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耳塚(京都・方広寺)
20150916 耳塚

本日9月16日が日清戦争で「黄海海戦」が始まった日、明日17日は、日本海軍がこの海戦で清国北洋艦隊を完膚なきまでに打ち破った日です。明治27年のことです。
最近では「聯合艦隊」のことを、「連合艦隊」と書くのが通例となっていますが、実はこの二つは意味がまったく違います。
連合の「連」は、単に車が道に連なっているありさまをあらわす字です。
けれど「聯合」の「聯」は、敵兵の耳を貫き通した様です。
耳編ですが、古代から近世までのChinaでは、戦勝者は倒した敵の数を図るために、敵の耳を削ぎ、これを武功の証拠としました。
切り落とした耳の数=倒した敵の数であったわけです。
つまり「聯」には、戦いの勝利の意味があるわけです。


ちなみに日本では、戦いに際して敗者側の兵の耳を削いで数を数えるという習慣はありません。
歴史上確認できるのは、秀吉の朝鮮征伐のときで、このときはChinaやKoreaの風習に従って2万人分の耳や鼻を削いで日本に持ち帰っています。
これが「日本人が朝鮮半島でヒドイことをした」ということの証拠になり、「朝鮮人は千年経っても恨みを忘れない民族」のいわれになっているわけですけれど、ちょっと違います。
なるほど日本側の武将が2万人分の耳や鼻を持ち帰ったのは事実です。
けれどもともと日本では、大将首は首実検の対象ですが、雑兵は数を数えただけでした。
これを「打ち捨て」といいます。
「打ち捨て」られた遺体は、戦の前に事前に高額を払って後片付けをお願いされていた近隣の農家がこれを片付け、着ている鎧や身につけた刀などで、名前や住所のわかるものは農家が、その持ち主の親元にちゃんと送り返していたわけです。
いまでも、古い家などでは、遠くの戦場でお亡くなりになった先祖の鎧が保管されたりしていますが、それにはちゃんとこうした社会的仕組みが機能していたのです。
ところが朝鮮半島の戦は、敵方、つまり朝鮮および明国の兵たちは、彼等の流儀に従って、やってきた日本側の兵を倒すと、その耳を削いで戦勝の証としました。
彼等は、所持した耳の数で恩賞が払われましたから、とにかく耳でありさえすれば何でもよく、両耳を削げば数が倍になるし、ついでに鼻まで削いで倒した敵の数にしていました。
残った体は食料にしました。
またとにかく耳を集めたいからと、近隣の民家を襲って女子供の耳や鼻を生きたまま削いだりもしています。
日本側の兵はさんざんこれをやられ、また、これは遠く離れた戦場での戦勝の証拠としては、あるいみ合理的でもあったことから、日本側の一部の将が、敵のやり方を真似て、2万人の耳や鼻を日本に持ち帰りました。
ただ、これに対しては当時も日本国内で非難轟々で、結局、持ち帰った耳や鼻は、京の都まで持ち帰って方広寺に塚を築造して丁寧に埋葬し、いまに至るまで、400年以上もずっと供養をし続けています。
このことは、持ち帰った耳や鼻を、その後どのように処分したかさえわからないChinaやKoreaと、持ち帰った耳や鼻が慰霊塚まで築いて供養している日本の、姿勢の違いとして、まず明確にしておきたいと思います。
また、秀吉の朝鮮征伐では、日本側の戦力が約16万名で、死者が5万名(大半が風土病による死)。
朝鮮、明国側が約24万の兵力で、死者は「数万人」と伝えられています。
日本側は、敵を「数万人」倒しているのに、耳は2万しかないことにも、注意が必要です。
どういうことかというと、日本は耳を恩賞の対象としなかったということだからです。
耳を持ち帰った武将は、「やられたから、やりかえした」だけだったのかもしれません。
けれど耳を持ち帰ったら、恩賞を授かるどころかさんざん非難され、耳は耳塚を築いて末代まで国をあげて供養をすることなったわけです。
つまり、武勲の証として褒められると思って耳を持ち帰ったら、さんざん非難された挙句、耳は都で国を挙げて供養されることになり、しかも、どの武将が持ち帰ったのかまでが記録から削除されることになったのです。
つまり、日本には耳を削いで戦勝の証とする習慣は、なかった、ということです。
そして耳を持ち帰った武将は、これを不名誉なこととされた、ということなのです。
ただし、日本側の武将が、このときすくなくとも2万人の耳を削いだことは間違いのない事実です。
ですから朝鮮がこれを恨むというのは、それはそれで理由のあることです。
けれど、日本側で亡くなった戦死者は、病死も含めて全員耳を削がれ、体は食べられているのです。
言いかえれば、5万人の犠牲が出ているわけです。
また、このとき朝鮮を侵略したという件に関しても、そもそも朝鮮半島の南半分、つまりいまの韓国のあるあたり一帯は、もともと古代においては日本の領土です。
それを彼らが侵略したから、日本は朝鮮半島と古代において縁を切ったのです。
つまり、もともと侵略したのは、朝鮮人であり、その朝鮮人が半島南部の倭国(日本)の領土領民を侵略し、ここに日本は分け入ったわけです。
つまり、泥棒が持っていったモノを、日本は取り返しに行ったわけで、それを泥棒から侵略されたと言われる筋合いはありません。
ただし、どこまでも平和を願う日本にとって、2万人の耳を削いだことは、これは武家の暴走としてやはり認めてはいけないことだと思っています。
そうした歴史の恩讐を越えて、新しい未来を拓くことを私は望みます。
黄海海戦のお話から、ぜんぜん違う方のお話になってしまいましたが、ご参考に。
参考記事
■秀吉の朝鮮出兵
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1582.html
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