■「第六期 日本史検定講座」が受講生募集中です。
今期は本当の近現代史を学びます。
http://www.tsukurukai.com/nihonshikenteikoza/index.html

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
(それぞれの画像はクリックすると当該画像の元ページに飛ぶようにしています)

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』が日本図書館協会の選定図書に選ばれたことを記念して、今回はその百人一首から21番歌の素性法師(そせいほうし)をご紹介した内容を、昨年、偕行社の会報誌「偕行」に掲載いただいた記事でご紹介したいと思います。
以下にご紹介する素性法師の歌の紹介文は、私の著書の百人一首本と、内容は同じですが文体が異なります。
「偕行」は、旧陸軍士官クラブで、軍関係者が多いことから、である調の文体になります。
軍は、出来る限り「簡にして要を得る」ことが肝要で、そのため文章も「わかりやすさ」より「しまり」が優先されます。
そんなことから文体がかなり異なります。
ところがその陸軍では、昔から将校、兵の区別なく、みんなで和歌や俳句を親しむ伝統があります。
いつ死ぬかわからないという、常在戦場の中に生きていると、軽はずみなお笑いなどにはまったく感心が向かなくなるのだそうです。
むしろ、何故生まれたのか、何故死ぬのか、何のために生きているのかといった生死に直面した状況の中にあって、自分の生きた証を、31文字の歌にギュッと凝縮する。
そこに自分の生きた証を残す。
そういうことにむしろ本気になるのだそうです。
実は、私は、この文の寄稿にあたり、陸軍の刊行書なのに、あえて事例として海軍のことを書かせていただきました。
すこし極端な言い方をすると、あえて反感を買いやすい書き方をさせていただきました。
「半世紀以上にわたって、和歌に親しんで来られた諸先輩の中で、あえてそういう書き方をして、それでも内容が認められて本物といえる。」 そんな気持ちからでした。
ですからはじめ陸軍士官学校出の先輩も、「これはホントかね」という気持ちを持たれたそうです。
ところが、何度か読み返すと、これ以外にない。そこで自信をもって編集会議に提出したら、他の編集委員の方々も、同じ反応で、一様に最初すくなからぬ抵抗があったけれど、読み返すと納得する。
また掲載後は、読者の方から「我が意を得たり」との感想が寄せられたといいます。
私共の年代になると、忠告をいただける機会が少なくなります。
とりわけ文章は自分の内面世界ですから、そこへの評価は難しいものです。
褒めていただけるのは嬉しいことですが、政治的な褒め殺しの場合もあります。
けなされたりご忠告をいただくことは悔しいことですが、良心からの場合もあれば、政治的に潰そうとする意図的な「忠告」もあります。
ですから自分に厳しくあるためには、予めお読みいただく方の抵抗を想定し、それを乗り越えることができるかという枷をはめ、挑戦していくしかないのではないかと思っています。
これはスポーツジムで肉体にストレスを与えて体を鍛えるのと同じです。
自分の文にストレスを加えて、自分の文を強化します。
だから、文を書くことは、日々、訓練であり、戦場です。ねずブロも著書も、自分にとっては戦場です。
ただし、それは自分の魂を鍛え、磨くための戦いです。
*
戦前戦中戦後にかけて、多くの軍人さんや元軍人さんたちに愛され続けたものに和歌や俳句がある。
『偕行』でも毎号たくさんの文芸作品が掲載されている。
外国にないことだが、なぜ、これほどまでに短文字の詩歌が愛され続けているのだろうか。
古来、和歌や俳句はあらゆる日本文化の原点と言われてきた。
なぜなら古典といわれる和歌や俳句は、その文字上に書かれていることだけではなく、その文の外に歌意があるからである。
たとえば和歌には上の句と下の句がある。
その上下の句はいわばベクトルである。
そして上下の二つのベクトルで指し示した三角形の頂点、そこに作者の真意があるとされてきたのである。
歌を読む者は、その二つのベクトルで、詠み手が真に言いたかったこと、伝えたかったことを読み解く。
そしてその本当の歌意味に気付いたときに、読み手は大きな感動を得るのである。
こうした文字に書いてないところにある真意を読み解く、あるいは察するという文化こそが、実は、現代にもある、日本人の思いやりの心や、相手への細やかな気遣い、気配りに通じているのである。
ひとつ、例をあげたい。
小倉百人一首にある素性法師の歌である。
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
この歌は、現代語に直訳すれば「すぐに帰って来るよと、あの人は言って出て行ったけれど、あれから長い月日が経って、とうとう晩秋の明け方の月になってしまいましたわ」という女言葉の歌である。
最近の百人一首の解説書をみるとこの歌は、坊さんが女言葉で歌を詠んでいるから、この歌を詠んだ素性法師はいわゆるオカマのオネエに違いなく、彼氏が出て行ったきり帰ってきてくれないことを嘆いているのだと解説しているのを見かける。
以下は私の解釈である。
この素性法師は、坊さんになる前は、俗名を良岑玄利(よしみねのはるとし)といって、左近将監(さこんのしょうかん)であった人である。
左近将監というのは、近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)の一角で、同じ役職をいただいた歴史上の人物といえば、徳川家康がこれにあたる。
戦前でいえば陸軍大将、戦後であれば陸自の幕僚長に相当する高官である。
そのいわば陸軍大将が、官位を捨て、家も捨てて出家している。
出家は、この世の生を捨てて生まれ変わって別な存在(仏に帰依した僧)となるということを意味している。
問題は、なぜ良岑玄利は、身分を捨て家を捨てて、出家して法師になったのかである。
身分からすれば、徳川家康公が、その地位を得た後に、お坊さんになって出家するようなものなのである。
これがたいへんなことであることは想像に難くない。
もともと素性法師は、9~10世紀初頭にかけて生きた人である。
藤原純友の乱など、諸国で争いが相次いだ時期にあたる。
そういう時代にあって、良岑玄利は陸軍大将(左近将監)の要職にあった。
彼が左近将監をしていた時代の戦が、具体的にどの戦を指すものなのかは、はっきりとはわかっていない。
ただ歌に「有明」と出てきていることから、地名と夜明けを掛けて九州での大きな戦であったのかもしれないが、それは歌からはわからない。
ただ良岑玄利はその戦の最高責任者として指揮を執ったのであろうことは、役職上、当然のことである。
そして戦となれば多くの血が流れる。
戦いは、良岑玄利の名指揮によって、勝ったからこそ彼は都に戻れたのである。
けれどその戦のあと、良岑玄利は出家し、戦で亡くなった兵たちの家を一軒一軒、尋ねてまわって、その家の仏壇に手を合わせ、経を唱える旅をしているのであろう。
旅をしたという具体的な記録があるわけではないが、歌が、そのことを如実に物語っている。
なぜならこの歌は、女性の言葉で書かれた歌である。
彼が諸国を訪ね歩いたある日、尋ねて行った先は亡くなった兵の家である。
そこにいたのは、兵の妻なのか母なのか、姉なのか妹なのかはわからない。けれどその女性が、
「あの人(子)は、戦に出発するときに、今度の戦いは、簡単な戦だから、きっとすぐに帰れるよ(今来む)と言いのこして出て行ったんですよ。
だからきっと帰ってきてくれるに違いないって、ずっと待っていたのです。
あれから何カ月も経ちました。
もう晩秋です。
有明の夜明けに月が出る季節になってしまいました。
それなのに、あの人はまだ帰って来てくれないんですよ」。
そう言って、眼に涙を浮かべる女性の前で、ただうなだれるしかなかった、出家した元左近将監・・・。
この歌は、そのことを詠んでいるのであるかと私は思う。
そして旅を終えた素性法師は、その後、仏門の世界で権律師(ごんのりっし)になっている。
権律師は、坊さんとしては、僧正、大僧都(だいそうず)に続く高僧である。
素性法師の、そうした姿があったからこそ、彼は万人が認める高僧となったのである。
この素性法師のような話は、日清、日露、あるいは支那事変や大東亜戦争の時にも、たくさん残っている。
松井岩根大将もそのひとりで、大将は戦地の岩を取り寄せて興亜観音を寄進した。
乃木大将は日露戦争の戦没者のために、全国の神社に「忠魂碑」を寄進し、全国の慰霊の旅をされている。
少し古い話ならば、戦国時代の名将が、出家して仏門に入り、なくなった将兵の御霊を安んじることに生涯を捧げたという話なども、たくさん残っている。
以下は大東亜戦争で特攻隊を送り出した玉井浅一司令のことである。
司令は戦争が終わった昭和22年の猛暑の日、愛媛県の関行男大尉の実家に、大尉の母のサカエさんを訪ねて、関大尉の母に両手をついて深く頭を下げると、次のように言ったという。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない定めになっている人間もいます。
私は若いころ、空母の艦首に激突しました。
ですから散華された部下たちの、その瞬間の張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。
せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。
祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが」
この後、玉井司令は、日蓮宗のお坊さんになった。
そして海岸で平たい小石を集め、そこに亡き特攻隊員ひとりひとりの名前を書いて、仏壇に供えた。
そしてお亡くなりになるその日まで、彼らの供養を続けられている。
昭和39年5月、江田島の海軍兵学校で戦没者の慰霊祭が行われた。
そのとき日蓮宗の導師として、枢遵院日覚という高僧が、役僧二人をともなって着座した。
戦友たちは、その導師が玉井浅一さんであることに気づいたという。
玉井さんの前には、軍艦旗をバックに物故者一同の白木の位牌が並んでいた。
位牌に書かれたひとつひとつの戒名は、玉井さんが、沐浴(もくよく)をして、丹精込めて、何日もかけて書き込んだものであった。
読経がはじまると、豊かな声量と心底から湧きあがる玉井さんの経を読む声は、参会者の胸を打った。
来場していた遺族や戦友たち全員が、いつのまにか頭を垂れ、滂沱の涙を流した。
会場に鳴咽がひびいた。
導師の読経と、遺族の心が、ひとつに溶け合った。
その年の暮れ、玉井浅一さんは、62年の生涯を閉じた。
武将であれば、国を護るために戦わなければならない。
けれど戦えば、敵味方を問わず、尊い命をたくさん失うことになる。
戦えば人が死ぬのは当たり前と、人の命をなんとも思わない将軍や王が、世界の歴史にはたくさん登場するが、日本の将は、昔も現代も部下たちの命を、どこまでも大切にしてきた。
この素性法師の歌は、そういう日本の武人の心を、見事に象徴しているのである。
この歌を百人一首に選んだ藤原定家は、この歌の詠み手の名前に、元の左近将監だった頃の良岑玄利の名ではなく、そっと「素性法師」と添えている。
その心、それが、古来変わらぬ、日本人の心なのだと思う。
人には言葉にできない思いがある。
その言葉にできない思いを描くために、万言を用いるか、それとも短い言葉にその思いを凝縮するか。
それは文化の違いといえるかもしれない。
日本人は、たった三十一文字の和歌の中に、伝えたい思いを凝縮する技術を築いた。
そしてその和歌の心が、いまなお、偕行社の多くの会員の心の中に息づいているのである。
※『偕行』は陸の会誌で、陸軍の將には出家された方が何人もおいでになり、それぞれにエピソードがある。
ここでは陸海を超えて日本人の武人の心を描くという意味であえて海の玉井司令の逸話をご紹介させていただいたことを付け加える)
※偕行社刊『偕行』平成26年11月号掲載
*
日本には、諸外国にない素晴らしい歴史伝統文化があります。
他所の国の批判の前に、私たち自身が日本人としての自覚と誇りを取り戻すこと、そのために日本人として生きた先人たちの心を学ぶこと。
そうすることで、揺るぎない心が育つのだと思います。
それは、日本人が日本人としての魂を取り戻すための戦いです。
そして日本人にとっての戦いとは、敵を倒すためではなく、どこまでも正しい道を得るためであり、戦いの最中でも、その前後においても、常に御霊の薫陶のための戦いであるのだと思います。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
■ねずさんの日本の心で読み解く「百人一首」
http://goo.gl/WicWUi
■「耳で立ち読み、新刊ラジオ」で百人一首が紹介されました。
http://www.sinkan.jp/radio/popup.html?radio=11782
■ねずさんのひとりごとメールマガジン。初月無料
http://www.mag2.com/m/0001335031.html
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

