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20170618 近江神宮
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20170526 古事記弐

【お知らせ】
 6月24日(土)18:30 第41回倭塾
 7月 2日(日)13:30 黎明教育者連盟講演
 7月15日(土)18:30 第42回倭塾
 7月17日(祝・月)18:30 CGS【ねずさんとふたりごと】公開収録
 7月14日(金)08:00 ABCフォーラム朝食会(テーマ:百人一首)
 7月23日(日)14:00 第 1回名古屋倭塾(テーマ:古事記)
 7月27日(木)18:30 第17回百人一首塾
 *****
古事記や日本書紀に書かれた天皇の御在位を単純にさかのぼると、初代神武天皇の御即位は紀元前660年になる、というのは、延宝5年(1677年)に渋川春海(しぶかわ しゅんかい)が発表した『日本長暦(にほんちょうれき)』に基づきます。
これが日本最古の長暦で、単に「長暦」とも呼ばれているものです。
この渋川説に基いて、明治5年11月15日(1872年12月15日)に、
「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」
(明治5年太政官布告第342号)
という布告がなされ、これによって、太陽暦の紀元前660年2月11日が建国の日とされ、同日が紀元節として祝日とされるようになりました。
ところがこの渋川説によると、たとえば神武天皇は137年御在位があったことになるし、第6代孝安天皇は123年、第10代崇神天皇が168年、第11代垂仁天皇が153年(いずれも古事記による)もの長い年月、御在位されていたことになってしまいます。
古事記をよく読むとわかるのですが、たとえば「海幸彦と山幸彦」の神話で有名な火遠理命(ほをりのみこと))は、豊玉毘売命と結ばれたあとに、
「高千穂の宮に五百八十歳(いほちまりやそとせ)坐(ま)しき」と書かれているわけです。
これは単純に見たら、あたかも現代の1年が580回分、つまり580年もの長い歳月、ご皇位に就かれていたと言う記述になっているように見えます。
戦後は、これらのことを題材に、「記紀の伝承は根拠のない作り話だ」とされるようになりました。

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ところが古事記は、その火遠理命よりも、もっと前の迩々芸命(ににぎのみこと)の章で、迩々芸命が石長比売を娶(めと)らなかったことにより、「歴代の天皇の寿命は短くなった」と記述しているのです。
つまり迩々芸命のところで、
「天皇の寿命が短くなった」
と記述しておきながら、その後に出て来る火遠理命(ほをりのみこと)では、580歳も皇位にあったと書いているわけです。
これは、明らかに矛盾する記述です。
ところが問題になるのは、ここで使われている漢字です。
火遠理命は、皇位に就かれる前に、海の神殿で
「3年過ごされた」
という記述があるのです。
ところが御在位期間は「580歳」と書いているのです。
つまり「年」と「歳」を使い分けています。
現代人の我々にとっては、「年」も「歳」も、同じく365日を意味します。
つまり我々現代人は、年も歳も同じ意味に使っているわけです。
けれど、どう見ても形が違う。字が違います。
では、「年」とは何か、「歳」とは何かというと、
「年」は、稲穂が稔って垂れた稲穂を人が刈り取っている象形文字です。
つまり「稲穂の稔り」から「次の稔り」までの期間を、「年」という文字で書き表します。
いまでもそうですが、西日本では、二期作が普通です。
つまり稲の収穫は、年に2回あります。
暦はそもそも農業と密接な関係を持っているものですから、当時の人々にとって、「1年」は、二期作の収穫から次の収穫まで、つまり現代人の我々から見た半年を意味しているとわかります。
では「歳」とというと、この字は左右の足跡と斧の象形からできている字で、要するに斧で生贄を捧げる神事を意味します。
そこから、神事から神事までの間の期間、定期的神事の区間が「歳」と書き表されるようになりました。
その定期的神事は、我が国なら毎月の祭祀がこれにあたります。
ですから私たちの祖先は、いまでいうひと月のことを「歳」と書いたのです。
ちなみに古事記の神話には、ひと月を表す文字は、他のたとえば「月」などは使われていません。
つまり古事記は、ひと月のことを「歳」という字で書き表しているのです。
このことは、不思議な事でもなんでもありません。
「歳時記」といえば、俳句の四季折々の歌などで使われる言葉ですが、俳句は各月ごとに季語があります。
いまでは「歳時記」を辞書でひいたら、「一年の折々の自然などを記した俳句集など」と書かれていますが、その句集をみれば、1月、2月と各月ごとに季題が書かれています。
いまなら6月ですから、田植やアヤメやメダカが季語です。
誰がどうみても「歳」は、各月のことを言っています。
ですからさきほどの火遠理命の580歳が月のことなら、これは陰暦の580ヶ月です。
つまり、およそ48年ということになります。
火遠理命は、豊玉毘売とご結婚され、長男の誕生を経て皇位に即位されて、その後48年間、高千穂宮でご皇位にあったと書かれているのです。
これは、きわめてまっとうな記述です。
要するに古事記は、
「年」と書いてあればいまでいう半年、
「歳」と書いてあれば一ヶ月
と、文字を使い分けているわけです。
しかも神武天皇について古事記は、
「神倭伊波礼毘古天皇御年壱百参拾漆歳」と書いています。
これは、どう読んでも神倭伊波礼毘古天皇(=神武天皇)が、天皇として御在位されたのが137歳ということです。
つまり137ヶ月間御在位だったということで、単純に陰暦のひと月を平均29.5日/月とすれば、およそ11年間「天皇として」御在位されたという記述です。
全然、不思議な事でもなんでもないのです。
ただ、だからといって、私は渋川暦に基づく、神武創業西暦紀元前660年ということまで否定しようとは思いません。
上のように計算すれば、また違った創業年が出てこようとは思いますし、その時期はおそらく2〜3世紀頃にまで降ろうかと思いますが、渋川暦は、皇紀の始まりをどこにしようという話であって、これは古事記の読み解きとはまた別な話です。
本居宣長以降、古事記の読み解きに挑戦した学者はたくさんいました。
渋川春海も、その中のひとりです。
「明らかにおかしい」からといって、それを馬鹿にしたり、ないがしろにしたりすることは間違っていると思うのです。
どこまでも、以前の研究者がいてくれたからこそ、そこを土台にして新しい見方ができるようになる。
全否定してしまうのは、それは学問ではなくて、政治です。
現時点でいえることは、古事記はちゃんと「年」と「歳」とを分けて記述しているということだけです。
古事記も日本書紀も、天皇の詔に始まり、天皇に提出された書です。
それだけに、当時の人たちがいい加減なことを書いたとは思えません。
どこまでも誠実に真面目に取り組むのは、日本人の美質です。
そして古事記が書かれた時代というのは、白村江の大きな敗戦があり、一方でChinaには唐という強大な軍事帝国があった時代です。
我が国は、まさに国の存亡をかけて、
 1 律令制定
 2 都建設による行政機能の充実
 3 国史編纂(へんさん)
を実施し、またこの時代に朝鮮半島を切り捨てています。
そうしなければ、日本が壊れてしまうという危機感が背景にあったからです。
なかでも4の「国史編纂」は、重要な柱です。
戦後に独立したいわゆる新興国は、すべて国民国家を標榜していながら、同時に独自の国史の編纂とその教育に力を入れています。
なかには力を入れすぎるあまり、それ以前のちゃんと記録の整った時代さえも全否定して国民を誤った方向に導びき、そのことがバレないようにと、民衆が昔の文献を読めないように使う文字まで変えてしまったりしている国もあるわけです。
国史の重要性は、すべての国が自覚していることです。
なぜ国史が重要かといえば、国史は、その国のアイデンティティを形成する根源となるものだからです。
国民がそのアイデンティティを共有することで、国家国民は一体感を持つのです。
ですから、これまた面白いことに、いま世界に197ある国は、どの国も全部、国史を持っています。
古事記もまた、大切な国家的事業として書かれたものです。
しかも天皇に献上された書であると、その序文に書かれています。
そしてそこに書かれた内容は、全国の諸豪族たちも、ちゃんと納得できる内容であったわけです。
もし現代人の歴史教科書が、昭和天皇が二番年歴で128年御在位されていたと書かれていたら、誰も納得出来ないと思います。
同様に、当時にあっては、「年」は二倍年歴、「歳」はひと月でなければ逆に誰も納得できなかったわけです。
要するに古事記は、ちゃんとしたことを書いているわけです。
それをちゃんと読み込めなかったということなのです。
つまり、古事記がおかしいのではなくて、読み解けない方が、実はおかしかったのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
PS:本日の記事内容と、紀元前660年を出発点とする皇紀とどのように繋がるかというご質問をいただきました。
紀元前660年が江戸時代の渋川説、建国記念日が干支から2月11日であるとしたのが、明治のはじめの文部省で、いずれも日本書紀に依拠しています。
それはそれで良いのだと思います。
私が行っているのは古事記の読み解きであって、対外用に書かれた日本書紀の読み解きではありません。
またそもそも古事記と日本書紀では、御在位年数等の記述が全然異なっています。
従って、本日の議論と、皇紀論とは、まったくかぶりません。
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