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◆『ねずさんと語る古事記・弐』が予約開始となりました。

◆【お知らせ】◆
6月 8日(木)18:30 第16回百人一首塾
6月24日(土)18:30 第41回倭塾
7月 2日(日)13:30 黎明教育者連盟講演
7月15日(土)18:30 第42回倭塾
7月23日(日)14:00 第 1回名古屋倭塾
7月27日(木)18:30 第17回百人一首塾
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1枚の遺書をご紹介します。
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二十二名の私たちが自分の手で生命を断ちますこと、
軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、
深くお詫びを申し上げます。
私たちは、敗れたとはいえ、
かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、
私どもの魂は永久に満州の地に止まり、
日本が再びこの地に帰ってくるとき、
ご案内をいたします。
その意味からも、
私どものなきがらは土葬にして、
この満州の土にしてください。
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これは満州で集団自決した看護婦の乙女たちの遺書です。
そしてこの遺書は、
昭和21(1946)年6月20日、
つまり「終戦後」に書かれた遺書です。
日本は戦争が終わって武装解除しました。
けれど、そのために犠牲になった多くの命があったこと。
このことを私たちはしっかりと記憶にとどめて置く必要があると思います。
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この無垢な女性たちの悲劇については、拙ブログ記事
「祖国遙か」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1653.html
に詳しく書いていますので、そちらを御覧ください。
長文ですが、実話です。
まだお読みでない方は、是非一度目を通していただければと思います。
この犠牲になった女性たちをお祀りしているのが、埼玉県さいたま市大宮にある青葉慈蔵尊です。
いまもこのお慈蔵さんには、献花が絶えません。
それは、行政によって行われていることではなく、民間の有志がいまなおずっと私費で続けていることです。
このノン・フィクションを拙ブログで取り上げたとき、その話が捏造だ、嘘だと大騒ぎするクズ共がいました。
当時私が主催していた会から除名された連中で、あとになって彼らはクソ好きな国から来た在日とわかりました。
記事にも書いていますが、私は事件当時生きていたわけではありません。
ですから事件当事者ではなく、事件を目にしたわけでもありません。
しかし、私たちの同胞にそうした歴史があり、そのためのお慈蔵さんまで建立され、いまなお献花が続けられている。
このことは、私たちはしっかりと記憶にとどめておくべきだと思うし、そこから何かを学ぶことはとても大事なことだと思っています。
彼女たちが亡くなったのは、Chinaの東北省の長春市となっているところです。
けれどそこはかつて、新京(しんけい)と呼ばれる満洲国の首都だったところです。
そしていまなお美しさを失わない長春市の市街地は、日本人技師の加藤与之吉らによって、都市計画がなされ建設されたものです。
その満洲国のご出身の方に、鳴霞(めいか)さんとおっしゃる方がいます。
「月刊中国」の日本語版の主編をしておられます。
彼女は、満洲国・瀋陽市の出身で、生粋の満州人(女真人)です。
彼女から直接聞いた話ですが、彼女の母は、まだ幼かった彼女に、何度も繰り返して、
「ここが満洲国だった時代にはね、
家に鍵なんてかけたことなんてなかったんだよ」
と話してくれたそうです。
満洲国というと、あたかも日本軍が威張り散らしていて、馬賊匪賊が横行していた、暗くて恐ろしい恐怖の場所だったような宣伝が、戦後長く行われました。
しかも、満洲国は傀儡国家であったと宣伝され、満洲国という国があったことさえも否定されていて、必要があってどうしても国名を書かなければならないときは、学会では「偽満洲国」と書かなければならないなどの制限が、いまの日本国内にあったりします。
しかしひとつ申し上げたいのは、当時の満洲では、Chineseによる年間30万件もの鉄道への嫌がらせ被害があり、なるほど馬賊匪賊といった武装集団が横行していたとはいえ、現代日本よりは、はるかに治安がよく安全で住みよく、しかも豊かで美しい街であり国であった、という事実です。
また、満洲国が日本が支配する傀儡国家であったということも、ただの宣伝にすぎません。
それどころか、滅亡しかけた清朝を日本が救った証(あかし)こそ満洲国です。
私たちはなんとなく「辛亥革命によって、清王朝は滅びてなくなった」と思い込まされています。
多くの歴史教科書もそのように記述しています。
けれど事実は少し異なります。
東洋最大の帝国であった清朝は、18世紀以降、欧米によって領土を蚕食され、広州一帯から九龍半島に至る長江流域の一帯は英国の、満洲一帯から蒙古、新疆一帯はロシアの、広東省・広西省などの越南地域はフランスの、山東省はドイツの植民地となりました。
つまりこの段階での清朝の版図というのは、実質的にはすでに北京周辺の限られた地域だけのものとなっていました。
その清は西太后の死後、近代化改革に踏み切りました。
それは、すでに植民地化されていた地域にも一定の治安を確立して国民の安全をはかること、および諸外国に対して清国政府が一定の責任を持つようにしていくことが目的でした。
そのために清国は、欽定憲法大綱を発表し、国名も大清帝国と改称しています。
しかしそれも間に合わず、清朝は1912年の辛亥革命によって最後の皇帝の愛新覚羅溥儀が皇帝の地位から退位しました。
これで清朝は「滅亡した」と大抵の本が書いているたね、多くの人が清国が「なくなった」と思ってしまうわけですが、実はそうではありません。
これは清の皇帝が皇位の座から降りたということであって、清国そのものが消滅したわけではありません。
Chinaの歴代王朝は、Chinaにおける最大の国王が皇位に就くというものです。
たとえは悪いですが、ものすごくわかりやすく言うと、全国の独立した暴力団の中の最大の組長さんが、組長三たちの頭(かしら)を名乗っているようなものです。
ですから、その組長さんが頭(かしら)の地位を退いたとしても、組そのもがなくなるわけではありません。
そもそも清王朝というのは、Chinaの漢民族による王朝ですらありません。
満洲あたりにあった女真族(満州族)による外来王朝です。
満洲あたりを拠点にしていた半遊牧民族である女真族が、漢族の住むエリアを征服して植民地化し、北京に皇都を築いた王朝です。
そして1912年にあった出来事は、その清が皇帝の地位を退いたというだけの意味であって、清國がなくなったわけではないのです。
ですから皇帝であった溥儀はその後も北京の紫禁城に住み続けていたし、そこで盛大に結婚式をあげて正妻、側室を得ているし、紫禁城内で生活もしていたし、紫禁城にいた行政官たちもそのまま保持されていたし、近隣国からの朝貢も、ずっと続けられていました。
皇帝であった溥儀は、単にChina全土を統括する皇帝という名の植民地支配者という地位を失っただけで、清王としての地位はそのまま継続していたし、諸外国も相変わらず清王の溥儀を清国の統治者として見ていたのです。
その溥儀が、クーデターによって紫禁城を追われたのが1924年(大正13年)のことです。
追われた溥儀は、本来なら、もともとの女真族(満洲族)の支配地・根拠地である満洲に戻りたいところです。
ところがその頃の満洲は、北部をソ連が植民地支配していました。
また日本も南部の治安に責任を負担していました。
そこで溥儀が保護を求めてやってきたのが、天津にあった日本租界(日本人街)です。
なんのためかといえば、もともといた満洲に帰るためです。
日本は、その溥儀を手伝って1931年に溥儀を満洲に移り住ませました。
けれどそのままでは、溥儀は満洲でいつ殺されてしまうかわかりません。
そこで日本は溥儀の満洲国再建の手伝いをしました。
こうしてできたのが1934年に建国された満州国で、溥儀はその皇帝に就任しています。
つまり、中原を植民地支配していた皇帝は、領土を欧米列強に譲り渡しながら存続を図ったけれど、クーデターによって皇帝としての地位を追われ、一回の王となってさまよい、もともとの出身国の満洲に帰って、そこで満洲国皇帝となって復活したわけです。
清は失くなったわけではないのです。
そもそも、清の国号は、本来は「大清」です。
これは、満州語の「Dàqīng」を漢字に置き換えたもので、もともとは、この音を「女真」と書いていました。
ですから、溥儀は北京にあった「Dàqīng」国皇帝から、もとの建国された満洲に戻って「Dàqīng」国皇帝となったわけです。
つまり、「Dàqīng」国は、「Dàqīng」国として、そのまま生き残ったのです。
満洲が日本の傀儡国家であったという記述も、おかしな記述です。
日本はどこまでも、対等な国家として満洲国皇帝を遇していたからです。
その満洲は、昭和20年(1945年)に、日本の敗戦の際にソ連によって滅ぼされました。
なぜ滅ぼされたかというと、皇帝だった溥儀がソ連の捕虜になったからです。
そしてソ連によって、満洲国の行政も破壊されました。
このとき、満洲には多くの日本人がいました。
満洲の西側の、いまでいう内モンゴル自治区ウランホト市にあった葛根廟では、8月14日に、日本人の非武装の避難民約千人が、ソ連の戦車隊の機銃掃射とキャタピラによる轢き殺しによって殺されています。
こうして満洲を摂取したソ連軍は、日本人看護婦のいる赤十字の病院の入院患者を、重病傷者であっても追い払い、看護婦の一部を文字通りの性奴隷としました。
そしてそうなると知った看護婦たち22名が、集団自決したときの遺書が、冒頭の遺書です。
14世紀の大航海時代に始まる欧米列強の植民地支配は、世界中の有色人種を奴隷化するものでした。
人間というのは、白人だけのことであり、肌の色の異なる者は、人の形をした動産とされました。
彼らの感覚としては、有色人は、痛みを感じる神経もない。
だから、いくらぶっても安心と考えられていました。
冗談のようですが、本当のことです。
要するに、有色人種は、認識として「人間ではない」のです。
このような差別は、同一民族内にもありました。
典型的なものが、半島における両班(やんばん)と白丁(はくてい)です。
もし李氏朝鮮の時代の半島に行って、貴族階級にあった両班たちに、
「白丁も君たちと同じ人間なのだ」
あるいは、
「両班も白丁も同じ朝鮮族だ」
などと言おうものなら、おそらく狂人扱いされたでしょう。
清王朝にとって、漢族も、やはり人間として認識されません。
清王朝は栄えある満州族であり、満州語を話し、満州語を書きました。
当然、漢族とは言語が異なりますし、漢字も使いません。
使うのは、満洲文字であり、満州語です。
清王朝の時代に、紫禁城内にいる女真人(満州人)貴族に、
「君たちは、紫禁城の外にいる漢族と同じ人間だ」
などと言ったら、おそらく狂人扱いです。
このように、人種差別、民族差別、同じ国、同じ民族内での身分差別は、世界中のいたる所にあったのが、19世紀までの世界です。
こうした世界にあって、唯一、有色人種国として、支配層に立ち向かったのが日本です。
日本には、もともと、そうした差別という概念が存在しません。
太古の昔から、民衆は国家最高権威である天皇の「おほみたから」であり、
神々の国である高天原と同じ統治を地上に実現しようとしてきたのが日本です。
その根拠は神話にあります。
そして高天原では、末端も全員神様です。
その神様たちを天照大御神が、「おほいたから」とされています。
それと同じ統治を、地上において実現するようにと派遣されたのが、天照大御神の孫の迩々芸命(ににぎのみこと)です。
そして歴代天皇はその迩々芸命の直系男子です。
ですから天皇の地上における統治は、国家国民をすべて「おほみたから」とするものです。
そしてそのために権力を与えられ、「たから」である民や国土が豊かに繁栄していくことに責任を負ったのが、臣(おみ)です。
今で言ったら、大臣であり、政治家であり、行政官僚たちです。
ですから日本には差別はありません。
誰もが天皇の「おほみたから」だからです。
ただし、正常な社会を営もうとするとき、これに反逆したり、調和を見出そうとするクズは、いつの世にもいます。
複数国籍を持っていて、それを指摘されても平気で党首におさまって自分のことをタナにあげて、政府の悪口を事実をすり替えて追求したり、もらってもいないお金をもらったと言ったり、されてもいないレイプをされたと言って騒ぐような連中です。
そうしたクズは、正常な社会を営むときには、社会から隔離しなければなりません。
世界にはそのために刑務所があるし、あるいはもっと大掛かりな隔離施設があります。
そしてこの手の隔離のことは、差別とは呼びません。
社会を維持するための正当な手段です。
そして正常な社会関係において、日本には身分上の区別は当然のこととして存在しましたが、人としての差別はありません。
ですから日本は、欧米列強の脅威が迫ったとき、国をあげてこれと戦い、日清、日露、第一次世界大戦を経由して、世界の植民地支配と戦い、その支配の構図を転換させました。
ちなみに世界の植民地支配は、大東亜の戦いによって消されたと述べる方がいますが、実はそれだけではなく、日本は昭和27年の主権回復後、かつて差別を受けていた世界中の様々な国に経済援助や、工場の設置などを続けることで、彼らの国々が独立し、豊かな国や民族に生まれ変わるための援助をしてきています。
こうすることで、21世紀になった今日、19世紀までの世界にあった、人種差別と人間を人間として扱わない差別は、世界中からほぼ消え去っています。
もし、日本という国がなければ、中共も南北朝鮮もASEAN諸国も誕生していません。
しかし、その過程の中にあって、冒頭にご紹介したような女性をたちを含む、日本人の多数の無垢な命が失われていたのです。
二度とそうした悲劇を繰り返さないために、そしてまっとうに生きている無垢の人々を守るために、私たちの国、日本は、あらゆる面において強くならなければならないと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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満洲は、本当に美しい国でした。


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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

