させました。
そしてマッカーサーが降伏文書の調印に先立って神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立ったその日の8月30日、Chinaの重慶では、蒋介石率いる国民党と、毛沢東率いる共産党が、たがいに争いを止め、平和的に戦後処理を行うためにと、両者の会談が行われたのです。
この対談は、なんと43日間にも及びました。
そして、10月10日、両者の合意が成立し、協定が結ばれました。
これが「双十協定」です。
10が2つ重なっている日だから、「双十」です。
その内容は、
1 国民党と共産党が、互いに平和を希求して一切の紛争を対話によって解決すること、
2 互いに協力しあって内戦を避け、自由で富強な新しい中国を建設すること、
3 中国共産党が、蒋介石の南京政府をChinaの合法的指導者であることを承認すること
というものでした。
まことに平和的な解決であり、よくぞここまで、たったの「43日間」で取り決めをすることができたと、祝福したい気持ちに駆られる内容です。
ですから世界もこの協定を、まさに胸をなでおろして歓迎したのです。
ところが、この協定が結ばれた、まさにその日、山西省の上党地区(現長治市)で、China共産党軍が、同地にいた11万のChina国民党軍に攻撃を開始し、第二次国共内戦が勃発しているのです。
この戦いは、ほとんど共産軍の一方的な戦いとなり、国民党軍はおよそ三日間の戦いで、3万5千人が殺戮されています。


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20170526 古事記弐


上にある「3」で、妙に共産党側が譲歩したと思ったら、次の瞬間にはこのような事態が起こるのです。
我々日本人の目からみると、「ではいったい何のための協定だったの」と、たいへん不思議に思えます。
なぜ不思議に思えるかというと、日本人は、約束といえば、条件反射的に「守る」という言葉が思い浮かぶという文化を共有しているからです。
日本人は約束は、守るためにあると考えるし、約束を守ることが美意識です。
日本人にとって、約束を互いに守ることは、互いの義務であり、権利であり、あまりにもあたりまえのことです。
しかしそれは、日本の文化がそのような文化であるからです。
いやいや西洋でも、約束は守るものという概念があるよ、と言われるかもしれません。
もちろんその通りです。
ただし、守る範囲が少し違います。
彼らにとっての約束は「神との契約」です。
破ったら、たいへんなことになります。
ですから破ったと言われないためには、彼らは「契約」したことだけを守る対象にするという文化を形成しています。
つまり、守るのはどこまでも契約したことだけです。
ですからたとえば「私は君の机にもう落書きをしません」と約束したなら、約束の主語は「私」であり、対象は「君」であり、「机に」ですから、私が私以外の人に命じて落書きするのはOKですし、私が君以外の人の机に落書きすることも、もちろんOKです。
また「私が君の机の上に」、「落書き」でないものを書くのも、OKということになります。
これが構成要件該当性で、西洋の契約論には欠かせない概念です。
ところが日本の場合ですと、「君の机にもう落書きをしません」と約束すれば、その本意は「落書きをしない」ということにあるわけですから、他の児童にも、また机以外にも、落書きを含む、何かを書くことは、一切しないことになります。
日本人にとって、約束は守るものであるということが優先されますから、約束の趣旨が重要視され、その約束は守らなければならないものとされます。
江戸時代の金銭借用証文が、「期日に支払わなければ、人前で笑われても致し方なき候事」というこの一文だけで、契約が履行されたというのは、まさにそうした日本人の「約束を守る」という日本の文化に基づきます。
これがChinaの場合ですと、だいぶ様子が違います。
彼らにとっては、約束は「相手に守らせる」ためのものです。
自分が約束を守る必要はないのです。
どこまでも相手にだけ守らせるものですから、「互いに協力しあって内戦を避ける」と取り決めたという一文は、相手の戦闘活動を押さえ込むという効果を持つことになります。
ということは、相手からの反撃力が圧倒的に弱まるのですから、このときこそが、戦闘攻撃のチャンスとなるのです。
これがChina流です。
日本人は、上古の昔から天皇という国家最高の権威をいただき、その国家権力よりもはるか上位の国家最高権威によって、民衆が「おほみたから」とされてきたという、世界で見たら稀有な歴史を持ちます。
これを古い大和言葉で「シラス」と云いますが、これは日本の神語に由来します。
日本のことは「葦原の中つ国」と書かれますが、その中つ国の統治は、高天原の統治を模倣することとされています。これが日本神語の「天孫降臨」です。
高天原の民衆は、我々から見たら八百万の神々です。
つまり全員が神様です。
ですから我が国の統治は、民衆を神様のように見立てて統治をするといことが、長い日本の歴史の中で根幹とされ続けてきたのです。
だれもが神様みたいな存在と規程するのですから、個人間においても、自分から見たら友も神様、親兄弟も神様、恋人も神様、女房に至ってはその名も神さんです。
だから大事にしなければならない。
約束は、それら神様との約束ですから、守るのが当然だと考えられてきたわけです。
とりわけカミさんとの約束は、守らないと世の殿方は痛い目に遭う。ホントです(笑)。
どの国の文化が優れているとか、良くないということはありません。
どの国においても、どの民族においても、それぞれの土地や風土や社会環境に合った文化を築き上げてきているのです。
Chinaのような厳しい自然と、陸続きの広大な大陸という環境下にあって、日本のように「互いに和の心を持って」などという日本的思想で行動すれば、たちまち何もかも奪われて通州事件の二の舞いになってしまう。
逆に、Chinaの人が日本で、「約束は守らせるものだ」などとうそぶいたら、たぶん誰にも相手にされなくなります。
では、私たち日本人が国際化社会の中において、果たすべき役割とは何でしょうか。
国際社会にただ迎合するだけが能ではないと思います。
国際社会に向けて、私たち日本人が、日本人としての思考やマインドを、堂々と世界に向けて発信していく。
それはどこかの国の「○流ゴリ押し」といったものではなくて、相手の国の人達の文化を理解し尊重しながら、日本ではこうなのだという事実を、私たち自身が日本人であることの矜持を保ちながら、淡々と発信していくことなのではないかと思います。
そしてそのことは、おそらく世界を、本当に民衆の住みよい世界に変えていく、原動力となっていくものと信じます。
<参考>処刑、掃討、性暴力、世界で最も弾圧されている民族ロヒンギャ
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/photo/17/090100210/
お読みいただき、ありがとうございました。
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