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昨日に引き続き占守島戦記です。
この記事を最初にねずブロで紹介したのは2009年10月ですが、何度読み返しても私は涙が止まらなくなります。
最近は、アメリカ式の「クール」というのが流行っているのだそうですが、真剣に生きているからこそ、熱い思いに涙するし、人の生命を大切に思う人間としてあたりまえの心を持つことができるのではないでしょうか。
◆【お知らせ】◆
9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
9月21日(木)13:00 埼玉縣護國神社奉納揮毫
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
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池田末男さんという方がいます。愛知県豊橋市出身の方です。
彼は戦前“戦車隊の神様”と呼ばれ、戦車学校教官当時には「キ戦車隊教練規定」という教程を編纂、そして陸軍戦車学校校長に就任しています。
その陸軍戦車学校に、福田定一という生徒が入学しています。後の小説家、司馬遼太郎です。
司馬遼太郎は、昭和の軍人に対して批判的な小説家として知られますが、その司馬遼太郎が、池田末男さんに対してだけは最期まで尊敬の姿勢を崩していません。
池田末男さんは、戦車学校校長職を辞した後、戦車第十一聯隊長となりました。
十一聯隊は、十一を文字って別名「士魂部隊」と呼ばれました。
士魂部隊は精鋭で知られる戦車隊です。
彼らは占守島(しゅむしゅとう)に転進を命じられます。
池田聯隊長は豪放磊落かつ温和な性格の人で、占守島でも、部下の信望をよく集めていた方でした。
こんなエピソードがあります。
占守島は、夏場でも気温が15度を上回ることがありません。
頻繁に濃霧に覆われ、冬場には気温は零下30度に達します。
雪は電信柱が埋まるほど積もり、そして年間を通じて風速30Mの暴風が吹き荒れる島です。
そういう身を切る寒さの占守島において、彼は、絶対に自分の下着を部下に洗わせなかったのだそうです。
全部、自分で洗濯しました。
申し訳なさそうにしている当番兵に、池田さんはこう言ったそうです。
「お前はオレに仕えているのか?
国に仕えてるんだろう?」
いまでは学校で、「昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日本との日ソ中立条約を破棄して、満州に攻め込み、その後、日本はポツダム宣言を受け入れて、8月15日に終戦となった」と教えます。
しかし、そのあとに激戦が行われた地があった。それが占守島です。このことは昨日の記事で書きました。
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8月17日、重要書類を全部焼いて、翌18日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一聯隊本部で残念会を開き、聯隊長の池田末男氏を囲んで、主な将校が10人ほど集まり酒盛りをしたそうです。
池田聯隊長は、聯隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら豪放磊落な酒盛りになるところが、その日はしんみりとした雰囲気だったそうです。
そして若い木下弥一郎少尉に、
「木下、15日以降、俺は廃人になった。
お前たち若いものは国へ帰って
新しい国民を教育しろよ」
などと述べておいでだったそうです。
酒の席も解散になり、みんなが就寝した深夜、日付が変わって18日となった午前1時、突然対岸のカムチャッカ半島側から長距離砲弾が島に撃ち込まれ、占守島北端の国端岬一帯に、多数の上陸用舟艇が接近してきました。
そして数千の兵力が強襲上陸してきたのです。
武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸をすることはありません。
東浜海岸・竹田浜に展開していた部隊は第3中隊の2個小隊(約80名)だけです。
彼らは突然包囲され、攻撃を受けました。
この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
夏場の濃霧です。10M先も見えない。
その見えない先から、砲弾や銃弾が飛んでくる。
実はこのとき来襲していた謎の軍団は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人の大部隊でした。
このままでは全滅してしまいます。
しかも島にはニチロの女子工員たちがいます。
司令部は、やむなく反撃を命じました。
島の北端にある国端岬にいた速応少尉は、岬の洞窟にあった野戦砲二門で近接する竹田浜への応射を開始しました。
速応少尉は、濃霧の中で人馬殺傷用の榴弾を放ち、敵船合せて13隻を撃沈、戦死者2千人、海を漂流した者3千人の大損害を与えています。
これに抗しきれないと判断した謎の軍団は、対岸のカムチャッカ半島突端のロバトカ岬から巨砲を発射してきました。
このままでは速応隊が全滅してしまいます。
長距離砲撃を知った四嶺山の坂口第2砲兵隊長は、直ちに15センチ加農砲2門で、これに応射を開始しました。
そしてわずか20分で敵の砲撃を沈黙させてしまいます。
上陸部隊を迎え撃った歩兵大隊は、謎の軍団の艦艇を14隻以上撃沈・擱座。
戦車揚陸艇ほか多数の上陸用舟艇を破壊。
さらに敵指揮官坐乗の舟艇も撃沈し、謎の軍団を無統制状態に陥らせます。
それでも敵は、圧倒的な数の大軍です。
日本側の正面の歩兵大隊は、わずか600名。
敵は続々と死傷者を出しながらも、陸続と後続部隊を上陸させ、内陸部に侵攻を開始しはじめました。
当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
ですから後になって相手がソ連とわかってびっくりしたといいます。
午前2時10分、第91師団長の樋口季一郎中将からの命令が届きます
「師団全力をもって、敵を殲滅せよ!」
全軍直ちに戦闘配置。
戦車1個聯隊と歩兵1個大隊、工兵一個中隊は、先遣隊として竹田浜に急行しました。
占守島南端の第73旅団は、北の要点・大観台に司令部を進出させ、戦闘に参加しました。
隣りの幌筵島の第74旅団も占守島に渡って敵を攻撃することになりました。
師団司令部も占守島への移動を開始します。
第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、同時に濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊8機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせました。
「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」
士魂部隊にも指令が下りました。
「戦車隊前進せよ」
池田聯隊長は直ちに各中隊長、小隊長を集め、真っ先に準備の出来た車に飛び乗って走り出しました。
「天与の好機逸すべからず。
各隊長は部下の結集を待つことなく、
準備のできたものから予に続くべし!」
このとき戦車聯隊は、武装解除中にあり、大半の戦車はすぐには出撃できない状態にありました。
それでも総員必死で武装を取り付けました。
日頃の訓練の賜物です。その取付の早いことはやいこと。
濃霧の中、途中の位置で集結した全戦車部隊隊員に、池田聯隊長は訓示します。
諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、
決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し
後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。
このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れていったのです。
そして全員が見ました。
霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが、全員が挙手していた姿でした。
士魂部隊は全員、白虎隊となることを選択したのです。
若い木下弥一郎少尉も、池田聯隊長のそばにいました。
しかし、定員オーバーで戦車の中に入れない。
池田聯隊長は、戦車を止めて、木下弥一郎少尉に下車を命じました。
「木下、お前は旅団司令部の
杉野さんのところへ
連絡将校として行っておれ」
戦車学校校長であったときから、ずっと接してきた弥一郎は、聯隊長とにわかに離れがたく、ぐずぐずしていた。
池田聯隊長は、「早く行け!」と怒鳴ります。
そして走り出した戦車から上半身を露呈した池田聯隊長は、振り返って弥一郎に言いました。
「木下、お前は助かれよ。命を捨てるなよ」
これが、弥一郎が見た末男の最後の姿でした。
午前5時、国端崎から14キロ手前の天神山で士魂部隊は小休止ししました。
ここで遅れていた一部も合流しました。
池田聯隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がりました。
そして大声で訓示されました。
訓示は短いひとことでした。
「上陸軍を一人残さず海に叩き落とすまで奮闘せよ」
午前5時30分、聯隊は前進を再開しました。
島の北端に近い大観台を過ぎ、午前6時20分、歩兵大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出しました。
そこには、既にソ連軍約200人の1個中隊が山を越えていました。
池田聯隊長はこれを突破して四嶺山頂に進出する決心をします。
午前6時50分、攻撃を開始。
士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ南斜面を駆け上がり、7時30分には山頂に到達します。
山頂から見下ろすと、敵歩兵の大軍がそこにいました。
池田聯隊長は、師団、旅団の両司令部に打電しました。
聯隊はこれより敵中に突撃せんとす。
祖国の弥栄と平和を祈る。
7時50分、池田聯隊長は、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振りながら攻撃前進を命じました。
士魂聯隊の攻撃隊形は、左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、聯隊本部、第6中隊、第2中隊の順の展開です。
約40両の戦車が、聯隊長の統一指揮のもと、敵中に突入しました。
それはさながら運用教範の実演の如き見事な隊形でした。
視界約20Mの濃霧です。
戦車というものは死角が多い。
濃霧は戦車に不利をもたらします。
なぜなら戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるものだからです。
しかし急な出動で協力できる歩兵はいないのです。
8時30分。
戦車隊の攻撃によっていったんは混乱して潰走しかけたソ連兵は、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で立ち止まり、約100挺の13㎜対戦車ライフルと、4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させて、激しく反撃を加えてきました。
装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。
濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け、友軍の戦車が炎上する。
それでも士魂部隊は前進します。
キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けました。
やがて四嶺山南東の日本側高射砲が砲撃を開始しました。
南麓から駆け付けてきた歩兵大隊も攻撃を開始しました。
ソ連軍は遺棄死体100以上を残して竹田浜方面に撤退していきました。
この戦いで、士魂部隊は、戦車27両が大破し、池田聯隊長以下、96名が戦死されました。
士魂部隊の突撃のとき、敵は稜線いっぱい展開して、日本側の戦車隊に自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきました。
砲塔には雨あられと弾が跳ね、それは顔を出していれないくらいだったそうです。
そんな中で、池田聯隊長は、戦車からハダカの上半身を露出したまま、鉄カブトもかぶらず、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で、1M×80cmぐらいの大きな日章旗を振って戦車の上から「前進!前進!」と突撃の合図をされました。
それが池田聯隊長の指揮でした
戦況はわずかなバランスで勝敗が決します。
チャンスを逃さずに戦いを制するためには、このとき戦車部隊がどこまでも進撃をあきらめない必要がありました。
けれど日本の戦車は装甲が薄い。
その進撃は、部下たちの多くの生命を失わせるものでもあったのです。
だから隊長は、自ら裸の体を晒すことでみんなを勇気づけたのでした。
しかし池田隊長のそんな姿は、いやでも敵の目につきます。
敵は銃撃を集中し、聯隊長車にいた指揮班長の丹生少佐がまず撃たれました。
池田聯隊長はその死体を落としてはならぬと、にわかに縄を出して丹生少佐の死体を自分の戦車の砲塔に持ち上げて縛りつけると、今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり、例の日章旗を振り振りながら、なおも全軍に前進を命じ続けました。
戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ、だいぶやられました。
池田聯隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、敵をさんざん踏みにじったあと、対戦車銃を横腹に受けました。
銃弾は貫通し、中に積んであった弾薬が誘爆しました。
これによって隊長車は、擱坐炎上しました。
このとき不思議な事が起こりました。
池田聯隊長の乗車した戦車は、炎上したのちもしばらく前進していたのです。
それはまるで、死んでも前進を止めない聯隊長の魂が戦車に乗り移ったかのようえあったそうです。
8月21日、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立。
同日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して調印が行われた。
そして、ソ連軍の監視の下で武装解除が行われました。
守備隊将兵は悔しがっていたと伝わっています。
「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」
当時のソ連政府機関紙“イズベスチャ”は「占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べています。
またソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残しています。
もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、昨日も書いたように、日魯漁業の女子工員400名は、ソ連兵に蹂躙されるままになっていたろうし、ソ連側が述べているように、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は、半島と同様、北日本と、南日本に分断されていたことでしょう。
逆に、もし、占守島守備隊が第5方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれない。
占守島守備隊の活躍があったからこそ、日本は北海道を日本のままに置いておくことができたのです。
大功ある、第91師団、そして勇敢な士魂部隊の将兵は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されました。
そして連行の途中で多くが殺され、またシベリアで多くの人々が非業の死を迎えられました。
この占守島守備隊について、戦後左翼は教科書に一切載させないだけでなく、この戦い自体を「無駄な戦いであった」、「戦死者は犬死にだった」と一蹴しています。
それが同じ日本人の言う言葉なのか。
私にはそういう人たちの感性がまったく理解できないし、理解したいとも思いません。
占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。
戦後60年以上経過したいま、日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊たちへの感謝を捧げるとともに、散って行かれた彼らに恥じない日本の建設を考えなければならないときにきているのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。

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