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20160315 南京事件

ショッキングなタイトルですが、虐殺すべし、というわけではありません。
もっと正確な言論が必要だということです。
南京で大虐殺があったというのが、中共を筆頭とする日本の左翼の立場です。
これに対して日本の保守の立場は、そんなものはなかった、という立場です。
左翼からみたら、保守は、右にあります。
しかし、片方が「あった」としているものを、「なかった」というのは、相手の言っていることに対抗しているだけで、実は正確な発言ではありません。
国際法に従えば、交戦の際には次の4つの要件があります。
 1、責任者の存在、
 2、遠方から認識し得る特殊徽章、
 3、公然と兵器を携帯すること
 4、その行為に付き戦争の法規慣例を遵守すること
このことが意味していることは、要するに交戦は軍人が行うものであって、交戦者はちゃんとそれとわかる服装をし、それとわかる武器を公然と携行し、どこまでも戦禍が続かないように、停戦交渉等の際の意思決定権者である責任者が存在し、その責任者は、ちゃんと戦時国際法を守って戦わなければならないということが、これが国際法で規定された交戦のルールです。
ところが南京事件で実際に起きたことは、


1 国民党の責任者は、日本軍がやってきたらさっさと逃げてしまった。
2 国民党は、便衣兵であり、民間人の服装をしていた。
3 国民党の便衣兵が武器を隠し持ち、一般人に混じって日本兵を殺傷していた。
4 国民党は戦争に関する法慣例をまったく無視していた。
加えて彼らは国家ですらなく、平和だった南京に、武器を持って突然乱入した連中です。
つまり国際法上のテロリストです。
そのテロリストたちが南京の市民を虐殺し、民家を焼き払い、民間人に銃を突き付けて、日本軍との戦闘をさせていました。
これは明らかに不法集団です。
この不法集団を追い払うために日本軍が向かったのです。
すると国民党の代表である蒋介石も、国民党軍の指揮官である唐生智もさっさと逃げ出し、国民党軍は責任者不在の状況となりました。
その中で国民党兵は、一般人に混じり、便衣兵となって、その一部が南京城内に残って南京市民や日本兵に対する殺傷行為を図ろうとしました。
この場合、日本側からすれば、便衣兵が民間人に紛れ込んでいる以上、どれが国民党兵であり、どれが民間人かの区別がつきません。
そうであれば、本来の軍の活動としては、その時点で南京にいる市民の全員をまとめて殺しても、それは国際法上適法な行為となりますし、世界の軍隊であれば、それが普通の軍の行動であり意思決定です。
そういう一般市民の虐殺にならないために戦時国際法があるのです。
しかしChineseの側が法を守らないなら、これは彼ら自身が招いた自業自得です。
日本は、南京城攻略後、場内に便衣兵がいるということがわかった時点で、テロリスト駆除のために、南京城内を完全に焼き払い、城内にいるChinese全員を男女を問わず全員殺戮して構わないし、むしろそのようにすべきというのが、戦時国際法上の交戦時の慣例です。
平時にあるわたしたちからすると、異常なことに思えるかもしれませんが、それが交戦というものです。
にも関わらず、当時の日本軍は、民間人を殺していません。
気がつけば南京の人口は増加の一途をたどっています。
その中には、相当数の便衣兵も混じっていたことでしょう。
その意味では、日本兵は、常に危険と隣り合わせの状態にあったわけですが、これによって日本側は、何人もの死者を出しながら、南京の平和の実現のために、民間人を保護しています。
だからこそ日本軍は、神のような崇高な存在として、当時の人たちに慕われたのです。
その証拠となるスナップ写真も何枚も残っています。
本来なら日本軍は、南京において城内のChinese全員を殺してよかったのです。
それをしなかったということが、どれだけの忍耐と、無辜の市民への思いやりがあったのか。
南京事件があったとか、なかったとかいう議論ではなく、本来全員皆殺しにすべきだったものを、そうはしていないということが、どれだけ人類史上に輝く存在であったのか。
従って、南京問題を議論するならば、国際法に従って、むしろなぜ日本軍が城内のChinese全員の虐殺をしなかったのか、こそが戦犯問題となるべきといって過言ではないのです。
従って、どこぞの国の政府や、国内の左翼が南京事件云々を言うのなら、日本としては、
「はい。おっしゃることはよくわかりました。
 では、次に機会があれば、
 便衣兵というそんざいがある以上、
 遠慮無く我が国はChinese市民を全員を殺害します。
 わざわざご忠告くださって、ありがとうございます!」
で良いのです。
これが戦時というものです。
そして戦時において下手な人道は、結果として迷惑なものにしかならないということを、私たち日本人は戦後、おおいに学ばせていただいています。
平時においては、人道は大切なことです。
しかし人道が守られないから戦時になるのです。
そして戦時においては、人道とは真逆のことが人道になります。
そうしたことを冷徹に実行してきたのが、世界の戦争です。
日本はあの日華事変のさなかにおいてさえ、きわめて人道的な活動をし続けていたために、あとになって日本国内の左翼や中共政府から糾弾されているのです。
逆なのです。
そもそも日本軍は、清朝という外来政権、つまりChinaを植民地支配していた政権との間で、諸外国とともに北京議定書を交わし、諸外国とともにChinaに軍を駐屯させていました。
欧米諸国は、China国内で武器を携行して暴れるものに対しては、一般人、暴徒の区別なく、これをテロリスト(暴徒)と認定して、遠慮無く殺戮していました。
日本軍は、逆に、極力戦端を避けようとしたし、暴れている暴徒の鎮圧はしたけれど、それ以上のことはしないでいました。
だから日本人や日本軍に対しては、何をしても、どんなに非道なことをしても構わないと、Chinaの暴徒たちに日本は侮られたのです。
そして起きたのが、通州事件です。
本来であれば、日本は、南京でも重慶でも、核爆弾でも落として一網打尽にすべきだったのです。
絶対にそのようなことはしてほしくありませんが、そうすることが戦時というものであり、だからこそ広島や長崎に原爆を投下した米国は、国内からも海外からも一切責任を問われることがないという現実を、私たちはもっと直視すべきではないかと思います。
・・・
それにしても、戦争って嫌ですね。
本来、右も左もないと思うのです。
誰もが豊かに安全に安心して暮らせる社会を築こうと努力を重ねてきたのが日本です。
そしてそれが日本の国柄です。
対立することではなく、いかにしたらみんなが豊かに安全に安心して暮らせる社会を築いていけるのか。
そのために横暴をいかにして排除していくのか。
誰が悪いとか、そういう問題ではなく、わたしたちは、そういう本来の日本に立ち返り、本来の日本を取り戻すときにきているのだと思います。
※以上は、先だって行われた日本史検定講座の小山常実先生の講義をもとに、私なりに考察したものです。
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