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『「誇り」とは「優越感」とは違うもの』
がアップになりました。
『「根っこ」から生まれる「誇り」とは、他者との比較による「優越感」とは別物である』というのが主題です。
全文は↓のURLにあります。
http://blog.jog-net.jp/201610/article_5.html
実は、今日、これをご紹介しようと思ったのは、伊勢さんが、
「日本国民は日本を大御宝の国と誇ることができる」
と書いていらしたことによります。
そしてこのことこそが、我々日本人の「誇り」だというのです。
伊勢さんは、「大御宝(おおみたから)」と漢字を使っておいででしたが、本来の大和言葉では、これは「おほみたから」です。
「おほみたから」は、漢字では「大御宝」の他に、「大御田族」とも書きます。
「田族」とかいて「たから」です。
稲作栽培を社会の中心に置いたから「田族」なのですけれど、「たから」が「宝」や「田族」などと書かれるということは、もともとはこれは「大御宝」や「大御田族」という漢字から始まった言葉ではないということを意味します。
先に「大和言葉」の「おほみたから」があり、それを、後から漢字を当てたということだからです。

【倭塾】(江東区文化センター)
第35回 2016/12/24(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
第36回 2017/1/14(土)13:30〜16:30 第4/5研修室
【ねずさんと学ぶ百人一首】(江東区文化センター)
第9回 2016/11/24(木)18:30〜20:30 第三研修室
第10回 2016/12/8(木)18:30〜20:30 第三研修室
第11回 2017/1/19(木)18:30〜20:30 第三研修室
大和言葉で、「たから」は「田から」です。
「田(た)」は、水田とすぐにわかります。
「から」は、「はらから」という言葉にあるように、血族、血縁関係、身内を意味します。
「から」は、「あの世から」のように接尾語として使われますが、基本的に「縁続き」であることを意味しているわけです。
「御」は「み」で、我が身です。
「大」は、カナで書いたら「おほ」ですが、漢字で「意富(おほ)」とも書かれます。
そこから「意富」は、「強い意思を豊かに保ち発揮する」といった意味が込められた言葉とわかります。
つまり「おほみたから」は、もともとは国家の中心に「おほ」、つまり「強い意思の存在」を置き、その強い意思の存在(天皇)が、田で働くひとたちを我が身、我がはらからとする、という意味であるとわかります。
強い意思というのは、最強かつ最大の大いなる意思が神々の御意思です。
つまり、神々とつながる存在(天皇)が、他のすべての人(民)を、我がはらからとする、というのが、我が国の古くからのカタチであり、それがシラスの意味でもあります。
大和言葉にちゃんと意味があるのです。
>他者との優劣で喜んだりするのは、
単なる「優越感」であって、本当の「誇り」ではない。
>優越感とは、
個人で言えば、有名大学を出たとか、一流企業で出世したとかで、
上には上があるし、下の人を見下す事にもなりかねない。
そこから他者の成功を妬み、不幸を喜ぶという心理につながる恐れもある。
他者との比較で優越感を持つというのでは、精神的に豊かにはなれない。
指摘されているように、誇りを「優越感」と勘違いしている人は多いように感じます。
お金があるとか、立派な家に住んでいるとかが「誇り」という、これは勘違いです。
先日ご紹介した『童子教」は、
貴者必不冨 貴(たつと)き者は必ず冨まず
冨者未必貴 冨める者は未(いま)だ必ず貴からず
雖冨心多欲 冨めりと雖(いへど)も心に欲多ければ
是名為貧人 是(これ)を名づけて貧人(ひんじん)とす
とありました。
どんなに物質的に豊かであっても、心に欲が多ければ、それは貧乏人だということです。
たとえ貧乏でも、心に足るを持てば、富者だとあります。
同様に『実語教』でも、
綾羅錦繍者 綾羅錦繍(りやうらきんしう)は
全非冥途貯 全く冥途の貯えに非(あら)ず
と書いています。
金ピカの衣装や4頭立ての馬車に乗って飾っても、それは魂の蓄えにならないということです。
西郷隆盛も言っています。
「貫禄などというものは、4頭だての馬車に乗せて街中を何周か回らせればそれでつくものでごわす。それだけのものでごわす」(司馬遼太郎『坂の上の雲』)
どんなに貧しくても、心が豊かな人たちの国であれば、国は必ず豊かになります。
逆に、他所からお金を奪って豊かな国に見せかけても、その国の人の心は卑しければ必ず崩壊します。
企業も同じです。
技術を外国から奪っている間は、開発コストなしで大儲けができても、ひとたびそれを奪うことができなくなれば、バッテリーから火を噴くような製品しか作れなくなるのです。
>アメリカ国民は、自国が世界一豊かな国という優越感とは別の「誇り」を持っている。
それはアメリカは「自由の国」だという意識である。
「自由な国」と言っても、何でも気ままにできる国という意味ではない。
圧政や迫害からの自由という意味である。
ヨーロッパでの宗教的迫害から逃れた清教徒が、
自由を求めてこの地に辿り着いたのが国の始まりであり、
また自由と自治を求めて英国軍と戦って独立を勝ち獲り、
さらに黒人奴隷解放のために南北戦争を戦い、
第二次大戦ではファシズムから自由世界を救った、という誇りである。
>アメリカの子供たちは小さい頃からこうした歴史施設に連れられて行って、
アメリカ国民としての根っこを学んでいるのである。
ここから生まれる誇りは、他国と比較しての優越感ではない。
アメリカ国民の共同体という「根っこ」に自分もつながっている事を知り、
それを残してくれた先人に感謝し、自分もまたその後に続こうという志につながる。
誇りとはその感謝と志が融合したもの、と言っても良いだろう。
>優越感とは、現代の他者と比較する水平軸のものだが、
誇りとは根っこを通じて先人から子孫につながる垂直軸のものである。
南北戦争の勝利で、米国が統一国家になったのは、わずか151年前のことです。
日本でいえば幕末の慶応元年、武田耕雲斎らが天狗党の乱を起こした頃のことです。
その僅かな歴史の中で、アメリカは、黒人問題を抱え、ヒスパニア移民問題、イスラム移民問題、中華移民問題を抱え、四苦八苦しながらも、圧政からの自由という歴史を大切にすることで、統一国家を現出しています。
日本は、もっとはるか古い時代から、ネアンデルタール系原人と、クロマニヨン人系を和合させ、さらに大陸系や、ユダヤ系、コーカソイド系などが和合し、つまり五色人と呼ばれる様々な人種がゆるやかに和合して混血し、いまの日本人を形成しています。
その意味では、何千年も何万年も前から、日本人は、異民族の融合体を形成してきたわけです。
そしてそれを可能ならしめたものが、人類社会が生んだ最高の統治システムである「シラス」です。
神を最高のものとするなら、「シラス」こそ神の統治です。
>物質的な豊かさなどという優越感に囚われていると、
他国はライバルとなってしまうので、友好もありえない。
どこの国のことを指しているか、あまりにもわかりやすいことです。
>アメリカ国民が自国を「自由の国」と誇るなら、
日本国民は日本を「大御宝(おおみたから)の国」と誇ることができる。
わが国は国民を「大御宝」として、その安寧を神に祈る皇室を中心にしてきた。
皇室の無私の祈りを実現すべく、
我々の先人たちは同胞と子孫のために国を築き、護ってきた。
この根っこから生まれるのは、他国との比較に基づく水平的な優越感ではなく、
まさに先人への感謝と子孫への志を生む垂直的な誇りである。
歴史を学ぶ。歴史を知ることは、真実の日本を知ることです。
その日本の歴史は、国語で書かれています。
国語を大切にし、真実の日本の歴史を知ることが大事です。
日本の歴史は、19世紀的共産主義的コミンテルン史観などでは、決してはかれないものです。
コミンテルン史観や東京裁判史観、あるいはChina風正統化優越史観、韓国のファンタジー史観などで日本を測ることは不可能です。
なぜならそれは、細い管で天をみるようなものだからです。
お読みいただき、ありがとうございました。


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