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◆【お知らせ】◆
7月23日(日)14:00 第1回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
7月27日(木)18:30 第17回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
8月 9日(水)18:00 新潟県新発田市講演(古事記)
8月13日(日)14:30 東京・世田谷講演(古事記)
8月15日(火)靖国神社昇殿参拝
9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
10月 1日(日)日心会『ねずさんと古事記』出版記念イベント(古事記)
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最近、ときどきのことですが、「明治維新とは何であったのか」という、いわば明治維新の功罪についてが議論になることがあります。
つまり、明治維新を肯定的に見る評価から、最近、再び否定的に見るという考え方です。
もっとも20年ほど前までは、司馬遼太郎の影響もあって民間ベースでは肯定的でしたが、学会では否定論が主流でした。
それが近年、学会、民間ともに肯定的になってきていたものが、ここへきて、民間ベースで否定的な見方が台頭してきたわけです。
なんだか二転三転しているのですけれど、どちらも根底において、「歴史を評価する」という大きな過ちにとらわれています。
そこで、すこし詳しく振り返ってみます。
まず、平成にはいるまでの間は、明治維新には大きく分けて二つの評価がありました。
ひとつはが司馬遼太郎のいわゆる司馬史観と呼ばれるもので、これは民間ベースで、昭和初期の時代、つまり戦前の時代を極端に暗い時代として否定し、その一方で明治維新を賞賛するという立場です。
これに対して歴史学会の立場は、明確な明治維新否定説で、これはさらに「講座派」と「労農派」の二つに別れていました。
「講座派」というのは、明治維新は日本が絶対主義国家になろうとした”革命”であるとするものです。
「労農派」は、明治維新は日本が近代資本主義国家になろうとしたブルジョア”革命”であるというものです。
そしてこの二つが論陣を戦わせ、世間一般の評価とはまったく関係なく、学会においては、あたかもこの二つ以外に論点などない、という扱いになっていました。
そしてこのことは、言論界を通じて世間一般にも影響していて、このため司馬遼太郎の「竜馬がゆく」がNHKの大河ドラマになった昭和43年、この大河ドラマの視聴率は、当時にあって平均視聴率14.5%と、史上最低を更新しました。
つまり、司馬遼太郎の「明治維新を評価する」という立場は、実は、当時にあっては、異端の小説という扱いだったわけです。
それが大きく変化しはじめたのは、いまから20年ほど前のことです。
学会の中で、明治維新を革命と読み替える歴史観にNOを突きつける学術団体が現れました。
それが「新しい歴史教科書をつくる会」です。
「新しい歴史教科書をつくる会」というのは、ただ教科書を書く団体ということではなく、もともとの出発点が、「新しい歴史認識を再構築し、その結果を教科書に反映させよう」という運動です。
よく、つくる会を右翼だとか保守系政治団体だとか誤認したような記述を目にしますが、実は全然違います。
つくる会の主張は、ひとことでいえば、
「歴史は史実とは異なる。
史実を俯瞰して、
なぜそれが起き、どのような経緯をたどり、その結果がどうなったのか。
その状況を再構成できるようにすることが歴史である」
という立場です。
歴史は過去の事実ですから、いまさらそれを評価したところで、何の意味もありません。
すでに起きてしまっているのです。
そうではなくて、なぜそれが起こり、その結果どのような社会への影響が及んだかを合理的に説明するのが歴史です。
ここに事実誤認があったり、政治的主張が加わると、実は歴史にウソが混じり、状況の再構築ができなくなります。
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早い話、たとえば信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしたのは、良いことをしたのか、悪いことをしたのかなど、千年議論を続け、取っ組み合いの喧嘩までしたところで、何の意味もありません。
なぜなら、あったことは事実だからです。
それよりも大事なことは、何のために焼き討ちが行われ、その結果、何が起こったのか。
それがこんにちまで続く日本の社会に、どのような影響を与えたのかを考えることのほうが、はるかに大切だし、意味のあることといえます。
それが「歴史を学ぶ」ということです。
同様に嘉永6年の黒船来航が、良かったのか悪かったのかと、善悪二元論で議論しても、何の意味も持ちません。
むしろ、「評価するという立場」によって、いらぬ対立が生まれ、感情的になってまともな議論さえもできなくなることのほうが、よほど害毒です。
そうではなく、何故黒船はやってきたのか、そしてその結果、どのような変化が社会に起きたのかをしっかり考え、学ぶことによって、その知恵を現在を乗り越えたり、未来を築く知恵にしていくことの方が、はるかに大事です。
歴史は、ただの史実を並べただけのものではありません。
黒船がやってきた、戊辰戦争があった、白虎隊が自決した等々の様々な事件や事故の史実を俯瞰して、それらを合理的な一本の糸で結び、なぜそのような動きとなっていったのかについて、これを合理的に説明するのが歴史です。
ですから歴史は、その一本の糸で状況を再構築できなければ、それは歴史とはいえないのです。
もし明治維新が革命であったというのであれば、それがChina方式の易姓革命であるというのなら、日本の支配者の姓が易(あらたま)っていなければなりません。
けれど日本の頂点は、維新前も維新後も天皇であって、変わっていません。
もし革命が、共産主義史観でいう革命であったというのなら、封建主義国家が、王権絶対主義国家に変わった、あるいは利益重視の資本主義国家変わったということを証明しなければなりません。
けれど、それは不可能です。
なぜなら日本における天皇は、明治国家においても政治権力を持たない存在であったし、戦線の日本は、おせじにも権益重視の利益主義国家とはいえない、むしろ損ばかりしてきた国家であるからです。
それが証拠に、日本が朝鮮半島や満洲にどれだけの投資をして、それを水の泡にしてきたか。
それを考えれば、やはりおせじにも日本が利益主義国家であったとはいえません。
また、維新を革命と呼び替える説明にしても、そもそも維新というのは、「維」が一定の道筋につなぎとめるという意味です。
ですから「維新」は、「一定の道筋に新たにつなぎとめる」ことをいいます。
ほどけた糸を、結び直して元通りに治すことを維新というのです。
ということは、「維新」と呼ばれた以上、そこには明らかに当時の人たちが、時代の中で我が国の「ほどけた糸を撚り戻す」、「戻るべき本来の日本の姿」があったということです。
そうであるならば、これは西洋的な意味での革命、つまりレボリューション(Revolution)です。
西洋におけるレボリューションは、リボルバー(Revolver)の派生語です。
回転してもとに戻ることをいいます。
西洋の市民革命は、これは中世のルネッサンスが、古代のヨーロッパ社会に戻ろうとしたのと同様に、古い時代の共同体社会に戻ろうという運動です。
同様に日本の明治維新も、これは19世紀に行われた維新ですが、合言葉となったのは「神武創業の昔に帰れ」です。
そしてこのことは、なんと7世紀における日本の大改革、つまり十七条憲法の制定や大化の改新、史書編さんといった、飛鳥時代の神武創業に帰れという運動と、実はまったく同じであるということを表します。
日本では、当時は四書五経の漢学の時代ですから、革命という用語は、基本的にChinaの易姓革命を意味する用語でした。
漢学における「革命」は、China皇帝の横暴が極致に達したとき、「天命が革(あらた)まり、皇帝の姓(せい)が易(か)わる」ことを意味します。
Chinaでは、たとえば明王朝は皇帝の姓が「朱(しゅ)」、清王朝は「愛新覚羅(あいしんかくら)」です。
革命によって皇帝の姓が変わるのです。
ところが日本では、天皇に姓がありません。
ですからそもそも日本では易姓革命は起こりようがないのです。
つまり、東洋的な意味における革命は、日本にはないのです。
では「維新」という用語はどうでしょうか。
これは本来は、「いしん」ではなく、「これあらた」と読み、日本書紀に記載された言葉です。
日本書紀の大化2年(646)3月の記事に、大化の改新の詔(みことのり)に応じた中大兄皇子が、
「天も人も
合(あい)応(こた)えて、
厥(そ)の政(まつりごと)
惟(これ)新(あら)たなり」
(原文)天人合応厥政惟新
と述べられました。
つまり、天皇のシラス統治のもとで、政治体制を一新することを「惟新」と書いたのです。
幕末には、この「惟新」を、あらためて「維新」と書きました。
「惟」は、心をひとつにつなぎとめる、という意味の漢字です。
のちに天智天皇となった中大兄皇子は、豪族たちの集合体だった日本を、新たにひとつの統一国家にしようとしたのです。
同様に幕末の人たちは、幕藩体制のもと、半ば独立した大名たちの諸藩の集合体だった日本を、新たに「もとからあるひとつの姿に戻そう」としたのです。
だから「維新」です。
つまり、19世紀の明治維新は、7世紀の大化の改新の再現だったのだということがわかります。
このような視点で、新たに歴史を再構成してみると、当時の諸藩の大名たちの意思も、徳川家の意思も、同様に外国の脅威の前に、あらためて天皇のもとに国をひとつにまとめようとしていたことがわかります。
そしてそれは、本来、内戦などまったく必要のないものでした。
日本の明治維新は、いくら「階級闘争論」でこれを説明しようとしても、まったくそれができません。
階級闘争史観では、歴史の再構築ができなくなるのです
なぜなら、革命を推進した武士たちは、革命が成就したあと、四民平等、廃刀令などで武士としての身分をすすんで放棄し、また藩籍奉還といって、藩主としての地位まで放棄し、捨ててしまっているからです。
維新の推進力になった武士たちが、維新成立後に武士政権を打ち立てたというのなら、これは革命です。
けれども、維新成立後に、その武士たちが武士の身分を捨てています。
薩長側に付いた公家も、幕府よりだった公家も、同様に身分を捨てています。
これらは、「欲得のために階級闘争を行う」というマルクス史観では、まったく説明がつかないことです。
もうひとついいますと、最近のことですが、旧幕府側を被害者に見立て、薩長対佐幕派の対立と闘争の結果、旧佐幕派が、ひどい目に遭った・・・つまりそれによって、旧佐幕派、あるいは幕府側の武士たちは、「恨(ハン)」の感情を持ち、それが我が国における「恨(ハン)の文化」になっているのではないかという、とんでもない説が、登場するようになりました。
いったいどこの国の話をしているのかと、呆れてしまいますが、異なる国や民族の低レベルな思考で明治維新を見るとそうなるのかもしれません。
けれど、そのようなくだらない理屈では、明治維新の再構築はできません。
なぜなら、佐幕派として戦い、敗れた側の武士たちが、維新後の明治政府で重用されているからです。
戦いに敗れれば、すべてを失うのは、歴史の常です。
けれど、そんなことでくじけるような、ヤワな神経は、当時の武士たちはまったく持ち合わせていないのです。
財産の全てを失っても、頭の中にあるものまで奪うことは誰にもできない。
だから、彼らは猛勉強をしたし、新政府の中で要職を得て行ったのです。
恨みというのは、状況を受け入れないときに生まれます。
我が国では、状況を受け入れ、そこから新たな出発をしていきます。
そこに恨みなど、生まれる余地はないのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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