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ネガティブ・キャンペーン(Negative campaigning)という言葉があります。
ネガキャンと略して呼ばれることが多い言葉です。
もともとは選挙用語で、対立候補をおとしめて、ダメージを与えるためのキャンペーンです。
最近では、選挙に限らず、特定の人物や団体を貶めることにも使われます。
多くの場合、こうしたネガキャンは、「相手を貶めること」が、「誰かの利益になる」場合に行われます。
たとえば、人気のあるAさんを貶めます。
すると行き場を失ったAさん支持層が、Aさんに比較的方向性の近いBさんの支持に回ります。
全部の支持者が移動することはありませんが、必ず何割かの人は影響を受けて転んでくれるわけです。
つまりネガキャンは、誠心誠実から行われることではなくて、誰かの利益のために故意に引き起こされるものでもあるわけです。
そしてこのネガキャンの特徴は、相手が反応してくれたら「勝ち」になります。
「勝ち」という言い方がわるければ、相手が反応してくれたら「成功」です。
たとえば日本製品に信用があって、よく売れている。
ところが自国の製品は、安いけれど粗悪品であるという場合、日本を貶めるために、たとえば「日本人は南京で虐殺をした→日本人は残虐な民族である」、あるいは「日本人は20万人の若い女性を性奴隷にした」と、ネガキャンを張ります。
そして日本人は残酷だというイメージ作りをします。
「だったら日本製品なんて買うのはよそう」と思ってくれるような人は、全体から見れば、1割にも満たないかもしれないけれど、市場規模を考えれば、これはものすごく大きな利益をもたらすことになります。
つまり、ネガキャンは、そのネガキャンの内容そのものの精度や事実関係の有無に目的があるわけでなく、
「狙いは常に別なところにある」
のです。

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つまり、製品の品質や、言論等で対抗できないとき、ネガキャンを貼って相手を貶めることで、自己の利益を図ろうとするものが、ネガキャンです。
市場規模や得票総数、あるいは支持層が限られたパイのとき、相手を別件で貶めることによって、自己の票や売上を伸ばす、そのために行われるのが、ネガキャンの特徴ということになります。
ですからネガキャンは、イジメとは異なります。
イジメも相手を貶めますが、その背景にあるものは、妬みであったり、嫉みであったり、面白半分であったりです。
これに対してネガキャンには、それによって自己の利益を図ろうとする目的があります。
従ってネガキャンは、事実関係は、はっきり言って「どうでも良い」のです。
嘘でも捏造でも、とにかく相手が悪者だとレッテルを張りさえすれば良いという特徴があります。
南京問題や、慰安婦問題など、仕掛けた相手にしてみれば、その事実があったかどうかは、どうでも良いのです。
そしてネガキャンには、もうひとつの大きな特徴があります。
それは、
「相手が反応してくれたら勝ち」
というものです。
たとえば、南京問題で、日本政府が「そのような事実はない」と言えば、世間は「あやしい」と思うのです。
さらに仕掛ければ、相手は必死になってこれを否定しようとします。
そしたら、「あやしい」と思い始めた人たちに、さらにそう思わせるようなネタを提供する。
相手が必死になればなるほど、世間は余計に「あやしい」と思うようになるのです。
そして相手の信用が落ちた分、自己の売上に繋がるという仕組みです。
南京問題や慰安婦にしても、よくよく調査すれば、そんなことはありえないことだということがわかるし、もともとの出典が何かと見てみれば、明らかに意図的なでっちあげです。
ところが、これに日本国政府が反応すれば、(その反応は、否定であって良いのです)、するほど、ますます「あやしい」といって騒ぎ立てることができます。
つまり、言葉尻をつかまえて、ますます「あやしい」と責め立てるのです。
あるいは言葉尻だけをつかまえて、そこを今度は攻撃対象にします。
これを繰り返すと、そのうちお人好しの馬鹿者が、「私はそれは事実だと思います」みたいなことを言い出します。
これに同調すると、その同調された人は、大喜びして確信を持つようになります。
そして話がどんどん既成事実化していきます。
最終的に、嘘がバレても、そのバレるまでの間に、市場拡大が図られていれば、目的は達成します。
ネガキャンというのは、そういう趣旨のものです。
では、そうしたネガキャンに対して、どのように対応したら良いのでしょうか。
ネガキャンは、そもそもありもしないでっちあげです。
ですから、そのことに真正面から反応すれば、反応するほど、キャンペーンを貼られた側はダメージを受けます。
ということは、ネガキャンに対しては、基本、「反応してはいけない」のです。
その意味では、南京問題について、日本政府が反応してこなかったことは、正解だということになります。
手の内がわかっているのだし、反応すればするほど、世間はあやしいと思うからです。
もっとも、ここまで世界的な規模で拡散されてしまえば、話は別です。
いまは対抗策が必要です。
逆に慰安婦問題では、政府が反応しました。
河野談話などを出していますが、これこそ最大の失政です。
反応してしまったことによって、その言葉尻を捕まえられて、ありもしない話を逆に既成事実化してしまったのです。
これは、ネガキャンを受けたときに「絶対にやってはいけないこと」です。
更に慰安婦問題では、もっとやってはいけないことを政府はしてしまいました。
それは、相手をを黙らせるために、相手にカネや便宜を与えて取引するという行為です。
これをすると、本来ネガキャンは、他の目的を達成するための手段として用いられるものなのですが、今度は、ネガキャンそのものが、金銭や便宜を受けるためのセオリーになります。
やってはいけないネガキャンへの反応は、実は、死を受け入れる際の5段階説によく似ています。
人はガンなどで、死を宣告されたとき、次の5段階で反応するといわれています。
1 否定
2 怒る
3 取引する
4 何もできなくなる
5 認めてしまう。
ところがネガキャンは、死とは違うのです。
ですからこの5つは、5つともネガキャン対策には絶対にやってはいけないことです。
否定すればするほど「あやしい」と言われるのです。
怒れば、「やっぱり後ろめたいことがあったんだ」と言われます。
取引して相手に便宜や金銭を供与すれば、相手は、ますます増長して、今度は便宜や金銭目的の恐喝をしかけてくるようになります。
さりとて、何もしなければ、言われっぱなしです。
だからといって、相手の言い分を認めれば、容赦ない屈辱が待っていることになります。
ではどうしたら良いの?ということになります。
答は3つしかありません。
(1) 誠実
(2) 報復
(3) 味方
(1)の誠実は、世間を味方につけるということです。
何を言われても、誠実に努力を続けていれば、時間はかかっても、世間は必ず評価してくれる。
トヨタが米国市場で何度もネガティブキャンペーンによる被害を受けていながら、それでも圧倒的に強い企業でいるのが、これです。
嘘は嘘でしかないのです。
どこまでも誠実さを貫くことで、長い目でみれば必ず世間は味方になってくれる。
そういうものです。
個人がネガキャンを貼られたときに、心がけなければならないことも、この(1)誠実です。
否定したり怒ったり、取引を持ちかけたりすれば、必ず傷口は拡大します。
要するに、人に信じてもらいたいならば、信じてもらえるだけの自分に、自分が成長していくしかないのです。
おかしなもので、人というのは、いまが苦しいと、何故か一生、その苦しさが続くように錯覚していしまいます。
いま、目の前にある苦難や悲しみや怒りが、いまだけでなく、その後死ぬまで続くように思い込んでしまうのです。
けれど、絶対にいえることは、死ぬまで続く苦難や怒りや悲しみなどというものは、ない、ということです。
喜怒哀楽といいますが、喜びも楽しみも幸せも、苦難があるからこそ味わえるものです。
喜びばかりでは、そのありがたみもわからないし、それを幸せと感じられなくなってしまうのです。
苦しさや悲しみや怒りがあり、それを誠実に乗り越えたとき、その先に待っているのが、実は幸せであり喜びです。
スポーツで、何も練習していないのにいつも試合に勝てる人というのが、まれにいます。
そういう人には、勝つのがあたりまえだし、優勝するのがあたりまえだし、優勝したからといって、そこに喜びもありません。ただ、あたりまえ、のことです。
けれど、そういう人であっても、怪我をして試合に出れなくなり、出ても勝てなくなり、あるいは二軍に落とされ、辛酸を舐めて、そこから猛烈に練習して、やっとの思いで復活して、ついに3位に入賞したら、おそらくその人は支えてくれたみんなに感謝して、顔をぐしゃぐしゃにして大泣きして、喜びと幸せを得ることができます。
要するに、嫌なこと、悪いこと、望まないことが起きるから、人はそれを乗り越えるために努力することができるのです。
そしてその不断の努力の先にこそ、喜びも幸せもやってきます。
ある大臣は、選挙区において絶対的な支持率を持ち、選挙の都度、圧倒的な勝利を続けてきた人でした。
選挙は当選することがあたりまえになっていました。
ところがネガキャンに遭って大臣を辞職し、対立候補を立てられ、はじめてドブ板と呼ばれる選挙をしました。
必死になって走り回り、必死になって頭を下げました。
そして勝利したとき、泣きました。
泣いただけでなく、そこで初めて人の情けのありがたさを知り、再び大臣に返り咲きました。
一度地獄を味わった人は、つよいといいます。
まさに、その人は、何者にも負けないつよさを持つようになりました。
苦難は成長の糧です。
ネガキャンにあい、それがダメージの強いものであればあるほど、より一層、誠実が求められます。
そして誠実によってダメージを乗り越えたとき、そこに待っているのは、実は、人としての成長と、大きな喜びとつよさです。
(2)は、別件で制裁を与えることです。
誠実だけでは、どうにもならない場合に用いられる別件制裁です。
実はこのことは古事記の海彦山彦の物語に出てきます。
太平洋に落ちた釣り針一本を探して持って来い、というのです。
それはできる相談ではありません。
では、どうしたかといえば、
1 謝る必要はない。
2 相手には別な針を渡せば良い。
3 別件で相手に対して制裁を与えよ。
4 制裁を受けて追い詰められた相手が報復のために攻めてきたら、前もって十分に準備しておいて、完膚無きまでに相手をやっつけよ、
と、古事記に書いてあります。
これはネガキャンで謝罪要求がされた場合の対応です。
もともとがネガキャンであれば、謝罪すればするほど、相手は要求をエスカレートしてくるのです。
山彦は、海彦に、当初、一本の釣り針を失くしたことを謝罪し、さらに500本もの釣り針を献上しています。
こうなると、相手は、「謝罪を受け入れなければ、利得を得ることができる」ということが成功体験になるわけです。
そしてそれが成功体験なら、相手は絶対に謝罪を受け入れないし、ますます態度を硬化させます。
このことは、慰安婦問題をめぐる日韓関係にたいへんよく似ています。
こうした場合は、古事記はむしろ積極的に「制裁を加えよ」と書いています。
たとえば、どこぞの国が、20万人を慰安婦にされたニダと、理不尽な嘘を言いふらしてくるなら、日本は別件の、たとえば韓国海苔にトイレットペーパーが混じっていた、お酒に含まれる大腸菌が異様に多いなど、かねてから指摘されている食料品の衛生問題や、火を噴くスマホ問題、エンジンキーを回した途端に暴走してしまう自動車、安全性に疑問のあるタイヤなど、山ほどある問題製品について、日本への輸入を全面的に禁止します。これが制裁です。
そして規制したことを、世界に向けて高らかに宣言します。
すると必ず、自国民の安全確保のために同調する国が現れます。
同調しない国へは、事実上ODAを規制する等の対策をとれば、世界のほとんどの国が、右へならえで、当該国の製品輸入を禁止します。
すると相手は干上がり、日頃からの反日教育の成果で、ついには軍事的手段に訴えてくるかもしれません。
この場合の対策も古事記は、ちゃんと書いています。
これが塩盈珠(しおみちたま)、塩乾珠(しおひたま)のたとえです。
前もって軍備を整えて、あらゆる軍事的侵攻に備え、攻めて来たら完膚なきまでにこれを叩きなさい、です。
日本国憲法は、軍事による日本の他国侵逼は明確に規制していますが、自己防衛は憲法以前の国家生存権です。
したがって防衛のための軍事については日本国憲法に一切の規制はありません。
尖閣に漂着してくる韓国ゴミによって、日本の尖閣の生態系に影響が出ているのです。
そのゴミの漂着を防ぐために、ゴミの不法投棄船をミサイルで攻撃することは、国家生存権です。
まして、軍事的に攻めてきたというのであれば、それを防衛することに何の支障もありません。
国内メディアや大学も同じです。
日本人の健康を守るために、政府がトイレットペーパーのカスや、人糞の付着した海苔の輸入を全面的に禁止することを、おかしいと報道するようなメディアは、政府の公式記者会見に席を設けない。
そのようなメディアによいしょするような大学には、補助金も出さない。
そうしたことが言論封殺と騒ぐ馬鹿者がいるかもしれませんが、言論は自由です。
好きなことを発言して構わない。
けれど、補助金を出す出さない、記者会見の場に呼ぶ呼ばないは、政府の都合です。
公平な報道をしない者を、公平な場に呼ぶ必要はないのです。
(3)は、仲間とともに戦うということです。
ネガキャンをするような連中からは、他にもたくさん迷惑をかけられている人々が、これは必ず、います。
そういう人たちと集団をつくり、集団で戦って相手を封じ込めていくということです。
これもまた古事記に書かれていることです。
初代神武天皇は、中味が拗ねているナカスネヒコと戦うに際して、ナカスネヒコによって迷惑を被っている人たちを糾合して、その人達と手を携えて戦い勝利しました。
だから神武天皇は、神倭伊波礼毘古命と呼ばれています。
これは、やまとの神といわれた男、という意味の贈り名です。
イジメを受けたという場合、そのイジメている連中に鉄拳制裁を加えれば、今度はこちらが加害者にされてしまいます。
けれど、そもそもそういう卑劣な連中というのは、必ず他にも被害者を出しているものです。
その被害者たちみんなとともに戦う。
このときに、「決してひとりで戦ってはいけない」というのが、古事記の教えです。
なぜなら、単独で戦えば、勝っても必ず、こちらが悪者にされてしまうからです。
たとえば中共であれば、ロシアとも国境紛争を起こしているし、ベトナムとも、フィリピンとも起こしています。
インドは、領土の一部を中共政府に勝手に占有されたままです。
また、国内的にも、チベット、ウイグル、内モンゴル、旧満州、昨今の香港など、中共政府に対して反感を持つ者は多いのです。
それらすべてと一緒に戦うのです。
そうなると中共は、南京どころではなくなります。
ちなみに、そうした、いわば謀略というものは、実は、欧米列強の植民地支配時代には、それがむしろ積極的な植民地統治政策として用いられていたものです。
たとえば、昨今、韓国で、朴槿恵大統領への反感から、大規模デモが起こりました。
そのデモの大群衆に、誰かが千丁のサブマシンガン渡していたらどうなるでしょうか。
日本人は、そういう謀略を好みませんし、決してやりません。
しかし、そういうことをやってきたのが、世界の歴史です。
日本が世界の諸国の一員として、世界とともに生きていくなら、そういう世界を、国民がしっかりと認識していかなければならないのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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