20160530 パラオ共和国
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今回ご紹介するペリリューのお話は何度も取り上げているお話です。
でも何度でもご紹介します。
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日本とパラオの深い絆
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パラオは、南太平洋に浮かぶ、大小さまざまな島からなる共和国です。
そのパラオは、戦前まで日本の「委任統治領」でした。
「委任統治領」というのは、国際連盟規約第二十二条に基づいて、国際連盟の指定を受けた国が一定の非独立地域を統治する制度です。
もともとは、白人諸国が有色人種諸国を統治する、というより植民地として支配する、国際法的正当性を与えるために作られたものです。
だから、パラオは日本の植民地だった、と言う人がいます。
しかし、それは違います。
パラオは、あくまで国連からの正式な委任によって、日本が統治したものです。
そして日本は、パラオから収奪するどころか、教育、文化、行政、法制度、都市インフラにいたる、あらゆる援助を提供しています。
けれどそんなことよりも、もっとはるかに大きなものを、日本はパラオに残しました。
そしてそのことを、パラオの人々は、いまも大切にしてくれています。
それが、これからお話しする、勇気と愛の物語です。
20160810 目からウロコの日本の歴史


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『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人・第三巻』より
勇気とやさしさ〜パラオ・ペリリュー島の戦い

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日本軍と一緒に戦おう
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昭和十六(一九四一)年、大東亜戦争が始まりました。
日本はこの年の翌年早々にはパラオ南部のペリリュー島に、千二百メートルの滑走路二本を持つ飛行場を築きました。
日本にとってパラオが、太平洋防衛上の重要な拠点だったからです。
日本の防衛上重要拠点ということは、敵対するアメリカ軍にとって、それは攻略目標となります。
フィリピン奪還を目指すアメリカ軍は、その手前に位置するパラオ・ペリリュー島の日本軍基地を、どうしても排除しなければなりませんでした。
昭和十九(一九四四)年九月、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督の指揮下、アメリカ軍はパラオ・ペリリュー島攻略作戦を実行に移します。
当時、ペリリュー島には八百九十九名の島民がいました。
日一日とアメリカ軍が迫ってくるか、島民たちは集会を開きます。
かつてスペインやドイツによって植民地支配を受けていた彼らは、白人統治時代の悲惨さを知っています。そして日本統治となってからの時代も身をもって経験しています。
日本兵と仲良くなり、日本の歌を一緒に歌っていた島民たちは、全会一致で、大人も子供も一緒になって日本軍とともに戦うことを決めました。
こうした村人の会議と、全会一致での決定という仕組みは、パラオ古来の慣習です。
いまでもパラオではこうした会議が行われ、そこには村人全員が参加します。
話し合いはその全員がひとり残らず納得するまで、何日でも続けて行われます。
日本でいったら町内の自治会の会館のような建物があり、島民たちはその建物に何日もこもって話し合うわけです。
そうしてみんなの意思を固めるのです。
「全員一致で日本軍とともに戦う」
そう決めた彼らは、代表数人で日本軍の守備隊長のもとに向かいました。
ペリリューの守備隊長は、中川州男(くにお)陸軍中将(任期当時は大佐)です。
中川中将は熊本県出身で、陸軍士官学校の第三十期生。日頃からもの静かで、笑顔の素敵なやさしい隊長さんです。
その中川中将がパラオ・ペリリュー島に赴任したのは、昭和十八(一九四三)年六月のことでした。
家を出るときに奥さんから、
「今度はどちらの任地に行かれるのですか?」と聞かれた中川中将は、にっこり笑って、
「永劫演習さ」と答えられたそうです。
永劫演習というのは、生きて帰還が望めない戦場という意味です。
温厚で日頃からやさしい人であっても、胸に秘めた決意というのは、体で分かるものです。
この言葉を聞いたときの奥さんのお心やいかばかりだったか。
想像するに余りあります。
温厚な中川隊長なら、自分たちの「一緒に戦いたい」という頼みを、きっと喜んで受け入れてくれるに違いない。
島の代表団たちは、そのように考えました。
ただでさえ日本の兵隊は数が足りないのです。
自分たちはきっと役に立つことができる。
ペリリュー島の人たちは、そう思って中川中将のもとを訪ねました。
そして中川中将に、
「わたしたちも一緒に、戦わせてください!」と強く申し出ました。
「村人全員が集まって、決めたのです。これは村人たち全員の総意です」
中川隊長は、真剣に訴える彼らひとりひとりの眼を、じっと見つめながら黙って聞いておられました。
一同の話が終わると、場に沈黙が訪れました。
しばし沈黙のあと、中川隊長は突然、驚くような大声をあげました。
「帝国軍人が、貴様ら□人(現地人)と一緒に戦えるかっ!」
烈迫の気合です。
村の代表たちは、瞬間、何を言われたか分からなかったそうです。
耳を疑いました。(俺たちのことを、「□人」と言った?)
島の代表団たちは、ただ茫然としてしまいした。
指揮所を出てからの帰り道、彼らはみんな泣きました。
一緒に戦うことを断られたからではありません。
□人と呼ばれたことがショックでした。
怒りではありません。
あんなに仲良くしていたのに、という悲しみのほうが大きかったのです。
いつも日本人は、自分たちのことを仲間だと言ってくれていました。
同じ人間だ、同じ仲間だ、対等だと言ってくれていたのに、それが「□人?」。
信じていたのに。あれは見せかけだったのか?
集会所で待っている村人たちに報告しました。
みんな「日本人に裏切られた」という思いでした。
ただただ悲しくて、悔しくて。みんな泣いてしまいました。
何日かたちました。
いよいよ日本軍が用意した船で、島民たちがパラオ本島に向かって島を離れる日がやって来ました。
港には、日本兵はひとりも見送りに来ません。
島民たちは、悄然として船に乗り込みました。
島を去ることも悲しかったけれど、それ以上に、仲間だと思っていた日本人に裏切られたことが、ただただ悲しかったのです。
汽笛が鳴りました。
船がゆっくりと、岸辺を離れはじめました。
次の瞬間です。
島から「おおおおおおおおおおお」という声があがりました。
島に残る日本兵全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきたのです。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれたのです。
そのとき、船上にいた島民は、はっきりと分かりました。
日本の軍人さんたちは、我々島民を戦火に巻き込むまいとしたのだ。
そのために、心を鬼にして、あえて「□人」という言葉を使ったのだと。
船の上にいる島民の全員の目から、涙があふれました。
そして、岸辺に見える日本兵に向かって、島の人たちは、なにか、自分でも分からない声をあげながら、涙でかすむ目を必死にあけて、ちぎれるほど手を振りました。
船の上から、日に焼けた日本人の兵隊さんたち、ひとりひとりの姿が見えました。
誰もが笑っていました。
歌声が聞こえました。
そこには中川隊長の姿もありました。
みんなと一緒に笑いながら、手を振ってくれていました。
それは、とっても素敵な笑顔でした。
そのときの日本の兵隊さんたちの笑顔は、戦後何年たっても、ペリリュー島の人たちのまぶたに、ずっと焼き付いたままだったそうです。
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「オレンジビーチ」そして「サクラサクラ」
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昭和十九(一九四四)年九月十二日、ペリリュー島をめぐる日米の本格的な戦闘の火ぶたが切られました。
島に立てこもる日本軍は一万五百、対するアメリカ軍は総員四万八千です。
そして火力差はなんと約百倍。
圧倒的な火力をもって、アメリカ軍は小さな島に襲いかかります。
まず、航空機と艦砲射撃によって島内のジャングルを完全に焼き払いました。
海上に築いた日本軍の防衛施設も、完全に破壊しました。
そして九月十五日、「二、三日もあれば陥落させられる」と豪語したアメリカ軍は、海兵隊を主力とする第一陣、約二万八千を島に上陸させたのです。
アメリカ軍の上陸用舟艇が、続々とやって来ました。
島はじっと沈黙したままです。
アメリカ軍は、海岸に上陸し、そこに陣地を巡らしました。
そのとき、突然の集中砲火が、アメリカ軍の上陸部隊を襲いました。
それまで地中深くに穴を掘り、じっと時を待っていた日本軍が、満を持して反撃を開始したのです。
水際の状態は、凄惨を極めました。
アメリカ軍の第一次上陸部隊は大損害をこうむり、煙幕を焚いて退却しました。
この戦闘で島の海岸が、アメリカ兵の血で赤く染まりました。
いまでもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
十月三十日にはアメリカ軍第一海兵師団が全滅しました。
米海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病したといいます。
将官が倒れるほどまでに、すさまじい戦いだったのです。
この時点で、三日で終わるとされた戦いは、なんと一カ月半も継続していました。
けれど日本軍には、補給が一切ありません。
食糧も水もないのです。
夜陰に紛れて、せめて怪我をした仲間のためにと泉に水を汲みに行けば、待ち構えたアメリカ軍の猛火に遭いました。
水場の近くには、日本兵の死体がかさなりあっていました。
日本軍の抵抗は次第に衰えを見せはじめました。
アメリカ軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落していきました。
十一月二十四日、司令部陣地の弾薬も底を尽いた日本軍は、ついに玉砕を決定します。
軍旗を奉焼し訣別電報「サクラサクラ」を打電すると、中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐の三名は、割腹自決を遂げました。
そして残る将兵は翌朝にかけて、最後の突撃攻撃を敢行しました。
こうして十一月二十七日、ペリリュー島はついに陥落しました。
アメリカ軍の上陸開始から二カ月半が経過していました。
中川隊長の異例の奮闘に対して、昭和天皇は、十一回の嘉賞と、三度の感状を与えられています。
中川州男中将、明治三十一(一八九八)年一月二十三日生まれ。
昭和十九(一九四四)年十一月二十四日戦死。
享年四十七でした。
戦闘が終わったあと、アメリカ軍は島のあちこちに散る日本兵の遺体を、そのまま放置していました。
アメリカ兵の遺体はきちんと埋葬しても、日本兵の遺体は、ほったらかしだったのです。
戦闘終結からしばらくたって、島民たちが島に戻ってきました。
彼らは島中に散らばる日本兵の遺体を、ひとつひとつきれいに片付け、埋葬してくれました。
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太平洋に浮かぶ親日国パラオ
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戦後、パラオはアメリカの信託統治領となりました。
けれどアメリカは、島民たちへの教育はおろか、島のインフラ整備にも消極的でした。
島民たちは、パラオ本島と一緒になり、独立運動を開始しました。
そしてようやく戦争から三十六年目の昭和五十六(一九八一)年、パラオは自治政府の「パラオ共和国」となりました。
そのパラオがアメリカの信託統治を外れて、名実共に独立国となったのは、なんと平成六(一九九四)年のことです。
下にあるのは、独立したパラオ共和国の国旗です。

パラオ共和国・国旗

この国旗は、パラオ国民の間からデザインを一般公募した結果、全会一致で採用になったものです。
周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月を表しています。
月は日章旗の太陽との友好を示すものです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って、中心から少しズレています。
日本に失礼だからと、わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。
パラオについて、ブログ読者のNさんから、次のようなメールを頂きました。
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最近あまりいい話がないと思いますので溜飲をさげる意味ということで、私がパラオ共和国に行ったときのお話をしようと思います。
今から三年ほど前に新婚旅行でパラオ共和国に行ってきました。
十二月の中旬に成田からグァムへ行き、そこから乗り換えてパラオに着いたときは夜の八時過ぎでした。
空港から出てバスに乗るとパラオの国旗の隣に日の丸が掲げられていました。
日中、観光でバスに揺られながらあちこちを回ると、島と島をつなぐ道路に必ず日の丸が刻まれたモニュメントがありました。
それらを見る限り日本のODAが、いかに正しく使われているかがよく分かります。
街のあちらこちらにも日の丸が掲げられていました。
夜家内と外で食事をしましたが、いまいち食べ足りないと思い、散歩がてらに中心街を散策していると(中心街といっても五百メートルくらいのメインストリート)、広い駐車場にハンバーガーの屋台があったので、早速注文をしてできたてのバーガーを家内とほおばりながら食べていました。
すると、さっきまで駐車場でギターの弾き語りをしていた初老の老人が近づいてきて、こう聞きました。
「君たちは日本人か?」
「イエス」と答え、「新婚旅行で来た」と家内が伝えると、老人は大粒の涙を流しながら私の肩を抱きました。
そして老人は、
「日本の人がこの国に来てくれて本当に嬉しい。
 ハネムーンの行き先にここを選んでくれて
 本当にありがとう」と言ってくれました。
この出来事でパラオの人々が、いかに日本の人たちに対して特別なものを持っているかよく分かりました。
私たちの血税がこういうふうに役に立っているということを実感するためだけでもパラオには来る価値が十分すぎるほどあります。
子供が大きくなったら後学のためにももう一度パラオに行こうと細々と貯金をしています。
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Nさんは、このメールと一緒に、下の写真を送って下さいました。
20160530 南海のパラオに眠るゼロ戦

この写真は、島に散ったゼロ戦です。
忘れてはならないのは、このゼロ戦には、日本海軍の優秀なパイロットが乗っていた、ということです。
ゼロ戦はそのパイロットの命とともに、いまもここに眠っているのです。
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植民地になるということ
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少し、パラオのことを書きます。
パラオが、白人の植民地となったのは、明治十八(一八八五)年のことでした。
最初はスペインの植民地でした。
スペインの統治は、たいへん過酷なものでした。
スペインによる統治は、明治三十二(一八九九)年に、ドイツの植民地になるまでの、わずか十四年ほどのことですが、そのたった十四年で、パラオの人口は、なんと九〇%も減少してしまったのです。
もともと、人口二万人くらいの島国なのです。
そのうちの九〇%が命を奪われた。
それがどういうことか想像してみてください。
忘れてならないのは、植民地支配を受けた国々では、大なり小なり同様のことが起きた、という事実です。
南米では、文明そのものが滅び、いまでは昔の言語、習慣さえも分からなくなっています。
ほんの二百年前まで栄えていた大きな文明が、いまやナゾの超古代文明のように、その痕跡しかなくなっているのです。
北米に八百万人もいたインディアンは、いまではわずか三十五万人です。
しかもその全員が、白人との混血です。
「植民地になる」ということは、そういうことなのだということを、私たちはちゃんと知る必要があろうかと思います。
私たちの先人が、日本が植民地とならないために(なったら十人中九人が殺される)、どれほどの犠牲と努力をはらい、日本を護り抜いてきてくれたか。
そのおかげで、いまの私たちが生きています。
日本という国があります。
平和を満喫し、世界中のおいしい料理を食べることができ、エアコンの効いた部屋で過ごせるという豊かな生活を送ることができています。
それは他の誰でもない。
私たちの先人たちが、私たちを守ってくれたおかげです。
そういうことを、私たちは、きちんと知らなければいけないし、子供たちに教えなければいけないと思います。
パラオはもともと産業のある国ではありません。
人口の九割が失われ、もうこれ以上収奪するものが何もなくなると、スペインはわずか四百五十万ドル(日本円で四億円くらい)で、パラオを含むミクロネシアの島々全部を、ドイツに売却してしまいました。
買ったドイツは、パラオの原住民を使役して、ココナッツの栽培などにチャレンジするのですが、あまり生産はあがりませんでした。
そのドイツもスペイン同様、現地の人々への教育や道路、流通の整備、産業の育成や法や行政諸制度の整備などは、まったく行っていません。
そのドイツが第一次世界大戦で敗戦国になると、戦勝国である日本がドイツの代わりにパラオを含むミクロネシアの島々一帯を統治することになります。
大正八(一九一九)年、パラオはパリ講和会議において、正式に日本の「委任統治領」となったのです。
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「与える統治」を行った日本
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なぜ日本がパラオを統治するようになったのでしょうか。
それには理由があります。
日清、日露を戦い、西欧諸国に匹敵する強国となった日本は、第一次世界大戦後のパリ講和会議で、新たに設置される国際連盟の憲章に、「人種の平等」を入れるように提案しました。
しかしこれは、英米の頑強な抵抗にあって頓挫してしまいます。
代わりに日本に与えられたのが、ドイツが所有していたパラオを含むミクロネシア一帯の統治だったのです。
これは日本に資源のないミクロネシアを与えれば、さしもの日本も西欧諸国と同じように、植民地支配者として収奪をはじめるであろう、よしんばそこまでしなかったとしても、日本の支配地域を太平洋に大きく張り出させることによって、日本の海軍力を削ぐ効果を生むことができるであろうという見通しのもとに行われたといわれています。
ところが、こうした西欧諸国の企図とは裏腹に、なんと日本はパラオ統治を受けると、すぐにパラオに南洋庁を設置し、学校や病院、道路などの建設をはじめ、地元民の教育と、行政制度の確立、街のインフラの整備と産業振興をはじめたのです。
それまでの世界の委任統治というものは、収奪するだけのものです。
ところが日本は「奪う統治」ではなく「与える統治」をはじめたのです。
その結果がどうなったかというと、日本が委任統治を開始してからパラオ先住民の人口は増え続け、昭和十八(一九四三)年には約三倍の六千四百七十四人になっています。
二十四年で三倍です。
いかに日本の統治が手厚かったか、これだけでも分かろうというものです。
当時、パラオに新しくできた学校には、若き日の中島敦も赴任しました。
中島敦といえば、『山月記』や、『李陵』『弟子』『名人伝』で有名な作家です。
彼の文章は、漢語体のいわゆる名文調で、この世でもっとも美しい文章を書く人と絶賛を浴びています。
そういう優秀な人材が、パラオの人々のための教科書編纂係として現地に赴任したりしていたのです。
日本はパラオで、日本語の教科書を使い、日本語の教育を行いました。
これには理由があります。
パラオには文字がなかったのです。
さらに近代教育に必要な──たとえば数学や地理、歴史等の教育を行うにあたって必要な単語も、パラオにはありませんでした。
ですから、そうした単語を豊富に持つ日本語で教育を行うしかなかったのです。
そして、パラオの子供たちは、実によく勉強しました。
当時の日本領全域(日本本土を含む)で行われた全日本共通テストで、なんとパラオの学校は総合二位、算数では一位を取りました。
これは、日本がパラオで、優秀な教育を施していた証拠であるとともに、パラオの子供たちが、いかに教育を受けることを歓迎していたかが分かる逸話です。
ところで、学校、病院、道路などは、いったいどのようにして造ったのでしょうか。
そういう都市インフラとは無縁だった現地の人たちに、いきなり「街を作れ、道路を作れ、橋を架けろ」と言っても、できる相談ではありません。
私たち普通の日本人が、いきなり「東京タワーをつくれ」と言われても、できないのと同じです(建設業関係のお仕事の人は別ですよ)。
では、日本はどうやってパラオのインフラを整備したのでしょう。
日本は、日本の歳費を割いて、パラオに土木建築業者や教師、行政官吏を派遣したのです。
「やってみて、やらせてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」をそのまま行動に移したのです。
まず日本人が、やってみせてお手本を示します。
そして、現地の人にも、少しずつやってみてもらい、そのうえで成果が上がったら、ともに喜びをわかちあうのです。
日本はパラオにあらゆるインフラを整備しましたが、それはことごとく、日本の国費で賄いました。
そして戦後は、前々からの宣言のとおり、すべてのインフラをパラオの先住民たちに無償で譲り渡しています。
けれど日本人がパラオに残した一番のもの──。
それは、学校や病院などのインフラよりも、もっともっと貴重で尊いもの──
「ほんとうの勇気」
「ほんとうのやさしさ」だったのです。
中川隊長以下、勇敢に戦い、散っていかれた方々に、あらためて黙祷をささげたいと思います。
20151208 倭塾・動画配信サービス2

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日本とパラオ ~歴史を越えた友情~


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