20160720 日本史検定7期

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東寺 帝釈天像
20150804 東寺 帝釈天

国民学校「初等科国語八」から、一文をお届けします。
いまで言ったら、小学6年生用の教材です。
文はねず式で現代語に訳してあります。
比較的短い文です。
********
国民学校「初等科国語八」七
【修行者と羅刹(らせつ)】
 色はにほへど散りぬるを、
 わがよたれぞ常ならむ。
どこからか、そんな歌が美しい声で聞こえてきます。
ところは雪山(せっせん)の山中です。
長い長い難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふとこのことばに耳を傾けました。
修行者の胸に、言い知れぬ喜びがわきあがってきました。
それはまるで、病人が良い薬を得たとき、あるいは喉の乾いた者が清涼な冷たい水を得たのにもまして、大きな悦びでした。


「今のは仏の御声ではなかったろうか」と、彼は思いました。
しかし、
「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。無常は生ある者の免れない運命である」といふ今の歌の言葉だけではまだ十分とはいえない。
もしもあれが御仏の言葉であるのなら、何かそのあとに続く言葉がなくてはならない。
彼は、そのように思いました。
修行者は、座を立ってあたりを見まわしました。
けれど、仏の御姿はもちろん、人影もありません。
ただ、ふとそば近くに、恐しい悪魔(あくま)の姿をした羅刹(らせつ)がいるのに気が付きました。
「この羅刹の声であつたらうか」
そう思いながら修行者は、じっとその形相を見つめました。
「まさか、この無知非道な羅刹の言葉ではあるまい」と一度は否定してみたのですが、
「いやいや、彼とても、昔の御仏に教えを聞かなかったとは限るまい。よし、相手が羅刹や悪魔であっても、それが仏の御言葉であるのなら、聞かなければなるまい」
修行者はこのように考えて、靜かに羅刹に問いかけました。
「いったいおまへは、誰に今の言葉を教えられたのですか。思うに、その歌は仏の御言葉であろう。それも前半分だけで、まだあとの半分があるに違いない。前半分を聞いてさえ、私は喜びにたえないが、どうか残りを聞かせて、私に悟りを開かせておくれ」
すると、羅刹はとぼけたように、
「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹が減っています。あんまり減ったので、つい、うわ言が出たかも知れないが、わしには何も覚えがないのです」と答えました。
修行者は、いっそう謙遜な心で言いました。
「私はおまへの弟子にならう。終生の弟子にならう。どうか、殘りを教えてください」
羅刹は首を振りました。
「だめです、行者さん。おまへは自分のことばっかり考えて、人の腹の減っていることを考えてくれない」
「おまえは何を食べるのですか」
「びつくりしちやいけませんよ。わしの食べ物というのはね、行者さん、人間の生肉、それから飲み物というのは人間の生き血さ」
と、言うそばから、さも食いしんばうらしく、羅刹は舌なめずりをしました。
しかし、修行者は少しも驚きませんでした。
「よろしい。あの言葉の残りを聞かせてくれるなら、私の体をおまえにやってもよいです」
「えっ。たつた二文句ですよ。二文句と、行者さんのからだと、取りかえっこをしても良いと言うのですかい?」
修行者は、どこまでも真剣でした。
「どうせ死ぬべきこのからだを捨てて、永久の命を得ようというのです。何でこの身を愛(いと)うことがあるでしょう」
そう言いながら、彼はその身に着けてゐる鹿(しか)の皮を取つて、それを地上に敷きました。
「さあ、これへお座りください。つつしんで仏の御言葉を承りましょう」
羅刹は座に着いて、おもむろに口を開きました。
あの恐しい形相から、どうしてこんな声が出るかと思われるほど美しい声です。
 有爲(うゐ)の奥山今日(けふ)越えて
 浅き夢見し酔ひもせず
と歌ふように言い終わると、
「たったこれだけですがね、行者さん。でも、お約束だから、そろそろごちそうになりましょうかな」
と言って、ギョロリと目を光らしました。
修行者は、うっとりとしてこの言葉を聞き、それをくり返し口に唱えました。
すると、
「生死を超越してしまへば、もう浅はかな夢も迷いもありません。そこに本当の悟りの境地があるのです」
という深い意味が、彼にはっきりと浮かびました。
彼の心は喜びでいっぱいになりました。
この喜びをあまねく世に分(わか)って、人間を救わなければならないと、彼は思いました。
彼はあたりの石といわず、木の幹といわず、今の言葉を書きつけました。
 色はにほへど散りぬるを
 わが世たれぞ常ならむ
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢見し醉ひもせず
書き終ると、かれは手近にある木に登りました。
そのてっぺんから身を投じて、羅刹の餌食(えじき)になろうといふのです。
木は、枝や葉を震はせながら、修行者の心に感動するかのように見えました。
修行者は、
「一言半句の教えのために、この身を捨てるわれを見よ」と高らかに言って、ひらりと樹上から飛びました。
とたんに、妙(たえ)なる樂(がく)の音が起こって、ほがらかに天上に響き渡りました。
と見れば、あの恐しい羅刹は、たちまち端嚴な帝釋天(たいしやくてん)の御姿となって、修行者を空中にささげ、そうしてうやうやしく地上に安置しました。
もろもろの尊者、多くの天人たちが現れて、修行者の足もとにひれ伏しながら、心から礼拝しました。
この修行者こそ、ただ一筋に道を求めて止まなかつた、ありし日のお釈迦(しゃか)樣でした。
*******
さて、この一文が何を説いているのでしょうか。
釈迦の偉大さでしょうか。
羅刹の怖さでしょうか。
なるほど最初、羅刹は、いかにも丁寧な言葉づかいで近づいてきています。
だいたい、悪いやつに限って、最初は柄にも合わない物腰で近づいてくるものですから、そういうことに気をつけなさいといった意味も、多少はあるのかもしれません。
けれど、この一文が生徒たちに伝えていることは、
「志(こころざし)」の大切さです。
昨今では学校でも家庭でも、あるいは職場でさえも、子供たちや部下たちに「あなたの夢は何ですか?」と問うようですが、ひと昔前までの日本では、「夢は?」などと誰も聞かなかったものです。
代わりに問われたのが「あなたの志は何ですか」です。
たとえば「将来は?」と聞かれて、
「戸建ての家に住みたい」とか、「ダンプカーの運転手になりたい」、「国家公務員になりたい」などという答えは「夢」です。
けれど「志」だと、
「私塾を開いて若者たちの育成をするために、戸建ての家に住みたい」
「地震に負けない強靭な国土を作るために、大型ダンプの運転手になって貢献したい」
「国の福祉を充実させるために、国家公務員となって貢献したい」
などとなります。
つまり「志」には、「〜のためにという意思」と「未来に通じる覚悟」があります。
上にご紹介したお釈迦様のような身を犠牲にしても、ということまでは、誰でもできるものではありません。
けれど、「志を持つ」ことは誰にでもできます。
ある友人が、職場で後輩の社員に言ったそうです。
「会社のために働くなんて、ケチくさいことを言うな。どうせ働くなら、世のため人のために働け」
自分の夢を実現したいと考えるから、夢に近づく給料を得るために、会社で働くという意識が生まれます。
するとその働き方は、会社のために働く、となります。
こうなると、会社の利益があがるなら、何をやっても良いという考え方になります。
そして、顧客に媚を売りながら高値で商品を買わせ、下請けを叩いて利鞘を稼ぐという発想になります。
夢から出発した思考の間違い(あえて間違いと言わせていただきます)が、結果として、自己の利益ばかりを追い求めるという身勝手さを生みます。
友人は、だから「そうではなく、この仕事を通じて、世の役に立つのだ」と後輩に言いました。
仕事を通じて世の役に立とうというのなら、それはプロにならなければできないことです。
だから仕事を学び、仕事のプロになるべく努力することになります。
そしてその努力を通じて、世の中に少しでも貢献していくようになります。
お客様にも、下請けさんにも喜んでいただけるようにする、そのための行動が生まれます。
するとそこに「信用」が生まれます。
そして「信用」という名前の預金残高が増えることで、自然と、より大きな世の中への貢献ができるようになります。
根底にあるのは、まさに「志」です。
「日本を取り戻したい」、いま、多くの保守系の方が、そのような言葉を口にします。
けれど、それがただの「夢」としての「日本を取り戻したい」なら、批判と愚痴だけに終始することになります。
けれど「日本を取り戻す」という「志」なら、そこに「覚悟」が必要です。
「覚悟」の内容は、人によってそれぞれ異なると思います。
「子や孫のために」という方もおいでかと思います。
「日本の平和と安定のために」という方もおいでになることでしょう。
「多くの人々の幸せのために」もあろうかと思います。
そしてもうひとつ、そこには「〜を通じて」という行動が含まれることになろうかと思います。
いま自分がいる、その場、その生活空間を通じて、世の中のために、子のため、孫のために、より良い日本を取り戻していく。
それは決して難しいことではなくて、自ら率先して学び、語り、伝えていくことなのだろうと思います。
そしてたいせつなことは、いっぺんに何か大きなことをする、ということではなくて、なにより「続ける」ことであろうと思います。。
日本を取り戻そうとすると、それに困る人達もいます。
いわゆる敗戦利得者たちです。
自分たちの悪行が露見する。
だから必死になって、日本を取り戻そうとする人たちを攻撃し、破壊しようとします。
その敗戦利得者たちは、まさに利得者ですからカネがあります。
そしてあらゆる価値判断の基準がカネです。
ですから最大の弱みがカネでもあります。
そこでこの敗戦利得者たちを利用する者たちもいます。
戦争の形は、核の登場によって大きく変わったのです。
ドンパチが戦争ではなく、ドンパチをするぞと見せかけながら、手に入れたい国の内部崩壊を誘います。
その国の政府など、あらゆる機関にスパイを潜りこませ、スパイに巨額の資金を与えます。
周囲はカネに弱い者たちばかりです。
片端から買収していく。
そしてひとつの国家を内部から崩壊に導き、征服します。
これが現代の戦争の、ひとつの形です。
そのスパイたちは、ですから日本を守ろう、取り戻そうとする勢力の内部にもスパイを潜りこませます。
そして同じ保守同士で、互いに名誉を削ぎ、信用を貶めあい、馬鹿にしあい、中傷しあい、離間工作が行われます。
そのような工作にやすやすと引っかかる人もいます。
しかし、叩かれているということは、本当におかしいから叩かれているというケースと、工作員からみて、日本を取り戻そうとするホンモノだから潰そうとしているケースがあります。
その人が、ホンモノなのか、おかしい人なのか。
先日、「小人閒居して不善をなす」という記事(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3074.html)に書きましたが、『大学』は、人の腹の中は、その人の肺腑や臓器を見せろといようなもので、わからないと書いています。
けれどその直後に、顔見りゃわかるでしょ?と『大学』は書いています。
おもしろいものです。
人相に出るのです。
若いうちはわかりません。
けれど、50代、60代以降になると、生き方は顔に出ます。
もっともそれにはおもしろいところがあって、自分がしっかりと生きようとしていれば、自然と同じように生きている人が見えてくるし、自分がだらしなくしていれば、だらしない人が良い顔に見えてくるようです。
やくざ者には、やくざ者が格好良く見えるのです。
真面目な人には、より真面目な人の顔が、より良く見えます。
要するに自分がどう生きるかによって、人相の見え方も違ってくるというわけです。
今日の記事は修行者と羅刹ですが、そういう意味では、仏教彫刻などは人の顔を見るのにたいへんに適したものかもしれません。
どのお顔の仏像が良いお顔に見えるのか。
その仏像は、なんという名前なのか。
日本を取り戻したいということが、ただの「夢」なら、工作に引っかかって夢を放棄しあきらめることもあろうかと思います。
けれど日本人には「志」があります。
そして「志」の前には、どのような工作も無意味です。
なぜならそれが「志」というものだからです。
誰に何を言われようと、中傷されようと馬鹿にされようと、損をしようと、我が身を捧げることになろうと、前進し続ける。
それが志です。
 色はにほへど散りぬるを
 わが世たれぞ常ならむ
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢見し醉ひもせず
なのです。
※この記事は2015年8月の記事のリニューアルです。
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