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20160107 米百俵

米百俵(こめひゃっぴょう)といえば、2001年の流行語として覚えておいでの方も多いのではと思います。
当時、小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説で、この言葉を引用して有名になりました。
もともとは幕末から明治初期にかけて活躍した越後・長岡藩(いまの新潟県長岡市東部)で大参事を務めた小林虎三郎(1828-1877)にまつわる故事から引用された言葉です。
越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣でしたが、今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となりました。
豪勇を持って知られ、徳川十七将に数えられた名門の家柄です。
この牧野氏が当時知行していた牛久保は、戦国時、常に今川、武田、織田、松平からの脅威に晒されていたところで、ここから家訓として「常在戦場」の四字が生まれています。
これは「常に戦場にあるの心を持って生きる」という意味です。
米百俵の逸話に出てくる小林虎三郎も、「常在戦場」を座右の銘にしていました。
20151208 倭塾・動画配信サービス2


小林虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残る人でした。
けれど一生懸命に努力して、長岡藩校で若くして助教を務めるほどの俊才となり、長じて佐久間象山の門下生になります。
佐久間象山は、多数の弟子を獲った人ですが、特に吉田松陰と、小林虎三郎を可愛がり「義卿(松陰)の胆略、炳文(虎三郎)の学識、稀世の才」と褒め称えました。
ちなみにこの頃、黒船が来航するのですが、このとき幕府の老中であった長岡藩主の牧野忠雅に横浜開港を建言したのが小林虎三郎です。
このことが原因で小林虎三郎は帰国謹慎を申しつかるのですが、結果として虎三郎のこの案は幕府の採用するところとなり、何もない砂浜だった横浜に、わずか三ヶ月という、おどろくべき短期間で建設されたのが、横浜の町並みで、これがいまの「横浜市」に至っています。
都内から横浜にクルマで行く時には、横浜ベイブリッジを通りますが、あの美しい橋も、もとをタドせば小林虎三郎の建議があったからこそなのです。
戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による会戦論となります。
長岡藩は勇敢に戦うのですが、結果は敗北でした。
そのため、14万2700石あった藩の俸禄は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいます。
減封になったからといって、藩士たちの食べ物が6分の1で済むようになるわけではなく、藩士たちはたいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
残念なことですが、一部の足軽などの下級藩士が、妻子に食べさせる食べるものを得るために商家に盗人に入ろうとして、護衛の浪人者に斬り殺されるという事件などもあったそうです。
あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。
けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたり、わずか2合程度にしかなりません。
そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案しました。
「皆、腹は減っている。
しかし百俵の米をいま、ただ食べてしまったら、それだけのもので終わる。
こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある。
結果、多くの命が失われ、生き残った者も、このように苦しい生活を余儀なくされている。
それもこれも、教育がしっかりしていれば、時勢を見誤ることなく、危機を乗り越えることができたはずである。
そういうことのできる人材が育っていなかったために、藩がこのような窮乏に立たされているのなら、二度と同じことが起こらないよう、しっかりとした人材を育てるべきである。
そのためにこそ、この百俵の米は使うべきである」
誰もが腹を減らしているのです。
藩士だけなら我慢もしましょう。
妻子が目の前で腹を減らしているのに、どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。
藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。
膝詰め談判となったとき、小林虎三郎の目の前には、藩士の刀が突き立てられたそうです。
このとき虎三郎は、静かに「常在戦場」の額を示しました。
「長岡藩の家訓は
『常在戦場』にある。
 戦場にあれば、
 腹が減っても
 勝つためには、
 たとえ餓死してでも我慢をしなければならぬ。
 貴公らは家訓を忘れたか。」
米は売却され、その資金によって藩校が建てられました。
学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。
藩士たちが納得して虎三郎に協力したからこその実現です。
明治政府によって学制が敷かれたとき、この藩校が現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となりました。
本当に苦しいときに、
道義や道徳観を失い非行に走るか、
あるいは辛いからといって逃げ出すか。
知恵は、常に今を生き、未来を切り開くためにあります。
その知恵の源が教育です。
教育から徳義を取り上げ、ただの丸暗記や受験勉強のためだけのテクニックにすり替えたものは、本来の教育の名に値しません。
教育は米百俵の「人をつくるもの」だからです。
小林虎三郎は、
「こうした苦しい状況に藩が追いやられたのも、もとをたどせば、官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、ただ感情に走ったことにある」
と指摘しました。
冷静に時勢を見極めて、藩が二度と決して戦乱に巻き込まれることがないようにしていく。
そのためにこそ、米百俵は、使うべきであるとしたのです。
自らも、藩の武士たちも、みんなが飢えている中で彼はこのことを強く主張し、鉄の意志で押し通しました。
この精神こそ、教育のあるべき精神です。
そんな小林虎三郎は、藩の大参事に就任したとき、妻に離婚してくれと申し入れています。
収入が減って厳しくなっている藩政に責任を持つのです。
妻に迷惑をかけたくなかったのです。
妻は離婚し、実家に帰りました。
けれどその妻は、その後も小林虎三郎を気遣い、毎日虎三郎のもとを訪れて内助の功を尽くしました。
そんな中で、虎三郎の米百俵を学校建設に、という話が持ち上がりました。
虎三郎の妻は、なんとかして夫の主張を、藩の武士たちに納得してもらおうと、藩士の女性たちに集まってもらい、妻たちから夫を説得してくれるように、夫の虎三郎に内緒で行動を起こしました。
結果は、「とんでもない」と追い返されるというものでした。
そしてその帰り道、妻は路上で斬殺されました。
この事件は下手人不明とされています。
けれど狭い藩内のことです。
おそらくは、斬った者もわかっていたことでしょう。
虎三郎は、これをお咎め無しにしています。
公の人である大参事として、藩論をとりまとめる必要があったからです。
虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残っていました。
左目も失明しています。
そんな自分と妻は結婚してくれました。
数年前からひどいリューマチを患ってからも、献身的に介護してくれた妻です。
その妻が殺されました。
藩の大任を引き受けたときに、妻に迷惑をかけてはいけないと、離婚した妻でした。
自分の仕事のために妻に苦労をかけてはいけないと判断したためでした。
その妻が、自分のことが原因で殺されました。
どんなに悔しかったことでしょう。どんなに悲しかったことでしょう。
けれど虎三郎は、あえて下手人探しをさせないという選択をしました。
どれだけ強靭な忍耐力を持った人物だったのでしょうか。
小林虎三郎の生涯は、まさに私に背いて、公に真正面を向き続けた生涯でした。
虎三郎が、この米百俵の逸話を遺したとき、彼はまだ40歳です。
享年が50歳です。
彼の生涯は、まさに「常在戦場」に生きたのです。
いまのわたしたちは、これで良いのでしょうか。
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映画「米百俵」小林虎三郎の天命


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