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「曽我兄弟物語」は「曽我物語」とも呼ばれ、赤穂浪士物語、伊賀越え物語と並ぶ、日本三大仇討ち物語のひとつです。
かつては人形浄瑠璃などで定番だったお話で、下の写真にある静岡県富士宮市の「音止めの滝(おとどめのたき)」も、その名前は曽我物語に由来します。
この滝は、日本の滝百選の一つに指定されている落差25メートルの名瀑で、近くにある白糸の滝とは対照的に豪快で雄雄しい男滝として有名です。

時は、平安末期の頃、伊豆の工藤家と伊東家の間には、長年続くの領地争いがありました。
ある日工藤家の者が、狩りをしていた頭領の伊東祐親に弓を射ます。
放たれた矢は、頭領の祐親をかすめると、脇に立っていた男に誤って命中しました。
射殺されたのは祐親の息子の河津三郎(かわづさぶろう)です。
悲報は妻と二人の息子に知らされます。
亡骸と対面した妻は泣き崩れました。
そして二人の息子に、こう言いました。
「よくお聞き。お父さんは工藤祐経に殺されたのです。
お前たちはまだ幼くてわからないでしょうが、
お前たちが大きくなったら、
お母さんは、
お前たちにお父さんの仇を取ってもらいたいのです」
三歳の弟にはまだ理解できないことでしたが、五歳の兄は、目の前に横たわる父の顔をじっと見つめて言いました、
「必ず、お父さんの仇を取ります。」
その後、母は曽我氏と再婚。兄弟も曽我姓となりました。
兄は曽我十郎祐成(すけなり)、
弟は曽我五郎時致(ときむね)と名乗りました。
義父に大事に育てられた二人は、母の言葉を忘れずに育ちました。
こうして二人の姓は「河津」から「曽我」に変わりました。
戦(いくさ)だけでなく、事故や怪我、病気によって、昔はあっというまに人が死にました。
家長である夫が斃れると、妻は普通に再婚したし、それがあたりまえのことでもありました。
とりわけ平安中期に起こった武家は、もともと新田の開墾百姓であり、江戸風にいうなら農家の名主さんや庄屋さんに相当する人たちです。
そのような、いわば社会の上位にある人たちにとって、領主である夫が亡くなれば、誰かがその領などの財産を相続しなければ、麾下の一族郎党がみんな飢えてしまいます。
もちろん子が元服していれば、一族の主を相続します。
けれど子が幼ければ妻が夫の遺産をすべて相続しました。このことは武家諸法度にも明確に定められています。
そして妻が遺産を相続していて、その妻が別な男性のもとに嫁げば、妻の領土の田畑と婚姻した新夫の領土の田畑が合わさり、領土が広くなります。
田畑は田植えや稲刈りなど、共同できる人が大勢いて、かつまた土地が広大なほど、農業生産性はあがります。
平安期の源氏、そして鎌倉時代の武家の相続は、子が相続する場合、この人数分の均等配分方式でしたから、妻が再婚することによってすこしでも土地が広くなっていれば、子供達の相続がより安定するものとなったのです。
そして社会の上層部がそのように再婚を普通に認める社会でしたから、一般の農家や商家においても、夫死別後の妻の再婚はごく普通に行われていました。
こうした背景がずっと残り、戦時中や戦後すぐの頃、戦地で亡くなった夫に代わり、再婚はごく一般に行われたことでした。
このような時代背景がありますから、兄弟が河津姓から曽我性に代わったことは、多くの人に、わが人生との共感を呼んだであろうと思います。
また再婚後も、前夫の恨みを保ち続けるということは、心も体も次の夫のものとなっても、前夫への鎮魂を忘れない、それが貞淑な妻とも考えられていたわけです。
ある日のこと、野で遊ぶ二人の上に、五羽の雁が飛びました。
空を飛ぶ雁を見て、兄が弟に言いました。
「雁が一列になって飛んでいる。
2羽は親で、3羽は子供だ。
私たちにも親がいる。
でも今の父は、本当の父ではない。
本当の父は、祐経に殺された。
血のつながった父はもういない」
「祐経に会ったら、弓で射て、首を刎ねてやる」と弟。
「大声を出してはならぬ。
このことは誰にも話すでない。
仇討は二人だけの秘密だ」
兄弟は、祐経を仇と定めたのですが、仇討の機会はなかなか巡って来ません。
1192年、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられると、翌年、富士の裾野で大規模な狩の大会が開催されました。
二人は頼朝の家臣団にもぐりこみ、その晩、祐経の宿所を突き止めました。
決行の晩、兄弟は岩陰に身を隠し、祐経の宿所に如何に近づくかの相談をしました。
ひそひそと話そうとするのですが、近くにある滝が、ゴーゴーと鳴り響いて、互いの声が聞き取れません。
兄弟がふと「心なしの滝だなぁ」と、ためいきをつくと、あら不思議、激しい滝の音がぴたりと止みました。
兄弟の相談がすむと、再びゴーゴーという滝の音があたりに響きました。
「俺たちには、神仏のご加護がある!」
この音止めの滝の話も有名なところで、神仏は必ず徴候を見せてくださるという、ひとつの挿話になっています。
地震・水害や、世の中を乱そうとする者が政権を取ったときなどにある、良くない徴候が凶兆です。
逆に良いことが起きる時にあるのが吉兆です。
兄弟は、狩り大会の宿所をあちこち調べました。
月が雲間から顔を出しました。
祐経の宿所が見つかりました。
月が雲間に隠れました。
たちまち豪雨となりました。
雨音は、二人の侵入の足音を消しました。
「起きろ、祐経!河津三郎の息子、十郎なり」
「弟、五郎なり。
亡き父の積年の怨みを晴らしに参上!」
祐経の手が刀に届こうとしました。
その寸前、兄は、祐経の左肩から右わきの下にかけて袈裟に斬りおろしました。
弟の剣は、祐経の腰を貫いてとどめを刺しました。
兄弟は勝利の名乗りあげました。
ここは見せ場の有名なセリフです。
「遠からん者は音にも聞け!
近くば寄って目にも見よ!
我こそは、河津三郎が子、十郎祐成、同じく五郎時致なり。
たった今、父河津三郎の仇、祐経討ち取ったり。
我ら、宿願を果たし候~~!!」
兄弟は、すぐに祐経の家来に取り囲まれました。加勢の者も加わりました。
兄弟は、勇猛果敢に戦うのだけれど、兄は斬り合いの最中に殺され、弟はとらわれます。
翌日、弟は、将軍頼朝の前に引き出されました。
祐経は将軍頼朝の寵臣です。
見事、父の仇を討ったとはいえ、死罪は免れないであろう。
覚悟の定まった弟・五郎は、恐れ気もなく堂々と頼朝に、父が射殺されたことを述べました。
そして、自分たち兄弟の18年の艱難辛苦の日々を語りました。
将軍、頼朝も、若き日々、政治犯の息子として流刑にあい、辛い日々を過ごした過去を持ちます。
そして、頼朝のみならず同席の誰もが、親を思う子の気持ちに痛く感動しました。
しかし判決は「死罪」でした。
五郎は言いました、
「本望なり。
死は覚悟の上のこと。
あの世とやらで亡き父兄(ちちあに)と、
とく(早く)対面いたしたし」
兄・十郎22歳、弟・五郎20歳でした。
「曽我物語」は、鎌倉時代に書かれた物語です。
鎌倉時代における武家諸法度は、仇討を含めて一切の私闘を禁じています。
「喧嘩口論可加謹慎、私之争論制禁之」
というのがそれで、子細あってどうしても私闘をしなければならないときは、奉行所に訴えて、沙汰を待つようにと定められています。
そしてもし違背すれば、死刑か流罪+財産没収という重い刑が科せられました。
ですから、たとえ親を殺されたという恨みがあっても、たとえ武家であっても、御常法に従い、あくまでも奉行所に訴え、奉行の許可を得て尋常に工藤祐経と立ち会うか、奉行に裁量を委ねるか、自重するかしなければなりません。
ましてこの場合における兄弟の父の死は「事故死」です。
工藤祐経は、兄弟の父への殺意があって殺害したわけではありません。
にもかかわらず、これを長年恨み続けるということは、たいへんに不幸なことです。
亡くなった父の河津三郎にしてみれば、たとえ自分の身が滅んだとしても、そのために子が不孝になるのではいたたまれません。
どこまでも子の幸せを願うのが親の心というものです。
まして亡父にしてみれば、男二人の兄弟です。かわいくてたまらなかったことでしょう。
そのかわいい我が子が、わずか20歳や18歳で若い命を散らすことなど、いったいどの親が望むのでしょうか。
それこそ親不孝です。
一方、夫を殺した相手が許せなかったという母の気持ちは痛いほどわかります。
しかしだからといって相手を恨むのは「私心」です。
武家は、どこまでも「公」のために命を捧げる存在です。
棟梁への忠義は、そのためのものです。
にもかかわらず、夫の死を悼む母の私心によって、見事仇討は成し得たけれど、大事な二人の子は早世しています。
父の仇と付け狙い、最後には強大な敵を打倒して拍手喝采という庶民感情と、武家としてあるべき姿は異なります。
なるほど神々は、仇討にあたって滝を止めて吉兆をみせてくれました。
おそらく神々は、あえて曽我兄弟に仇討ちをさせることによって、武士という「腰に刀を下げて弓矢を手にする者」たちにとっての「孝」とは何か、「忠」とはなにか、「公」とは何か、「私心」とは何かを、しっかりと考えるように、あえて兄弟に仇討ちを認めることで、人々に「日本人としての正しい道」を考えるように導いてくれたに違いありません。
そのような意味で、曽我兄弟は死して武人の魂となったのであろうと思います。
日本の歴史を振り返ると、このように神々が意図的に正義を負かせたり、世の中に不条理をあえてつくったりという現象が要所要所に必ず出てきます。
良い例が、保元の乱からはじまる平安末期から鎌倉初期の相次ぐ戦乱の時代です。
その時代があればこそ、日本は元寇を撃退する実力を身につけています。
また戦国時代は国が荒れた時代ですけれど、その戦国時代が我が国を世界最大の鉄砲保有国にし、世界最強の軍事国家として欧米の植民地化の波から日本の独立を守っています。
昨今では曽我物語の持つ意味合いも、ただの仇討物語としてしか解せられず、それは人殺し礼賛の物語だから教科書にも載せるべきではないなどと、わかったようなわからないようなきわめて低次元な議論によって、曽我物語自体がまるで排除され、この物語を知る人自体が少なくなりました。
たいへんに残念なことであり、日本人の劣化そのものを象徴していることなのではないかと思います。
※この記事は2009年8月の記事のリニューアルです。

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