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東寺 帝釈天像
20150804 東寺 帝釈天

国民学校「初等科国語八」から、一文をお届けします。
いまで言ったら、小学6年生用の教材です。
文はねず式で現代語に訳してあります。
比較的短い文ですので、まずはご一読してみてください。
********
国民学校「初等科国語八」七
【修行者と羅刹(らせつ)】
 色はにほへど散りぬるを、
 わがよたれぞ常ならむ。
どこからか、そんな歌が美しい声で聞こえてきます。
ところは雪山(せっせん)の山中です。
長い長い難行苦行に、身も心も疲れきつた一人の修行者が、ふとこのことばに耳を傾けました。
修行者の胸に、言い知れぬ喜びがわきあがってきました。
それはまるで、病人が良い薬を得たとき、あるいは喉の乾いた者が清涼な冷たい水を得たのにもまして、大きな悦びでした。


「今のは仏の御声ではなかったろうか」と、彼は思いました。
しかし、
「花は咲いてもたちまち散り、人は生まれてもやがて死ぬ。無常は生ある者の免れない運命である」といふ今の歌の言葉だけではまだ十分とはいえない。
もしもあれが御仏の言葉であるのなら、何かそのあとに続く言葉がなくてはならない。
彼は、そのように思いました。
修行者は、座を立ってあたりを見まわしました。
けれど、仏の御姿はもちろん、人影もありません。
ただ、ふとそば近くに、恐しい悪魔(あくま)の姿をした羅刹(らせつ)がいるのに気が付きました。
「この羅刹の声であつたらうか」
そう思いながら修行者は、じっとその形相を見つめました。
「まさか、この無知非道な羅刹の言葉ではあるまい」と一度は否定してみたのですが、
「いやいや、彼とても、昔の御仏に教えを聞かなかったとは限るまい。よし、相手が羅刹や悪魔であっても、それが仏の御言葉であるのなら、聞かなければなるまい」
修行者はこのように考えて、靜かに羅刹に問いかけました。
「いったいおまへは、誰に今の言葉を教えられたのですか。思うに、その歌は仏の御言葉であろう。それも前半分だけで、まだあとの半分があるに違いない。前半分を聞いてさえ、私は喜びにたえないが、どうか残りを聞かて、私に悟りを開かせておくれ」
すると、羅刹はとぼけたように、
「わしは、何も知りませんよ、行者さん。わしは腹が減っています。あんまり減ったので、つい、うわ言が出たかも知れないが、わしには何も覚えがないのです」と答えました。
修行者は、いっそう謙遜な心で言いました。
「私はおまへの弟子にならう。終生の弟子にならう。どうか、殘りを教えてください」
羅刹は首を振りました。
「だめです、行者さん。おまへは自分のことばっかり考えて、人の腹の減っていることを考えてくれない」
「おまえは何を食べるのですか」
「びつくりしちやいけませんよ。わしの食べ物というのはね、行者さん、人間の生肉、それから飲み物というのは人間の生き血さ」
と、言うそばから、さも食いしんばうらしく、羅刹は舌なめずりをしました。
しかし、修行者は少しも驚きませんでした。
「よろしい。あの言葉の残りを聞かせてくれるなら、私の体をおまえにやってもよいです」
「えっ。たつた二文句ですよ。二文句と、行者さんのからだと、取りかえっこをしても良いと言うのですかい?」
修行者は、どこまでも真剣でした。
「どうせ死ぬべきこのからだを捨てて、永久の命を得ようというのです。何でこの身のいとうことがあるでしょう」
そう言いながら、彼はその身に着けてゐる鹿(しか)の皮を取つて、それを地上に敷きました。
「さあ、これへお座りください。つつしんで仏の御言葉を承りましょう」
羅刹は座に着いて、おもむろに口を開きました。
あの恐しい形相から、どうしてこんな声が出るかと思われるほど美しい声です。
 有爲(うゐ)の奥山今日(けふ)越えて
 浅き夢見し酔ひもせず
と歌ふように言い終わると、
「たったこれだけですがね、行者さん。でも、お約束だから、そろそろごちそうになりましょうかな」
と言って、ギョロリと目を光らしました。
修行者は、うっとりとしてこの言葉を聞き、それをくり返し口に唱えました。
すると、
「生死を超越してしまへば、もう浅はかな夢も迷いもありません。そこに本当の悟りの境地があるのです」
という深い意味が、彼にはっきりと浮かびました。
彼の心は喜びでいっぱいになりました。
この喜びをあまねく世に分(わか)って、人間を救わなければならないと、彼は思いました。
彼はあたりの石といわず、木の幹といわず、今の言葉を書きつけました。
 色はにほへど散りぬるを
 わが世たれぞ常ならむ
 有為の奥山今日越えて
 浅き夢見し醉ひもせず
書き終ると、かれは手近にある木に登りました。
そのてっぺんから身を投じて、羅刹の餌食(えじき)になろうといふのです。
木は、枝や葉を震はせながら、修行者の心に感動するかのように見えました。
修行者は、
「一言半句の教えのために、この身を捨てるわれを見よ」と高らかに言って、ひらりと樹上から飛びました。
とたんに、妙(たえ)なる樂(がく)の音が起こって、ほがらかに天上に響き渡りました。
と見れば、あの恐しい羅刹は、たちまち端嚴な帝釋天(たいしやくてん)の御姿となって、修行者を空中にささげ、そうしてうやうやしく地上に安置しました。
もろもろの尊者、多くの天人たちが現れて、修行者の足もとにひれ伏しながら、心から礼拝しました。
この修行者こそ、ただ一筋に道を求めて止まなかつた、ありし日のお釈迦(しゃか)樣でした。
*******
さて、この一文が何を説いているのでしょうか。
釈迦の偉大さでしょうか。
羅刹の怖さでしょうか。
なるほど最初、羅刹は、いかにも丁寧な言葉づかいで近づいてきています。
だいたい、悪いやつに限って、最初は柄にも合わない物腰で近づいてくるものですから、そういうことに気をつけなさいといった意味も、多少はあるのかもしれません。
けれど、この一文が生徒たちに伝えていることは、
「志(こころざし)」の大切さです。
昨今では学校でも家庭でも、あるいは職場でさえも、子供たちや部下たちに「あなたの夢は何ですか?」と問うようですが、ひと昔前までの日本では、「夢は?」などと誰も聞かなかったものです。
代わりに問われたのが「あなたの志は何ですか」です。
たとえば「将来は?」と聞かれて、
「戸建ての家に住みたい」とか、「ダンプカーの運転手になりたい」、「国家公務員になりたい」などという答えは「夢」です。
けれど「志」だと、
「私塾を開いて若者たちの育成をするために、戸建ての家に住みたい」
「地震に負けない強靭な国土を作るために、大型ダンプの運転手になって貢献したい」
「国の福祉を充実させるために、国家公務員となって貢献したい」
などとなります。
つまり「志」には、「〜のために」という、そこに「意思」が入ります。
そして「志」は、ただ「意思」だけではなく、そこに「覚悟」が入ります。
上にご紹介したお釈迦様のような身を犠牲にしても、ということまでは、誰でもできるものではありません。
けれど、「志を持つ」ことは誰にでもできます。
ある友人が、職場で後輩の社員に言ったそうです。
「会社のために働くなんて、ケチくさいことを言うな。どうせ働くなら、世のため人のために働け」
自分の夢を実現したいと考えるから、夢に近づく給料を得るために、会社で働くという意識が生まれます。
するとその働き方は、会社のために働く、となります。
こうなると、会社の利益があがるなら、何をやっても良いという考え方になります。
そして、顧客に媚を売りながら高値で商品を買わせ、下請けを叩いて利鞘を稼ぐという発想になります。
夢から出発した思考の間違い(あえて間違いと言わせていただきます)が、結果として、自己の利益ばかりを追い求めるという身勝手さを生みます。
友人は、だから「そうではなく、この仕事を通じて、世の役に立つのだ」と後輩に言いました。
仕事を通じて世の役に立とうというのなら、それはプロにならなければできないことです。
だから仕事を学び、仕事のプロになるべく努力することになります。
そしてその努力を通じて、世の中に少しでも貢献していくようになります。
お客様にも、下請けさんにも喜んでいただけるようにする、そのための行動が生まれます。
するとそこに「信用」が生まれます。
そして「信用」という名前の預金残高が増えることで、自然と、より大きな世の中への貢献ができるようになります。
根底にあるのは、まさに「志」です。
「日本を取り戻したい」、いま、多くの保守系の方が、そのような言葉を口にします。
けれど、それがただの「夢」としての「日本を取り戻したい」なら、批判と愚痴だけに終始することになります。
けれど「日本を取り戻す」という「志」なら、そこに「〜のために」という意思と覚悟がなければなりません。
その「〜のために」は、人によってそれぞれ異なると思います。
「子や孫のために」という方もおいでかと思います。
「日本の平和と安定のために」という方もおいでになることでしょう。
「多くの人々の幸せのために」もあろうかと思います。
そしてもうひとつ、そこには「〜を通じて」という行動が含まれることになろうかと思います。
いま自分がいる、その場、その生活空間を通じて、世の中のために、子のため、孫のために、より良い日本を取り戻していく。
それは決して難しいことではなくて、自ら率先して学び、語り、伝えていくことなのだろうと思います。
そしてたいせつなことは、いっぺんに何か大きなことをする、ということではなくて、なにより「続ける」ことであろうと思います。。
日本を取り戻そうとすると、それに困る人達もいます。
いわゆる敗戦利得者たちです。
自分たちの悪行が露見する。
だから必死になって、日本を取り戻そうとする人たちを攻撃し、破壊しようとします。
名誉を削ぎ、信用を貶め、馬鹿にし、中傷し、離間工作をしてきます。
日本を取り戻したいということが、ただの「夢」なら、そんな工作に引っかかって、夢を放棄しあきらめることでしょう。
けれど、上の小文にあるような、覚悟を持った志なら、どのような工作も無意味です。
なぜなら、不退転だからです。
誰に何を言われようと、中傷されようと馬鹿にされようと、損をしようと、たとえ我が身を捧げることになろうと、前進し続ける。
そのことを昔の日本人は「道」と呼んだのです。
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