20160720 日本史検定7期

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20160804 天下雖安
写真:山本五十六記念館(長岡市)

写真は、新潟県長岡市にある山本五十六記念館に展示されているものです。
米内光政が山本五十六に贈った掛け軸の書です。
実に見事な書です。
ここに、
 國雖大 好戦必亡
 天下雖安 忘戦必危
と書かれています。
これは秦の将軍、司馬穰苴(しばじょうしょ)の『司馬法(しばほう)・仁本(じんほん)篇』第二節にある言葉です。
読み下しますと次のようになります。
 国が大なりといえども、戦を好めば必ず亡(ほろ)ぶ。
 天下安らかなりといえども、戦を忘れれば必ず危うし。
実に示唆に富んだ言葉です。
この言葉には、さらにその前段があります。
そこには次のように書かれています。


 戦道不違時 不歴民病 所以愛吾民也
 不加喪不因凶 所以愛夫其民也
 冬夏不興師 所以兼愛民也
 故国雖大 好戦必亡
 天下雖安 忘戦必危
(読み下し)
戦いの道は時に違(たが)えず、民の病(うれい)を歴(へ)ず、吾が民を愛する所以(ゆえん)なり。
喪を加えず、凶に因らず、夫其(ふそ)の民を愛する所以なり。
冬夏に師を興(おこ)さず、民を兼愛(けんあい)する所以なり。
故に国が大なりといえども、戦を好めば必ず亡(ほろ)ぶ。
天下安らかなりといえども、戦を忘れれば必ず危うし。
(現代語訳)
戦いは、情況の必要によるものです。
ですから戦いは、国民が侵されてから行うのではなく、国民を愛するが故に行われるものです。
誰かが死んだからとか、良くないことが起きたからとかではないのです。
どこまでも民を愛するからこその戦いなのです。
夏冬の農閑期だから戦うのでもなく、どこまでも民を愛するからこそ行うのです。
だからこそ、どんな大国であっても、その国がただやみくもに戦争を好めば必ず滅んでしまいます。
逆に、国がどんなに安泰であったとしても、戦うことを忘れれば必ず国を危険にさらすことになるのです。
もうすこし噛み砕いていうと、
 戦争は、
 施政者の都合で起こすものでもなければ、
 民が求めるから起こすものでもありません。
 民を愛するがゆえに行うものなのだから、
 平時において国防をおろそかにせず、
 また深追いするものでもありません。
となります。
簡単に言ったら「備えあれば憂いなし」ということですが、ここで注目すべきは「所以愛吾民也」とあることです。
どこまでも施政者が、民を愛することが基本だと説いています。
これがChinaの紀元前3世紀の将軍の言葉です。
いまどきのChinaに、その心がけを持った将軍はいるのでしょうか。
中共のことばかりを言っていることはできません。
いまの日本に、本当に国民を愛し、国民の誰もが本当に豊かに安全に安心して暮らせる世を目指している政治家がどれだけいるのでしょうか。
聖徳太子は、十七条憲法の第5条で「絶餮棄欲」、第6条で「懲悪勧善」と説きました。
「むさぼりを絶ち欲を棄てよ」
「悪をこらしめ善を勧めよ」という意味です。
古事記においても、悪が再三登場します。
ではその「悪」とは何かといえば、それは「欲心、私心」であると書かれています。
ということは、上にある十七条憲法の二つの言葉は、
「私欲を捨てよ」
「私欲私心をこらしめ、善を勧めよ」
という意味だとわかります。
なぜそうなるのかといえば、姿勢には「愛」が不可欠だからです。
外国のスパイが野党第一党の党首になろうという噂もあります。
そうでしょう。スパイなら巨額の機密費が使えます。
欲に駆られれば、国を失う。
中共にしてみれば、ドンパチなんて必要ないのです。
欲に目がくらんだ政治家に、カネという薬をかがせるだけですむ。
こういうことが、政治の場に入り込まないようにすることが、政治以前の問題だと思います。
冒頭の書には「山本元帥」とあります。
ですからこの書は、米内光政が、山本五十六海軍大将の死後に贈られた書とわかります。
だから「空憶」と右に書かれています。
「国雖大 好戦必亡 天下雖安 忘戦必危」は、軍人(武人)も政治家も、ともに「常在戦場」の言葉を忘れないという意味において、たいへん示唆に富む言葉です。
しかしそれと同等に、前段にある「何のために戦うのか」は重要だと思います。
なぜならそれは、どこまでも「民を愛するがゆえに戦う、民を守るために常に戦いに備える」ということだからです。
戦いというのは、もちろんドンパチも戦いですが、日常においても人の一生は常に戦いの連続です。
それは自分との戦いでもあるし、大きな力との戦いであったりもします。
そのとき、何のために戦うのか、なぜ戦うのか、そしてなぜ戦うのかといえば、「兼愛民也」、つまり愛する民のために戦うのだし、平時にあってもその戦いに備えるものだというのです。
都合や、求められたからではないのです。
東京都に小池知事が誕生しましたが、その小池氏は、既存政党、既存組織のすべてを敵に回しての戦いを制して都知事となりました。
既存政党、既存組織というのは、見方を変えれば既得権益ということです。
つまり小池氏は、戦後に生まれた既得権益を敵に回して選挙戦を戦い、これを制しました。
なんのために戦ったのか、そしてどうして多くの民衆が小池氏を熱烈に応援したのかといえば、小池氏が明確に「都民のために」戦うという姿勢を打ち出したからです。
そしてその答えは、登庁のその日に明確に結果となって現れました。
自民党の都連の議員たちも、都議会のドンと言われた内田氏も、その場に顔を出さなかったからです。
どんな不都合であったとしても、正々堂々と戦い、その結果については従容としてこれを受け止め、協力すべきは積極的に協力する。
なぜなら東京都議会議員は、どこまでも都民のために存在するものだからです。
ところが、最初からまるで幼児がダダをこねるようにして、知事を拒否する。
では、彼らはもし鳥越氏が知事になったとき、同じ行動をとったのでしょうか。
そうでないとすれば、ただの甘えです。
そしてその甘えが、既得権益と結びつき、都民のための都政ではなく、議員ための都政をしてきたから、都民のためにと選挙を戦い、勝利した小池氏を受け入れられない。
それがドンだというのだから、日本も落ちたものです。
個人のイジメ問題などでもおなじです。
何のために戦うのか。
イジメられたからといって、ただイジメっ子に立ち向かうだけなら、それは自分の都合です。
けれど、イジメを行う者は、必ず外にも迷惑をかけているものです。
その迷惑をかけれられているみんなとともに、みんなのために戦う。
そういう戦いができる自分に成長していくことが、個人としての戦いに備えるということです。
何も戦いは、軍隊だけの専売特許ではないのです。
人間という単語は、「人の間」と書きます。
人と人との関係のなかで、環境に適合していくから「人間」です。
ですから、ごく少数のために、他の人を蹂躙するのは、人間ではありません。
それは「人間の外」ですから「外人」です。
「外人」というのは、外国人という意味ではありません。
人の姿をしていても人ではない者が「外人」です。
その外人におもねり、自己の利益や自己保身を図る者もまた「外人」です。
これを「人の皮をかぶったケダモノ」と言います。
ケダモノとなる道を選ぶか、自立した人間として生きる道を選ぶか。
ケダモノ国家となる道を選ぶか、誰もが豊かに安心して安全に暮らせる道義国家としての道を選ぶか。
その選択のすべては、わたしたち自身にかかっているのだと思います。

20151208 倭塾・動画配信サービス2

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