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昭和20(1945)年7月29日、沖縄県宮古島を飛び立った7機の海軍特攻機が、午前1時、那覇市南西90キロの海上において米駆逐艦キャラハンその他3隻の艦艇を撃沈破の大戦果を挙げました。
このとき使われた特攻機は、通常の戦闘機ではなく、日頃、「赤トンボ」と呼ばれる練習機でした。
写真の九三式中間操縦練習機です。
この飛行機は、昭和9年に採用された複葉機です。
躯体は木でできていて、翼は布張りです。
もともと練習機として採用された飛行機で、日ごろは目立つようにオレンジ色に塗装されていたことから「赤とんぼ」の名前で親しまれていました。
もっとも大東亜戦争の末期には、自動車で言ったらすでに11年落ちです。
この時代は、ものすごい勢いで飛行機が進化した時代で、写真を御覧頂いてもわかるように、この飛行機は先の大戦中には完全に型落ちの旧型機でした。
ただ、良いところもあって、燃料のガソリンには、アルコールを混入した「八〇丙」という劣悪な燃料でも飛ぶことができましたし、機体が軽いので、小さな馬力のエンジンでも飛ぶことができました。
だからこそ練習機であったわけですけれど、大東亜戦争末期の昭和20年は、日本の石油輸入量はゼロです。
それだけに、ある意味、貴重な飛行機でもあったわけです。
昭和20年7月27日といえば、終戦のわずか半月前のことです。
この日、台湾の竜虎海軍基地で、この九三式中間操縦練習機で、夜間爆撃訓練をしていた三村弘上飛曹以下7名、計8名に、特攻命令が下りました。


【倭塾】(江東区文化センター)
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【百人一首塾】(江東区文化センター)
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第13回 2017/3/23(木)18:30〜20:30 第三研修室
三村弘上飛曹以下7名は、7月28日の早朝に台湾の新竹基地に到着しました。
そこで彼らに「神風特別攻撃隊第三竜虎隊」の命名式と別盃式が行われました。
式が終わるとすぐに出発しました。
台湾の宜蘭基地を経由して、石垣島へ転進です。
そして石垣島から先島諸島へ、そこから宮古島へと移動しました。
本来なら、台湾からひとっ飛びの距離です。
しかし、それができるだけの性能が、この飛行機にはありません。
燃料も持たなかったし、飛行速度が遅いから、飛ぶのに時間がかかるのです。
実はこの移動だけでも、九三式中間操縦練習機(赤とんぼ)にとっては、たいへんなことでした。
実は、「第三竜虎隊」に先だって「第一、第二竜虎隊」が台湾を出発しているのです。
しかし、第一も第二も、飛行中に機体に故障が続出、さらに天候不良が重なって、両隊ともほぼ全機が与那国島へ不時着してしまっていたのです。
しかも全機、飛行不能です。
エンジンに無理がかかってしまったのです。
28日夜半、「第三竜虎隊」は、赤トンボに、250キロ爆弾をくくりつけました。
無茶な話です。
当時、特攻に使われた戦闘機の多くは、2000馬力級のエンジンを搭載しています。
対する赤トンボは、わずか300馬力です。
そこに250キロ爆弾をくくりつけるというのは、原動機付き自転車で大型ダンプカーを牽引するようなものです。
機の性能の限界を超えています。
ですから宮古島を離陸した「第三竜虎隊」は、まず8機のうちの1機がエンジントラブルに見舞われました。
限界を超えてエンジンを全回転させているのです。無理もないことです。
やむをえず、その機は宮古島に引き返したのですが、着陸までエンジンが持たずに飛行場で大破しています。
残る7機は、三村隊長機を先頭に、整然と隊列を組んで沖縄に向かいました。
しかしやはりエンジンが不調となり、2機がいったん宮古島に引き返します。
残る5機は、そのまままっすぐに米艦隊の群がる沖縄の海に向かいました。
沖縄までたどり着くだけでも容易でない赤トンボです。
その行き先の沖縄の海には、見渡す限りの米軍の大艦隊がいます。
到着したとしても、速度の遅い赤とんぼで、見事、特攻を成功させれる見込は、かなり薄いと言わざるを得ません。
当時の戦闘機は、時速600km/hくらいのスピードで飛びました。
しかし、250kgh爆弾を搭載した赤トンボは、時速130km/hがようやくです。
三村隊長は、出発前の日記に、
「九三中練で死ぬとは思いもよらず」
「九三中練とはちょっと情けないが、我慢しよう」と書いています。
そもそも不可能としか思えない作戦なのです。
それに誰だって、最期に死ぬ時くらい、カッコよく死にたい。
どうせ死ぬなら、憧れのゼロ戦に乗って、とは誰しもが考えます。
ところがそのゼロ戦は、すでに補充がありません。
もはや赤とんぼしか、まともに飛べる飛行機もなかったのです。
たとえ、機体が練習機にすぎなくても、皇国を護るために命をかける。
その覚悟あっての特攻作戦でした。
ところが、ここに奇跡が起こったのです。
「第三竜虎隊」は、米軍に発見されなかったのです。
米艦隊は、当時、最新式のレーダー探知機を使い、日本軍の飛行部隊を通常150kmで捕捉していました。
ところが、赤トンボは、極めて操縦性能の良い練習機です。
ですから、夜の海を海上すれすれに飛びました。
そのためにレーダーに捕捉されにくい。
しかも、機体は木と布です。
ですから米軍自慢のレーダーにもほとんど反応しない。
たまに反応しても、光点は、点いたり消えたりです。
しかも、異常に飛行速度が遅い。戦闘機なら落下してしまいそうです。
米艦隊の中でも、議論になりました。
レーダーが感知したこの光点は、鳥か飛行機か、それとも誤反応か。
このため、本来なら、特攻攻撃に備えて準備万端整えるのに、その迷いが、米軍の戦闘準備を遅らせました。
米軍が、ようやく「敵機だ」と気が付いたときは、すでに赤トンボは、艦隊のわずか20km先、到着までわずか10分弱の距離まで近づいていたのです。
「敵機来襲!」
米艦隊は大慌てて、特攻攻撃に備えました。
艦上は大混乱に陥ります。
敵は、どこだ!?
見れば、もう肉眼で見える海上を、超低空で日本機がやってきています。
この当時、米軍が日本の特攻機対策のために採用していた高射砲は、飛来する飛行機のすぐそばで破裂すると、弾薬の中の鉄片が四散するというものでした。
弾が直接当たらなくても、敵機を撃墜できるのです。
ところが練習機赤トンボは、あまりの低空飛行であるがために、高性能高射砲を撃てない。
その角度で撃ったら、友軍の艦船に弾が当たってしまうからです。
米艦隊は、至近距離に近づく赤とんぼを、近距離砲を使って迎撃します。
滅茶苦茶に弾が飛んできました。
赤トンボは、低速です。
何発もの弾が、赤トンボに命中しました。
ところが、弾が命中しているのに、赤トンボは、墜ちません。
赤トンボは、機体が布張りですから、弾が貫通してしまったのです。
三村隊長以下7機の「第三竜虎隊」は、全機、敵弾を受けて機体を穴だらけにしながら、さらに敵艦隊に肉迫しました。
敵の輸送船には目もくれません。
狙いはあくまで敵の軍艦です。
そして最初の一機が、米軍の誇る最新鋭駆逐艦「キャラハン」の右舷に体当たりを成功させました。
赤トンボは、時速130km/hの低速です。
機体は艦上で爆発炎上し、木端微塵になりました。
通常、これだけでは、固い装甲を施した駆逐艦は沈没しません。
ところが、赤トンボが、重たい荷物として運んだ250キロ爆弾は、装甲弾です。
爆弾は機関室まで突入し、そこで大爆発を起こしたのです。
機関室のすぐ脇には、対空弾薬庫がありました。
炎はこれに誘爆して、艦は大爆発炎上しました。
そして「キャラハン」は、まさにあっという間に沈没しました。
米軍は、大東亜戦争を通じて、いまにいたるまで、その場であっという間に完全に沈没した艦以外は、「沈没」と発表していません。
たとえば、大破炎上して、数時間の後に沈んだ船は、それが日本側の船なら「撃沈」に加えますが、自軍の船なら「大破」とします。
戦いのその場では沈んでいない、というわけです。
けれどこのときの「キャラハン」は、どうにも誤魔化しようのない、まさに「沈没」とされました。
続く2番機は、「キャラハン」のすぐ近くにいた駆逐艦「プリチット」にめがけて突入しました。
「プリチット」の対空砲火開始は、なんと赤トンボとの距離が1500メートルに迫ったときでした。
それでも、ギリギリ、艦の1.8メートル手前で、赤トンボを撃墜しています。
ところが、この日のために訓練を積んだ「第三竜虎隊」の執念の一撃です。
赤トンボが海上に激突した衝撃で、搭載した爆弾が「プリチット」に命中したのです。
「プリチット」は、大破炎上しました。
「プリチット」の近くにいた、米駆逐艦駆逐艦「カシンヤング」は、赤トンボ2機を撃墜しました。
ようやくホッとして、武装を解いたとき、そこに、いったん宮古の基地に引き返した赤トンボ2機が、機体の整備を終えて、すぐに後方から発進してきていたのです。
この2機も米軍のレーダーに発見されませんでした。
気がついたとき、その2機は、最初の特攻攻撃が終わってホッとひといきついていた「カシンヤング」の目の前にいました。
迎撃の間もなく、超低空を飛行してきた2機の赤トンボは、「カシンヤング」の右舷に激突しました。
「カシンヤング」は、艦の中央部が大爆発し、炎上しました。
この特攻攻撃で、「カシンヤング」は、22人が戦死、45人が重傷を負っています。
さらにこのときに、米駆逐艦の「ホラスAバス」にも特攻機が命中、炎上しています。
タイミングからすると、これも「赤トンボ」の「第三竜虎隊」による戦果である可能性が高い、というより、そうとしか言いようがないし、米軍機が自軍の船に体当たりした以外には、考えられないことです。
こうして米駆逐艦「キャラハン」「プリチット」「カシンヤング」「ホラスAバス」7機中4機が命中しました。
「キャラハン」は沈没、他は大破です。
成功率57%、そしてこの駆逐艦「キャラハン」が、米軍の発表する最後の「特攻機に沈められた艦」です。
「第三竜虎隊」隊は以下の7名です。
水偵出身で洋上航法に習熟した海軍上等飛行兵曹三村弘(岡山県)。
予科練出身の、海軍一等飛行兵曹 庵民男(鹿児島県)
同、佐原正二郎(静岡県)
同、川平誠(静岡県)、
同、原優(長野県)、
同、近藤清忠(長野県)、
同、松田昇三(東京都)、
わずかでも可能性があるならば、その可能性を信じて戦いぬく。
なんのためでしょうか。
沖縄を護るため、日本を護るためです。
沖縄戦を生きのびた民間人の方の証言があります。
「特攻隊が来て村の上を回って米軍に突っこむ。どこの子かわからないが胸がつぶれる思いだった。自分たちのために来て死んでいっただんだなと。。。。」
今を生きている私達の命は、こうして何もかもなくしながら、勇敢に最後まで戦ってくれた英霊たちのおかげでもたらされた命です。
犬だって、飼い主への感謝を忘れないといいます。
ましてや私達は人間です。
そして同じ日本人です。
感謝の心を持とうではないですか。
なるほど戦後70年、日本は平和でした。
戦争も一度もしないで済んでいます。
けれどそれは、憲法9条があるからではありません。
このことは、ちょっと考えたらわかることです。
戦争は、一方当事者がいくら戦争を放棄しても、もう一方の当事者国が攻めて来たら、平和は破られるのです。
ではなぜ日本は、戦争をしないでこの70年を過ごすことができたのか。
その理由は、寝た子を起こしたらヤバイというのが、世界の共通認識だったからです。
日本人は、平和を愛します。
これほど平和を愛する民族はいません。
けれど、ひとたび怒らせたら、これほど戦いに強い民族は他にないのです。
いま、宮古島の市営陸上競技場の東の嶺に、彼ら「神風特攻隊第三次竜虎隊」の碑が建っています。
そこには、次のように記載されています。
【建碑の由来】
もう何も思うまい何も思うまいと、思うほどこみ上げる父母への思慕、故郷の山河。
今生の別れの瞼にうかぶ月影淡く孤独を伴に無量の思いを抱き、唯ひたすら沖縄へこの胸中いかにとやせん。
ああ途絶の死真に痛恨の極みなり
一九四五年七月二十九日夜半
神風特別攻撃隊第三次竜虎隊上飛曹 三村弘
一飛曹 庵 民男
同 近藤清忠
同 原 優
同 佐原正二郎
同 松田昇三
同 川平 誠
義烈七勇士は、日本最後の特攻隊として、世界恒久の平和を念じつつ、ここ宮古島特攻前線基地を離陸。
沖縄嘉手納沖に壮烈特攻散華す。
その武勇萬世に燦たり。
願はくば御霊安らかに眠られよ。
父母のみむねに
神風特別攻撃隊竜虎隊一同
一九九五年七月二十九日
神風特攻第四次竜虎隊員
滋賀県水口笹井敬三
【鎮魂の詩】
紺碧の海 風亦清し
島人素朴にして
人情濃いなり
誰か思わん 此の地激戦跡なるを
瘡偉飢餓将兵僵る
相図る戦友建碑の事
鎮魂痍悼安眠を祈る
幾たびか島を尋ねて遺族感泣す
更に願う
島を守りて 平和の全きを
昭和六三年 十月吉日
この文を書く前、たまたまウィキペディアで「特別攻撃隊」の記事を読んでみたら、そこには、次のように書いてありました。
「元々鈍足な上に重量のある爆弾を無理やり搭載していた為、極端に速度が遅く、航続距離も短い複葉機や固定脚を突き出した旧式機で編成したこれらの特攻隊は、敵機の好餌であり、ほとんど戦果をあげられなかった。
だがまったく使えなかった訳でもなく、僅かながらも戦果を挙げている(九三式中間練習機による特攻は、1945年7月29日出撃の「第3龍虎隊」が駆逐艦1隻を撃沈している)。」
冗談じゃあないです。
「わずかばかり」とは何事か。
しかも、戦果は駆逐艦1隻の撃沈だけではありません。
戦後、私たち日本人は、こうして命をかけて戦った帝国軍人を、微妙な言い回しで辱められ、貶められてきました。
でも、もう目覚めるときです。
ちなみに「トンボ」の絵柄は、戦中までは、特に軍人さんに好まれた絵柄でした。
トンボは、空中を飛行する時、停止と前進しかできません。
後退できないのです。
だからトンボの絵柄は、不退転を意味しました。
私の扇子の絵柄も、勝負ネクタイも、トンボです(笑)
※この記事は平成22(2010)年の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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