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20170131 日本の風景
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川井東村(かわい とうそん)は、裕福な家に生まれ、生活に何も困らず、親から受け継いだ財産と商いで、何不自由なく暮らすことができました。
ところが東村は、齢50歳を過ぎて、自らはるか年下の山崎闇斎に師事し、これによって学問を身につけ、後世に名を遺しました。
東村は、当然それなりの教育はあったのです。
けれど、その教育と思っていたことが、実は、まるで底の浅いものであったことに気付いたのです。
東村は25歳のとき、それは寛永年間といいますから、三代将軍徳川家光の時代です。
父の正次から、25歳になる息子の東村に、家督を相続しています。
このとき父が東村に言って聞かせた言葉が、
「財産は失っても構わない。
 財産を増やそうなどとは決して思うな。
 もし増やそうとすれば、必ず道を誤る」
というものであったそうです。
それなりに、しっかりとした家庭に育ったことは、この一事をもっても知ることができます。
ところがその頃の東村は、無類の酒好き女好きで、いわゆる放蕩息子のたぐいでした。
それは、あまりの夜遊び酒量の過ぎで、それがもとで病に倒れるのではないかと、本気で父母は東村を心配していたくらいのものでした。
そんなある日、林一之という者が東村に告げます。
「君が痛飲することは構わない。
 しかしそれによって身を傷つけることは、
 親の恩を忘れる罪ではないか」
これを聞いてより東村は、その日を境にピタリと酒も夜遊びも辞め、宴席においても、盃を舐めるだけで、けっして酒を飲むことはなくなったといいます。
これは、当然といえば当然の忠告ではありますが、同時に、忠孝を説く儒教の教えによるものです。
この時代、教育といえば、China生まれの儒学を身につけることでした。
けれど、何かが納得できない。
だから東村は、酒食に溺れました。
けれど、溺れることが間違っていることも、同時に気付いていました。
そして、家督を相続したこと、商売に精を出さなければいけなかったことから、彼は、自分の受けてきた教育を忘れ、それよりも実社会における商いに精を出し続けたのです。
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東村は、商いの世界における成功者となりました。
もともと、豪商の家なのです。
東村は、その商いをさらに拡大させ、安定させ、ゆるぎない盤石の大店を築き上げました。
そして50歳になった頃、山崎闇斎(やまざきあんさい)の名声を聞くのです。
目からウロコが剥がれ落ちるというのです。
しかもそこで説かれていることは、輸入物の儒学ではなく、本当の日本の凄さ、生きる上で本当にたいせつなことそのものだというのです。
ウワサを聞いて、東村も、その門に入ろうと思い立ちます。
山崎闇斎は、東村よりも14歳も年下です。
その入門のとき、闇斎は言いました。
「道に入ることは、敬うことです。
 なによりも、敬うことを先にしていただきます。
 子は不幸にして時を過ごします。
 読書を必ず行い、実践を専らとしなさい。」
東村は、自分よりもはるかに年下の闇斎の言を受け入れ、諸事師匠先輩を敬い、少しも奢らず、腰を低くして礼を失することがないよう、努めました。
闇斎の門下生の中にも、議論好きの者はいました。
ときに細事にこだわって激論になることもありました。
けれど東村は、そのような議論を、ただ「フクロウが鳴くに似たり」として、相手にしない。
些事にこだわり、対立し、喧嘩をするのでは、その時点ですでに山崎闇斎の教えから逸脱しているのです。
東村は、腰を低くして、求められれば、冷静に議論の前に必要な理を説きました。
そんな東村は、塾内でも次第に一目置かれる存在になっていきました。
山崎闇斎も、そうした東村の態度を、時折、褒めました。
東村が新たに雇った人の中に、人を敬愛することを知らず、傍若無人の振る舞いの目立つものがいました。
ところが東村はこれを諌めようとしない。
ただ深く慰撫するのみであったそうです。
すると、数十日を経ずして、その者は、自ら抑制をするようになり、東村に見られると、自然と自らを恥じるようになったそうです。
そして後には、篤実恭謙の人となったといいます。
こうして東村は、みずからの態度で、信頼の和を周囲に広げていきました。
そんな態度は、東村が77歳で没するときまで、ずっと続いたそうです。
議論はとても大切なことです。
けれど、議論の前に、両者に共通して何が大事なのか、何を求めているのかという共通項がちゃんと定まっているのでなければ、議論をする意味がないということを東村は教えてくれています。
よくある話に、中共や韓国との歴史認識のための有識者会議なるものが企画され、実施されることがあります。
お互いに、ただ言い張っているだけ。
ただ自分の言い分を述べあっているだけ。
それで大激論になったとして、何が結論になるのでしょうか。
出席する中韓の学者の立場は、国もとにある特定の人の利益のための代理人です。
実際の歴史がどのようであったかは、何の関係もない。
歴史認識で日本に譲歩を求め、日本が譲歩すれば勝ちです。
彼らはそのためにその場に出席しています。
日本人にとっての歴史認識は、過去にどのような事実があったのかを冷静に知ることにあります。
それは、民衆の幸せに何が大事なのかを、過去の歴史をもとに紐解こうとするためのものです。
土台となる立地点が違うのです。
何月何日何時何分に南京で何があったかといった議論は、両者ともに、ただ、それらの目的を達成するというための、これはいわば枝葉末節です。
議論の土台となる前提として、両者が何を得ようとしているのか、そこが定まっていないのに、ただ目先の問題で議論しても、うまくいくはずがないのです。
だから多数決で、最後は、数の多い側の議論で押し切ろうというのが、いわゆる多数決型議会制民主主義です。
けれど、基本となる立場の違いについてが、おざなりになっているのですから、多数決で押し切られた側には禍根が残ります。
こうして政治の世界は、ねたみ、うらみ、そねみ、足の引っ張り合いの巣窟となります。
はたして、それが民衆にとって本当に求められる政治の姿なのであろうか、ということを、川井東村の行動は考えさせてくれます。
次元の低い議論は、馬耳東風で構わないのです。
それがススやゴミなら、掃いて捨てるだけです。
掃除をしなければ、国が汚れるのです。
それだけの高みを、私たちの国は築いてきたのです。
そのことを、私たちはいまいちどしっかりと踏まえる必要があるのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
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20160810 目からウロコの日本の歴史

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