
山鹿素行(やまが そこう)の父の、山鹿高道は、伊勢亀山の関一政(せき かずまさ)に二百石で仕える人でした。
関一政は、秀吉から5万石の城主を与えられています。
実は関一政は、慶長年間に同僚と諍いを起こし、相手を斬り殺して、その責任をとって亀山藩を出て奥州会津で、蒲生忠郷(60万石)の食客となっていたという経歴を持ちます。
そこでも大成して、町田左近と改名し、三万石を得る大名となりました。
山鹿高道は、この頃に関一政の家来となって、250石の俸禄をいただくようになります。
そして元和8(1622)年に、素行が生まれました。
ところがそれからいくばくもなくして、上司の町田左近は藩内でトラブルを起こして、ふたたび藩から放逐されてしまうのです。
町田左近は、江戸に出て幕府に5千石で雇われ、百人隊長となり、このとき山鹿高道に、騎士となるように薦めるのですが、高道はこれを拒否し、長男で山鹿素行とは異母兄弟となる山鹿惣左衛門に、代わりにその役目を継がせ、自分は髪を切って、玄庵と称して江戸で医者を開業しています。
これが山鹿素行、三才の頃です。
山鹿素行は、6歳で寺子屋に入るのですが、たいへん優秀な子供で、なんと9歳で林羅山の門下生となります。
これはいまでいうなら、小学4年生で全国有名進学高校に入学してしまったようなものです。
林羅山の門下生となって以後も、その優秀さは群を抜いていて、わずか11歳で小学、論語、貞観政要などの講義を任せられるようになり、さらに12歳のときには、林羅山から、二百年の伝統ある見台を使って講義を行うようにとの栄誉をいただいています。
さらに18歳になると、山鹿素行は北条氏長に就いて兵法の書である六韜 (りくとう)、三略 (さんりゃく) を学び、そこでも、稀有の才を発揮しました。
こうした山鹿素行の天才性は江戸においてもたいへんな評判となり、山鹿素行が22歳の頃には、彼の講義を聞こうとする学生が、門前に列をなすようになったと伝えられています。

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この頃の山鹿素行の学問は、宋学であり、程朱学でした。
宋学は、宋代に生まれた儒教思想です。
もともと儒教を学ぶということは、単に字句の解釈を学ぶだけで、これは思想と呼ぶものではなかったのです。
たとえば「温故知新」は、論語の為政篇にある言葉ですが、
これは単に
「古いものをたずね求めて新しいことを知る」
というだけ意味です。
ところが宋学になると、これが思想となって、
「新しいことを知るためには古い事柄を調べなければならない」に変わります。
さらに程朱になると、これは程顥(ていこう)、程頤(ていい)と朱熹(しゆき)によって宋代に体系化されたものですが、
「故事にならって行動することを義という」
といったように、行動規範に発展します。
山鹿素行は、9歳から40歳まで、これら宋学、程朱に没頭したわけで、その世界における当時の第一人者であったし、山鹿素行の門人たちは、彼の持つその儒学の知識や行動規範を学ぶため集っていたわけです。
ところが40歳になった頃、山鹿素行は、それまで約30年を費やしてきた自らの学問に疑問を持ってしまうのです。
「間違っている」
と知ってしまうのです。
素行の手元には、それまでに学び、また溜め込んだ儒教関連の本が、それこそ山のようにありました。
素行は、それらの書籍を、すべて焼き捨てました。
そして45歳のとき、あらためて『聖教要録三巻』を著します。
この書の中で、山鹿素行は、程朱を非難し排斥し、その学問、語句のいちいちについて、徹底して批判を行いました。
天才的な頭脳を持ち、まる30年をかけて程朱、宋学を学んできた山鹿素行であったからこそ、その儒教の持つ欺瞞性にあますところなく気付いたのです。
どういうことかというと、ものすごくひらたくいえば、儒教も程朱も宋学も、
「所詮は能書きばかりであって、実学になっていない」
ということです。
宋学も程朱も、能書きは立派です。
枝葉末節の、たとえば親孝行の道や、学問への道については、立派な規範が書かれています。
けれど、それらのすべては、結果として、高位高官の者に利をもたらすばかりであって、民には何の益もないのです。
もっというなら、世の中の頂点に立つ人にとっては、たいへんに都合の良い部下を得ることに役立ちはしますけれど、世の中で大切なものは、民そのものなのです。
その民のために、では宋学や程朱がどれほどの役に立つのかといえば、答えはゼロだというのです。
そして、そうであるとするならば、そのようなものは学問の名に値しない、ただの屁理屈にすぎない・・・と素行は気付いてしまうのです。
気がつけば単純明快なことです。
当時の東洋社会(実は西洋も同じですが)、政治は、一部の人の利益・・政治を司る者の利益のためだけに行われるものでした。
そもそも政治の「政」という字がそうなのです。
「政」という字は、一義的には、「正しきを行う」という意味を持った字です。
意味は、そうです。
けれど、その字の成り立ちは、「正」の部分が国や村で立ち止まる、「攵=攴」の部分が、右手てぶん殴ることを意味する会意兼形声文字です。
つまり、武力を持った役人や軍人が村にやってきて、村人たちをぶん殴って、作物などを強制的に持っていってしまうことが、「政」という漢字の成り立ちです。
そうやって富を集め、集めた高位高官、あるいは王侯貴族が日々、贅沢三昧の暮らしをする。
そのための学問が、China式の儒学であり、その実践を説いたものが宋学や程朱です。
これによって築かれる豊かで安定した社会は、王侯貴族や官僚にとっての豊かで安定した社会であって、民にとっては地獄です。
そして現実に、Chinaでは、まさにそのような社会が、千年以上にわたって続いているわけです。
つまり、儒学は、どのように言葉を飾っても、その根っこのところにいかがわしさがあるわけです。
このことは、もしかするとオウム事件によく似ているかもしれません。
なんとかサティアンに住んでいた信者たちは、オウムを信仰することで幸せになれると信じていたし、素直に本気になってそれを実践していたわけです。
けれど、根っこのところにあるのは、ただの歪みそのものであったわけです。
山鹿素行は、その儒学を信じ、生涯をかけて追求し、その追求の結果、儒学の持ついかがわしさに気付くわけです。
このことは、戦後の全共闘世代が、熱心に共産主義革命を信仰し、その実現のために青春を捧げ、その理論の習得のために、マルクス主義を真剣に学び、また人に教えてきた姿によく似ています。
真面目だから、のめりこむのです。
人間、人との出会いは貴重です。
山鹿素行は、齢40になろうとする頃、神道家の廣田坦斎らと出会ってしまうのです。
そしてそこで彼は、「民こそがたから」であるという日本の古くからの教えを学びます。
つまり、儒教だけに前半生を捧げてきた山鹿素行が、儒教とはまったく異なる、古くからある日本的価値観に出会ったのです。
日本における「政」は「まつりごと」です。
もともと日本語に「まつりごと」という言葉があり、それに近い漢字として、後から「政」という字を輸入しているのです。
その「まつり」とは何かといえば、神々とつながることです。
なぜつながるのかといえば、神々の「たから」を慈しみ、誰もが豊かに安全に安心してくらせるようにしていくためです。
その「たから」とは、田ではたらく、はらから、です。
はらからとは、同じ腹から生まれた子孫です。
つまり、王侯貴族も一般庶民も、みんな兄弟姉妹であり親戚であり、同胞だというのが、日本の古くからの教えです。
だからその「たから」たちが、みんなが幸せに暮らせるようにしていくこと、そうさせていただいていることに感謝することが、日本における「まつりごと」です。
つまり太古の昔から、日本におけるまつりごとは、民のためのものであったのです。
民は働き蜂などでは決してなく、民こそが、いちばん大切なたからなのです。
そして政治権力よりも上位の天皇という最高権威があり、その政治よりも上位の最高権威が民を「たから」としていることによって、我が国の政治は、常に天皇の民をたいせつに慈しむことを目的として行われ続けることができたのです。
つまり、中華文明というけれど、中華を名乗るChinaには、儒学の目指す楽土などは毛ほども存在せず、その意味において、中華と呼べるのは、むしろ日本そのものである、ということに山鹿素行は気付いてしまうわけです。
このことに気付いたとき、山鹿素行は、それまでの学問の一切を捨てました。
しかしこの時代というのは、王侯貴族から庶民に至るまで、学問といえば程朱、宋学を意味した時代です。
そして天皇を中心とする世の凄みを解き明かした山鹿素行は、将軍家のお膝元にあって、将軍の権威を脅かすものというレッテルを貼られることになります。
こうして山鹿素行は、江戸所払いとなります。
その素行を、藩の学問掛として雇ったのが播州赤穂の浅野内匠頭です。
浅野内匠頭は、父も交えて山鹿素行の弟子となり、その教えを乞いました。
そして山鹿素行に1千石を与えました。
このとき山鹿素行45歳です。
その後、55歳で赦免にあって江戸に帰りました。
そしてその後、10年で没しています。
山鹿素行は、その資質は、古今にまれな英邁であり、個人の利害を超越して真実の追求のできる人物でした。
そしてそれだけに江戸に戻った山鹿素行のもとには、毎日数十から数百人がその門を出入りしたといいます。
その門下生は、江戸にあって4千人です。
逸話があります。
由比正雪は、山鹿素行よりも17歳年上でした。
由比正雪は、素行の評判を聞いて、会いに行きました。
このとき素行は由比正雪に、季節の寒暖の話のほか、いっさい何事も語らなかったそうです。
そして後日、近親の者に、
「彼の容貌を観、
またその意とするところを察するに、
計り知れないものがある。
君子たる者は、
彼のような者を近づけてはならない」
結果は、素行の見立ての通りとなりました。
人は、人を観るものです。
そして眷属(けんぞく)という言葉があるのですが、おおむね自分に近い人に自然と近づいていくものです。
民をぶったたいて、税を取り立てて自分が贅沢することに利用することを政治と思う人、世界中のお金持ちや権力者を殺してその財を奪えば、自分に幸せがやってくると思う人(共産主義のことです)は、実は、同じ穴のムジナです。
そしてこのような人たちにとっては、論語も儒教も宋学も程朱も、すべては自分が得をするため、自分が贅沢をするためのものでしかありません。
そしてそのような人たちが、決まって用いること。
それが、
「対立をあおること」
です。
そしてそのために、人の悪口を言い、ウソのウワサをまき散らし、そして「自ら学ぼうとする謙虚さ」を微塵も持たない。
やっていることは、ただ対立を煽るだけです。
せっかく人としての生を受けながら、大事な自分の一生を、そのような、ただ対立したり、対立を煽ったりすることだけに捧げるのでしょうか。
もちろん、カマドのススを払うことも大切です。
部屋は掃除をしなければ汚れます。
社会も同じです。掃除をしなければ、ゴミ屋敷になります。
けれど、掃除と対立は異なります。
対立は、相手と同じレベルに落ちることを意味するからです。
それよりも、何をもってゴミとするか。
ゴミであるものと、そうでないものをきちんと見極める。
そのためにあるのが学問です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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