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水戸黄門のラストシーンでお馴染みの、黄門様のセリフは、「助さん、角さん、懲らしめてやりなさいっ!」でした。
このセリフ、実はとっても日本的です。
助さんや格さんが、このとき戦う相手は、武装した悪徳代官や悪徳商人の一味です。
一味の連中がどういう連中かというと、たとえば藩主を廃絶して悪徳仲間で政権を牛耳ろうとしたりしている、いわば政府転覆をはかろうとする連中です。
そのために、平気で人を踏みにじります。
要するに我欲のために平気で人を踏みにじるウシハク存在であり、テロ集団です。
そしてこのようなテロ集団は、水戸黄門が連続ドラマであった時代よりも、むしろ今の日本に数多く跋扈しているように思います。
水戸黄門の放映が終わるわけです。
まるで自分たちのことを描写されているように感じたのであろうかとも思います。
水戸黄門のドラマは、特徴的です。
ハリウッド映画なら、スターウォーズのダースペイダー一味や、悪の帝国みたいなもので、こういう場合、アメリカンヒーローなら、敵をバッタバッタと打ち倒し打ち破り、敵を全滅させて美女を救出してきて、めでたしめでたしです。
ところが水戸黄門は、どこまでも「懲らしめてやりなさい」です。
テレビドラマの黄門様も、石田浩二や里見浩太朗が黄門様役をするようになってからは、監督かプロデューサーが日本人でなくなったためなのか、「懲らしめる」といいながら、助さんや格さんに、由美かおるや照英まで加わって、バッタバッタと悪人たちを斬り殺すようになりました。
けれど黄門様を東野英治郎や西村晃が演じていた頃は、悪人たちを殺さない峰打ちでした。
もっと前の黄門様、たとえば昭和32年の「映画・水戸黄門」では、主演が月形竜之介なのですが、ここでは黄門様ご一行が暴れ回るお楽しみ乱闘シーンで、刀を手にした大勢の悪人を前に、助さん格さんは、刀さえ抜きません。
手にしているのは十手です。
黄門様も杖だけで戦うという描写でした。
相手の暴徒たちを斬り殺そうという意思が、そこにまったくないのです。
暴徒たちを相手に刀を振るうのは、義憤を感じた善玉の武士が、その場に助太刀して、刀を持って暴れるくらいで、すると悪人たちは、「引け、引け〜」といって、簡単に逃げていってしまいます。
要するに、あくまで襲って来たものに対して自衛のために「武」を用いています。
テレビドラマの黄門様は、東野英治郎の時代には、「懲らしめてやりなさい」と、やや能動的に武力を用いるようになりましたが、それでも、悪人を懲らしめるだけで、殺してなどいないのです。
当然のことです。
日本人にとって「武」は、どこまでも「相手の矛を止める」ためのものなのです。
ハリウッド映画では、米国の庶民感情を反映して、「弱い者を守るのは素晴らしいことであり、それを守るために行われるすべてのことは正しい」となります。
ですから「懲らしめる」のではなく、戦い、なぎ倒し、殺します。
China映画ですと、ヒーローが、今度は何百何千という敵をなぎ倒します。
まさに白髭三千丈で、話が大げさになります。
映画やドラマというのは大衆芸能ですから、それぞれの国ごとの民族感情が色濃く反映されるようです。
問題は、日本です。
すくなくとも、昭和30年代くらいまでは、武を手前勝手な都合に用いることは非道であり外道のすることという感情が強かったのです。
「武」はあくまでも、そういう外道の矛を止めるという「常識」が明確に働いていたのです。
ところがその後の高度成長期になると、相手を懲らしめるために「積極的に武を用いるけれど、それはあくまで懲らしめるためのものであって、殺すことはしない」と変化しました。
バブル期になると「懲らしめるといいながら、殺しまくる」という描写に変わています。
大衆芸能というのは、大衆が求めるものを提供するからヒットするわけで、提案した作品と大衆の求めるものに齟齬があれば、その作品は売れないし、テレビなら視聴率があがりません。
最初のうちは良いのです。
たとえば「子連れ狼」は、時代劇が衰退していく中で、空前のヒットとなりました。
劇画調にバッタバッタと人を斬る。
悪人たちを切り倒す。
現実には絶対にできそうにない、大殺戮、大虐殺が、たったひとりの手によって行われ、鮮血がほとばしる。
けれど、そうした残酷な描写は、一時的には人目を引いてヒットに結びつきますが、日本人は、そこからすぐに離れてしまいます。
ヤクザ映画も同じです。
義理と人情の渡世映画が、次第に鮮血がほとばしる残酷映画に変わっていき、変わっていくことで一時的なヒットは飛ばしましたが、結局衰退しました。
そして仁義なき戦いシリーズに代表される、義理もなければ人情もない。ただ怒りと不条理だけが描写される映画が大ヒットとなりました。
そしてヤクザ映画は、衰退しました。
「どんな手を使おうが勝てば良い」という思想は、はじめのうちは日本人に「認知不協和」を引き起こして、めずらしいもの見たさの人を集めますが、そうした日本人の感情にもともとないようなものは、結果として衰退してしまうのです。
水戸黄門シリーズも同じです。
不条理に対してただ「懲らしめる」だけだったシリーズが、いつの間にか、懲らしめるのではなく平気で人を殺戮するようになり、ついに番組終了頃には、なんと黄門様のご一行が、情報を得るために平気で人を騙すようになりました。
いくら人気俳優を使っても、これではお茶の間に受け入れられません。
結果、夜8時台のゴールデンタイムの黄門様よりも、午後4時からのリバイバルの黄門様の方が視聴率が良くなり、これで局側も少しは気付くのかと思ったら、結局黄門シリーズそのものが打ち切りになってしまいました。
普通の日本人なら誰もが気付く、自分たちの番組作りの間違いに、彼ら自身はまるで気づかなかったのでしょう。
たた「勝てば良い」という、日本人のような顔をした日本人でない人たちの感覚では、理解不能であったのであろうと思います。
そういえば人情路線の「大岡越前」や、大川橋蔵の「銭形平次」も、随分昔に失くなってしまいました。
日本人にとって、「武」はあくまで相手の矛を止めるためのものです。
むやみに武を用いることは暴力として、日本人は忌避します。
そしてほんとうに強い者は、相手を殺戮するのではなく、相手を懲らしめ、相手にわからせる。
わかるだけの教養が、悪人の側にもあるのが日本です。
昨今、空手や柔道や剣道を、どこぞの国の人が、「ウリたちの方が強いニダ。発祥も我が国ニダ」と言っています。
けれど、試合でいくら勝てたとしても、それは単なる時の運です。
そもそも実力が伯仲した者同士の試合なら、勝敗は、努力と時の運です。
武士であれば、自分よりもはるかに強い相手であっても、また、相手が幾人あろうとも、そしてそのとき自分が老齢であったり、あるいは病気で体調を崩していようとも、目の前に不条理があれば戦わなければなりません。
そして、自分の死をもって、相手にわからせるということもまた、武士の道とされました。
勝つことも、ただ勝てば良いのではく、正々堂々と、正しさを貫くことではじめて勝ったといえることで、卑怯卑劣な手段を用いて勝利を得ても、そのような勝利には何の価値も見出さないのが日本人です。
だからこそ、たとえばフランスにおいて、柔道は名門大学でも必須科目になるという普及をしているのです。
なぜそこまで普及したかといえば、単に強いからではありません。
柔道をやろうが、ボクシングをやろうが、無手勝流であろうが、ケンカになれば、強いほうが勝ちます。
フランス人が柔道を受け入れたのは、柔道が礼にはじまり礼に終わり、青年たちの精神をまっすぐに鍛える文化と思想を伴うものであったからです。
ただ強いからではないのです。
わたしたち日本人は、その思想性を本能として知っています。
だから、それ以外の、単に強ければ良いというものは、一時的にはもてはやされても、結果的には廃れます。
大衆から、その競技も人も、見放されます。
けれど、そうした日本武道が世界に出て行くとき、ややもすれば、その思想性が忘れられてしまいます。
わたしたちは、世界に出て行くとき、これは武道に限らずあらゆることについてですけれど、そういう日本的思想について、ちゃんと知り、かつ周囲の人たちに語れるようになっていかなければならないのだろうと思います。
それも、日本を取り戻すうちのひとつなのではないかと思うのです。
※この記事は2014年6月の記事のリニューアルです。


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