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20151003 柿

大東亜戦争という用語は、昭和16(1941)年12月12日に東條内閣において、
「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ」
ということで閣議決定されたものです。
決定は以下のとおりです。
*********
今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ
昭和16年12月12日 閣議決定
一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス
二、給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期ハ昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス
三、帝国領土(南洋群島委任統治区域ヲ除ク)ハ差当リ戦地ト指定スルコトナシ
但シ帝国領土ニ在リテハ第二号ニ関スル個々ノ問題ニ付其他ノ状態ヲ考慮シ戦地並ニ取扱フモノトス
*********
この第1項に明らかなように、「支那事変も含めて大東亜戦争と呼称す」とされています。
その支那事変については、 昭和12(1937)年9月2日の閣議決定で、「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」と正式決定されています。


*******
事変呼称ニ関スル件
昭和12年9月2日 閣議決定
今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト呼称ス
(理由)
今回ノ事変ハ北支蘆溝橋附近ニ於ケル日支兵衝突ニ端ヲ発シタルモノナルモ、今ヤ支那全体ニ及ブ事変ト化シタルヲ以テ、其ノ呼称モ名実相伴フ如クシ国民ノ意思ヲ統一スルノ必要アルニ依ル
*******
つまり、「大東亜戦争」と呼ぶ場合は、昭和12(1937)年7月7日が、戦争の始期となります。
「太平洋戦争」の始期は、御存知の通り日本による昭和16(1941)年12月8日(日本時間。現地時間だと12月7日)の真珠湾攻撃が戦争の始期です。
「第2次世界大戦」の始期は、昭和14(1939)年9月1日のドイツ軍によるポーランド侵攻です。
この日、ドイツ軍とスロバキア軍が、ポーランド領内に侵攻しました。
これを受けてポーランドの同盟国であった英国とフランスが、9月3日にドイツに宣戦布告し、続いて9月17日にソ連軍がポーランド領内に侵攻して、まさにヨーロッパ全土を巻き込む大戦が始まっています。
つまり整理すると次の通りとなります。
大東亜戦争   始期 昭和12年 7月7日
第二次世界大戦 始期 昭和14年 9月1日
太平洋戦争   始期 昭和16年12月8日
つまり用語によって、開戦の始期がぜんぜん違います。
では、終戦はいつでしょうか。
昭和20(1945)年8月15日でしょうか。
違います。
8月15日は、陛下のポツタム宣言を受託したことを帝国臣民に告げる玉音放送が行われた日です。
そして事実上、日本が戦闘行為を集結させた日でもあります。
けれど、そのポツタム宣言の受託を日本政府が連合国側に通告したのは8月14日です。
戦艦ミズーリの艦上で日本全権の重光葵が降伏文書に調印したのが、昭和20年9月2日です。
この降伏文書が意味することは、休戦協定であって、終戦協定ではありません。
だからこそ連合国軍が日本に進駐し、日本は占領下に置かれました。
占領下にあるということは、戦争が継続しているということです。
戦時下にあるから占領があるのです。
その占領が解けて日本が再び独立国となった、つまり戦争が集結したのは、昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発行日からです。
つまり終戦の日は、実は昭和27年4月28日なのです。
整理します。
ポツタム宣言受諾 昭和20年8月14日
帝国臣民への告知 同    8月15日
休戦文書調印   同    9月 2日
戦争の終結    昭和27年4月28日
となります。
これに対し、「第二次世界大戦」の終結日保はいつかというと、
イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーと連合国の講和は、昭和22(1947)年2月10日です。
ドイツと連合国の講和は、西ドイツに関しては、英国の戦争終結宣言が昭和26(1951)年7月9日、フランスが同年7月13日、米国が同年10月24日です。
一方、東ドイツに関しては、ソ連が東ドイツとの間の戦争終結を宣言したのが昭和30(1955)年、東西ドイツと米ソ英仏間の最終規定条約が発効したのが平成3(1991)年3月15日、ドイツにいたソ連軍が全撤収したのが、平成6(1994)年8月31日です。
整理すると次のようになります。
イタリア降伏  昭和20年 4月28日
ドイツ降伏   昭和20年 5月 7日
日本降伏    昭和20年 9月 2日
日独以外の講和 昭和22年 2月10日
西ドイツ講和  昭和26年7月〜10月
日本講和    昭和27年 4月28日
東ドイツ講和  平成 3年 3月15日
独へのソ連撤兵 平成 6年 8月31日
日からの米撤兵 継続中
要するに第二次世界大戦という目で見る場合、連合国(=United Nations、=国連)との戦争状態は、なんと平成3年まで続いていたし、さらに相手国からの撤兵という観点からすれば、日本だけが実は、いまだ戦争継続中の扱いになっているわけです。
では、「太平洋戦争」の終期はどうでしょうか。
太平洋戦争は、日米の戦争です。
サンフランシスコ講和条約で日本は主権回復したことになっていますが、日本にはいまだ米軍が駐屯しています。
つまり、日本は米国の軍事的影響下にあるわけで、これは厳密には独立国とはいえない状況です。
戦争はまだ継続中ということです。
では、「大東亜戦争」の終期はどうでしょうか。
支那事変に端を発する戦争が大東亜戦争であるとするならば、政治的に支那にいまある中共政府は、明確に日本を敵国とみなしています。
そして日本には米軍基地があります。
つまり、これまた戦争はいまだ継続中ということになります。
ここまでをまとめますと、
1 戦争の始期は、大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦、それぞれの呼称によって異なる。
2 戦争の終期は、まだ確定していない(戦争は継続中である)。
ということになります。
単純に8月15日を終戦記念日と呼ぶことは、実は、重大な「めくらまし」であるということです。
ちなみに支那事変について、最近ではこれをしきりに「日中戦争」と読み替えようとしている風潮があります。
日中戦争というくらいですから、日本と中国の戦争と言いたいようですが、その中国というのは、どの国のことを指しているのでしょうか。
いま支那大陸にある中華人民共和国でしょうか。
中華人民共和国が成立したのは、昭和24(1949)年です。
つまり、日本が戦闘を止めてから4年も経過してから成立した国です。
支那事変は昭和12(1937)年が始期ですから、ここでいう「中」は、昭和12年の時点で支那にあった国家ということになります。
ということは、中華人民共和国ではない、ということになります。
では、中華民国でしょうか。
支那では、大正5(1916)年に袁世凱が中華帝国皇帝即位を宣言しましたが、内外の反対で断念しています。
その袁世凱は、同年、まもなく死亡し、支那は各地の軍閥が割拠する全面的な内乱状態になっていました。
北京には、袁世凱以降を受け継ぐ北京政府がありましたが、この北京政府は袁世凱の死亡後、段祺瑞の安徽軍閥と馮国璋の直隷軍閥、張作霖の奉天軍閥に分裂して争っていました。
その奉天軍閥は、吉林軍閥とも争っていました。
直隷軍閥が、張作霖の奉天軍を仲間に引き入れて安徽軍閥を破ったのが大正9年(1920)年です。
これが安直戦争です。
北京政府はこの年、北京政府の大統領であった曹錕が「中華民国憲法」を公布していますが、その曹錕が収賄で10月には北京を終われ、憲法も消滅しています。
こうした北京周辺の動きに対して、広東では孫文が広東政府を打ち立てたのが大正6(1917)年です。
一方、新たに軍事力を握った蒋介石は、国民革命軍を名乗って昭和2(1927)年に旗揚げし、翌昭和3年には南京に南京国民政府を立ち上げています。
ところがその南京政府は、南京を放棄してさっさと重慶へと逃げ出し、南京には新たに汪兆銘を首班とする汪兆銘国民政府が樹立されています。
要するに昭和12年当時の支那というのは、いくつもある軍閥が、それぞれに勝手に争っていたわけです。
そして支那という国は、軍とヤクザと暴徒は同じものです。
屈強な男たちが武器を手にして集まり、仕事もしないで集まっているのです。
人間ですから、食わなきゃならないし、武器を買うにはお金が要ります。
それをどのようにして集めていたかといえば、庶民からの一方的な収奪です。
これは軍というより、明らかにヤクザです。
そしてそのヤクザの中の大手が、それぞれ勝手に政府を名乗っていたわけです。
これによって、日本人を含め、支那にいた外国人はみんなたいへんな迷惑をしています。
また蒋介石率いる重慶政権、つまり後年の「中華民国」が、支那を代表する政府として認められる存在になったのはいつかというと、実は太平洋戦争のさなかである昭和18(1943)年11月のことです。
なぜ蒋介石がこのときいきなり支那を代表する正式な政府になったかというと、日本が関係しています。
この年の11月5日〜6日にかけて日本は、
 中華民国(南京)国民政府 汪兆銘行政院長
 満州国          張景恵国務総理大臣
 フィリピン共和国     ホセ・ラウレル大統領
 ビルマ国         バー・モウ内閣総理大臣
 タイ王国         ワンワイタヤーコーン親王
 自由インド仮政府     チャンドラ・ボース首班
を招いて、大東亜会議を行い、大東亜共同宣言を世界に向けて公表しました。
これをやられると植民地支配に困ることになると判断した米英が、急遽、エジプトのカイロに蒋介石を招いて、12月1日付けで発したのが「カイロ宣言」です。
つまり蒋介石の中華民国(重慶)政権が、正当な政権として連合国から認められたのは、なんと昭和18(1943)年の12月の出来事であったわけです。
この年は、アッツ島の戦いがあったり、タラワ・マキンの戦いや、ブーゲンビル島の戦いがあったりした年です。
つまり、戦争もかなり押し迫った状況下にあった時期の出来事です。
言いかえれば、大東亜戦争の始期、最近のお馬鹿かな学者さんのいう「日中戦争」の始期である昭和12年時点では、どこにも蒋介石を正当な支那の政権として承認している国はありません。
それどころかその当時の支那は、まさにドロドロの内乱状態にあったわけです。
それをあたかも「日中戦争」という用語で、まだ存在さえもしていなかかった中共政府と日本が戦争したかのような目眩ましをする。
それは歴史の名に値しない、ただの政治です。
今日のポイントは、大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦は、それぞれ開戦時期が異なるということです。
そしてこのことは、国民にとって、とても重要な意味を持ちます。
なぜなら、政府の決定や法は、線引であるからです。
開戦日が何月何日何時何分なのかということは、国民にとって、とても大事なことです。
その日時を境に、平時と戦時が別れるからです。
軍人の給料も、それにともなう年金も保障も、刑法の適用さえも、その日時を境に変わるのです。
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