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昨日に引き続き「武」についての考察です。
「武」を通じて、日本人の原点に迫ってみたいと思います。
実は古事記では、上中下巻の全てを通じて「武」という字は2回しか出てきていません。
要するに古事記には「矛を止める」という意味での「武」という記述は、全編を通じて、実はまったく行われていないのです。

20170909 天の沼矛
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昨日の記事で、「武(ブ)」は「矛(ほこ)を止める」であり、止めずに用いるのが「矛(ほこ)」であるということを述べさせていただきました。
実は古事記では、上中下巻の全てを通じて「武」という字は2回しか出てきていません。
それもひとつは中つ巻の倭建命(やまとたけるのみこと)の章で(ここが初出になるのですが)、
 相武国(さがみのくに)
と、単に地名としての使用です。
もうひとつあるのは、下つ巻の允恭天皇(いんぎょうてんのう)の章で、そこに
 名云金波鎮漢紀武(名を「こんはちんかんきむ」と云ふ)
という記述があります。
金波鎮漢紀武というのは人名+役職名で、新羅の国主が允恭天皇に船81艘を献上したときの使者としてやってきた人で、波鎮漢(はちんかん)というのは新羅の役職名、金は最上位を意味しますから、最上位の波鎮漢(はちんかん)の紀武(キム)という人であったということと読み解くことができます。
つまり新羅のキムさんを「紀武」と書いたわけで、新羅は日本の属国(日本への朝貢国)でしたから、要するに外国の人の名前に「武」という字を用いているだけのことです。
要するに古事記には「矛を止める」という意味での「武」という記述は、全編を通じて、実はまったく行われていないのです。
では、いまでいう武力を意味する言葉としての「武」を、古事記がどのように書いているかというと、大和言葉を当て字として
 多祁夫(たけぶ)
と書いています。
これは、天照大御神が須佐之男命を迎えるところで、
<原文> 建(訓建云多祁夫)
<読下文>たけふ(建を訓(よ)みて「たけふ」といふ)
と注釈で用いられています。
つまり、ここがたいへんに重要なところなのですが、いまでも日本語で「武」という漢字を「たけ」と訓読みしますけれど、もともと日本人にとっては、武や武力は、「たけ」であって、「矛を止める」というものではなかったということです。


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20170526 古事記弐


日本人にとっての武力(たけ)が、敵の矛を阻止する(止める)という意味の言葉なら、最初から「武」の文字を使います。
しかし、そこで「武」という漢字を使っていないということは、日本人にとっての武力(たけ)は、「矛を止める」という意味ではない、ということになるのです。
では、日本人にとっての「たけ」とは、つまり大和言葉の「たけ」とは、どのような意味を持つ言葉なのでしょうか。
「たけ」を訓読みに持つ漢字は、他に「健、建、竹、岳、丈」などがあります。
「健、建」は、健康、健全、建設、建築といった、健全や築くことですし、
「竹」はまっすぐで折れないものです。
また、「岳」は、雄大な山岳、「丈」は身の丈の長さ、高さを意味します。
要するに「たけ」という大和言葉は、健全でまっすぐで折れないものを建設するといった意味のときに用いられる語とわかります。
要するに日本人にとっての「武(たけ)」は、敵の矛を止めるものではなくて、歪んでいるものを真っ直ぐに正したり、しっかりとした社会を育むためのものであるという、明確な思考が、ここにあらわされています。
昨日も書きましたが、China語における「武」は、敵の矛・・・矛というのは攻撃用の武器です・・・を止める、つまり身を護るための武芸、武術、武闘を意味する言葉です。
襲われるから戦うのです。
もっといえば、襲われそうだと思えば、武器を手にして戦う。
さらにいうなら、戦うことが正義ということになります。
これに対し、大和言葉の「たけ」は、真っ直ぐにする、建設する、健全にするために用いられるものです。
そしてこのときに使われるのが「矛(ほこ)」であり、「剣(つるぎ)」であり、「太刀(たち)」です。
そしてこうした武力を用いるときに何が大事かということは、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)の章に出てきます。
そこには「日を背負いて」とあります。
「日」というのは、もちろん天照大御神のことです。
そして天照大御神は、シラス存在であり、シラスは民をこそ「おほみたから」とするものです。
要するに、民衆の愛と喜びと幸せと美しさを育むために用いるのが「たけ」であり、そのためには、常に民の支持と、圧倒的な武力の保持が大事だというのです。
我が国で戦国時代や幕末に、大義名分が大事にされたのも、同じ理由です。
「日」を背負わなければ、戦ってはならないからです。
英語ですと、皆様御存知のように、「武」は「Attack(あたっく)」です。
「Attack」の語源はフランス語の「attaquer」で、これは挑むこと、挑戦することを意味します。
やはりそこにあるのは戦いです。
これに対して日本語の「たけ」は、健康な状態を保持したり建設したりすることです。
要約すると次のようになります。
 Chinese  武 =戦うことが正義
 English Attack=挑むことが正義
 日本語  たけ =健康な状態を育み保つことが正義
単純に「健康な状態を育み保つことが正義」とまとめさせていただきましたが、このときにもちろん大事なことは常に「日を背負うこと」、つまり民をこそ「おほみたから」としてくださる天照大御神を背負うことです。
それが上古の昔からの日本人の思考であり、考え方であり、根幹にある姿勢です。
とにかく古事記の神代の物語(つまり古事記の上つ巻)には、ただの一度も「武」という文字が使われていないのです。
これは、私は、日本人として誇るべきことであると思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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