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20150629 池坊免許皆伝の山田祐子さんの作品
池坊免許皆伝の山田祐子さんの作品「オリヒメ・ヒコボシ」
桔梗と撫子に、薄とスモークツリーをあしらった作品
(画像をクリックすると当該ページに飛びます)

昨日の記事にも書きましたが、戦前の尋常小学校が「国民学校」と名前を変えたのが昭和16年です。
つまり日華事変が泥沼化していた時代であり、その年の12月には大東亜戦争が勃発しています。
つまり「国民学校」は戦時体制下の小学校です。
その小学校教育で何を教えていたか。
私が高校生の時の教諭は、日教組の人で、「戦時中は学校の名前まで変えて、徹底した軍国主義教育がなされていた」と述べていました。
中共や韓国などは、いまも国をあげて反日教育をしています。
日本だって戦時下なら、反米、反英、反露助、反China教育をしそうです。
実際に、そのような教育がされていたのでしょうか。
ぜんぜんちがいます。
戦時中の教科書を見たらわかります。
朝日新聞を筆頭に、国内のメディアがさかんに鬼畜米英、China豚、進め一億火の玉だなどいって戦争を煽っていた、そんな時代にあって、小学校の教科書では、動物や植物への愛や、思いやりの心、慈しみの心が教えられていたのです。
むしろ、当時の国民学校の教科書を読むと、「大人たちはいま間違って戦争をしてしまっている。けれど君たち少年少女たちが大人になったときには、決して戦争などしないで済む、そういう未来を築いてほしい」と、そういうメッセージが、濃厚に伝わってきます。
世界中が敵対し、対立し、ドンパチを繰り広げている、そんな時代下にあって、です。
これって、すごすぎることだと思います。
そこで今回は、同じく戦時中の国民学校、小学6年生の国語教科書から「いけ花」をご紹介します。
ぜひ、みなさまにもご一読いただきたいと思います。
読みやすさを優先するため、仮名遣いは現代語にねず式で現代語訳しています。


********
国民学校教科書『初等科國語 七』第六学年前期用
十七「いけ花」

まさえさん、この間は、お手紙をありがとうございました。
お父さんも、お母さんも、お元気だそうで安心しました。
こんなに遠く離れていると、うちのことが何よりも知りたいのですよ。
私も、こちらへ來てからもう一年近くなりますが、これまで病気一つしませんでした。
毎日毎日畠へ出て働いていることが、私をこんなに丈夫にしてくれたのでしょう。
それとも、大陸の気候が私に合うのかも知れません。
この一年間は、何を見ても、何をしても、始めてのものばかりで、めづらしいやら楽しいやら、まるで夢のように過して来ました。
この春植えつけた野菜類は、たいそうよくできて、この間一部分だけ収穫しました。
その時にうつした写真を同封しておきましたから、見てください。
いろいろな野菜がありますから、何だかあててごらんなさい。
お手紙によると、このごろまさえさんは、熱心にいけ花のおけいこをしているそうですね。
せんだつて、お母さんからのお手紙にも、そのことが書きそえてありました。
私のおいて来た花ばさみや花器などが、そっくりまさえさんの手で、かわいがられていると思うと、たいそううれしい気がします。
私もいけ花がすきなので、いそがしい中にも、ずつと続けてやっています。
つい四五日前も、野原でききょうの花を見つけたので、それを摘んで来てていけてみました。
こんなにして野の草花をいけたりすると、その昔、まさえさんと二人で、野原へ花摘みに行った時のことが、なつかしく思い出されました。
「はらん(葉蘭)を、何度も何度もいけるのは、あきてしまいました。」
と書いてありましたが、あれは、いけ花のいちばんもとになるものですから、しっかりとおけいこをしておかなければなりませんよ。
何を覚えるにしても、そのもとをのみこむことが大切だと思います。
もとといつても、形ばかりでなく、いつも自分の心がこもっていなければなりません。
いけ花ほど、いける人の気持ちのよく現れるものはないと、自分ながらびっくりすることがあります。
例えば、何か気にさわることがあって心の落ち着かない時には、いくらいけようと思っても、花はいうことをききません。
晴れ晴れとして心の楽しい時には、花の方から、進んで動いてくれます。
そうして、できあがったものにも、その時、その人の気持ちが、そつくりそのまま現れるように思われます。
いつか隣りのお子さんをつれて、ニュース映画を見に行きました。
映画の中に、日本の兵隊さんが、山の谷あいを長い列になって、進軍して行くところが写りました。
みんな銃をかついで、重そうな背嚢(はいのう)を背負って歩いていました。
よく見ると肩のところに、野菊の枝をつけている兵隊さんがいました。
それも一人でなく、何人も何人も、つけていました。
あの強い日本の兵隊さんが、こんなものやさしい心を持つていられるのかと、ふと思いました。
そうして、ほんとうに勇ましい人の心の中には、こうしたやさしい情がこもっているのだと考えさせられました。
それでこそ、世界の人々をびっくりさせるような大東亜戦争を、戦いぬくことができるに違いありません。
それにつけても日本の女たちは、もっともっと心をやさしくし、心を美しくしたいものだと、つくづく思いました。
どうかまさえさんも、いけ花をみっしりけいこして、日本の少女らしい、つつましやかな心を育ててください。
今、こちらはいちばんよい時候で、空がどこまでも高く澄んでいます。
では、おとうさんとおかあさんに、よろしくお傳へください。
さようなら。

******
手紙の本文から、大陸に農業しに出られた女性が、本国にいる身内の少女に送った手紙だとわかります。
満州方面でしょうか。
いろいろな野菜という表現がありますから、南支方面かもしれません。
当時、国土の荒れたChinaに行き、山に植林をし、かつて田畑だった土地を再生して、そこで農業指導を営み、現地の人々が、争いや奪う暮らしではなく、みんながちゃんと普通に食べられる暮らしができるようにしようと、たくさんの日本人が、Chinaに出ていました。
それは今も同じです。
NPOなどで、外国に農業指導、農業支援のために日本人の若者たちの男女が、数多く外地に出ています。
日本人の心は、いまも昔もなんら変わらないのです。
そんななかのひとりに、カンボジアで亡くなられた中田厚仁(なかたあつひと)さんもいました。
この「いけ花」のお話は、そんな外地で暮らす女性から、日本にいる家族のもとに届けられたお手紙なのですけれど、その中に、
「野菊の枝をつけている兵隊さんがいました。それも一人でなく、何人も何人も、つけていました。あの強い日本の兵隊さんが、こんなものやさしい心を持つていられるのかと、ふと思いました。」
という記述があります。
どんな辛くて苦しい戦いの中にあっても、花を愛でる心を忘れない。
そしてそのやさしさが、Chinaの民衆の保護の精神にもなり、実は、蒋介石のプロパガンタとは異なり、日本の兵隊さん達は、Chinaの民衆からたいへんに慕われていました。
そして手紙は、「ほんとうに勇ましい人の心の中には、こうしたやさしい情がこもっている」と続いています。
花は正直です。
以前、お正月に、ある大手新興宗教団体の施設の前を通りがかったことがあります。
車から一瞥しただけでしたけれど、入口付近には、盛大に花が飾り付けられていました。
けれど、花は正直です。
盛大なその花の飾り付けそのものが、「私達虚飾です」と啼いているような気がしました。
どこぞの国の整形美女たちの集合写真と同じなのです。
華やかだけれど、花になってない。
みんな同じ顔をしていて、まるでクローン人間でのようでした。
本当の美しさというのは、内側からの輝きがあるものです。
そういう心を、この手紙では「みっしりけいこして、日本の少女らしい、つつましやかな心を育ててください」と結んでいます。
そしてそういう情操教育を、まさに国民学校は行っていたのです。
きびしい戦いの最中に、です。
この手紙を送ってくださった女性は、その後どうなったのでしょうか。
日本の武装を解かなかった根本中将麾下の北支方面軍の警護する地域においでになったのなら、きっと無事に安全に日本に復員できたことでしょうけれど、それ以外の地域においでになったのなら、厳しい現実となったのかもしれません。
Chinaに『揚州十日記・嘉定屠城紀略』という本があります。
いまは近代デジタルライブラリーで、その日本語訳を読むことができます。
これは明の滅亡の頃の様子を書いた本なのですけれど、そこに明代末に反乱軍の首領であった張献忠(のちの大西国皇帝)が出てきます。
簡単に紹介したものが東洋文庫にありましたので、ちょっと引用します。
http://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=197
******
ある夜のこと、静かで何もすることがなかった。
すると彼(献忠)は突然、「今夜は誰も殺すべき奴はおらんのか」といいだして、とうとう自分の妻と愛妾数十人を殺すよう命じ、たったひとりの子までも殺してしまった。
虐殺方法にも献忠はこだわった。
「鉋奴(ほうど)」……〈手足を斬り落す〉
「辺地(へんち)」……〈背筋で真二つに斬り離す〉
「雪鰍(せっしゅう)」……〈空中で背中を槍で突き通す〉
「貫戯(かんぎ)」……〈子供 たちを火の城で囲んで炙り殺す〉
(中略)
清兵が鎮(まち)にはいって来たとき、人々はまだ起きていなかったので、彼らはほしいままに屠殺を行ない、流血は踝(くるぶし)を没するほどであった。

******
これを読んで、献忠は酷い人だと思ったのなら、甘いです。
明を滅ぼすのに加担した献忠も、それを倒した清國も、同じことをしているのです。
そしてそれぞれが、自分たちのしてきたことを、これから戦う相手に「された」と言って、その情報を拡散しています。
そうやって自らの非道行為を正当化し、さらには戦意を高揚するのです。
そしてこれと同じことは、清朝を滅ぼした蒋介石一派が、まったく同じことをしています。
彼は、当初は、China共産党や張作霖率いる満州軍閥を叩いていましたが、その最中に、共産党や張作霖らが、こんな酷いことをやっているというビラを大量にまきました。
そこに書いてあることは、上にある鉋奴、辺地、雪鰍、貫戯などで、彼らが民衆を圧迫しているというものです。
けれど、実はそれは、蒋介石らがやっていたことです。
さらにいえば、蒋介石は紫禁城の大清帝国を滅ぼしたとき、紫禁城内にあった清王朝の値段が付けられないような高価な品々を略奪しました。
おかげで、当時の清國皇帝であった溥儀には、自転車くらいしか残されていませんでした。
このことは、映画「ラスト・エンペラー」にも描かれていましたから、覚えておいでの方も多いかと思います。
では、蒋介石がその略奪品をどうしたかというと、身内の孔祥熈に命じて、欧州における政治的プロパガンタの拡散資金として、これらの品々を西欧でばらまかせています。
自分たちは酷いことをされたのだ、と。
最初は清國に、次に張作霖らに、次は共産党に。
だから戦うのだ、と。
そして最後に、蒋介石らがもっとも勢力を増したとき、日本に酷いことをされているのだと世界中で宣伝をしました。
この宣伝には、ただの情報提供ではなく、必ず莫大な財宝と、将来の利権の保証がついてきました。
莫大な財宝は、蒋介石らにしてれみば、所詮は、他人から奪ったものにすぎません。
自分の財産がへるものでもない。
また将来の利権保証は、Chineseにとっては、ただのその場しのぎであって、彼らが約束や契約を守ったことは、歴史上、一度もありません。
彼らは、力と恐怖に反応するだけであって、紙に書いたものなど、それ自体、何の意味も持ちません。昔も今もです。
そして、この際限のない財宝のバラマキや、未来に向けての利権の空手形の有無が、日本とChinaの宣伝力のちがいの根幹です。
日本はよく宣伝が下手だ、と言われます。
それに対し、ChinaやKoreaは宣伝が上手だといいます。
宣伝の腕の善し悪しではないのです。
どれだけバラ巻きや空手形がきれるか、の違いなのです。
早い話、いま日本が200兆円くらいの資金を準備し、反中、反韓、親日キャンペーンを張ると政府が発表し、実際に外国人記者などに、特権を与え、無尽蔵にお金を与えたら、国際世論は、瞬く間に変わります。
宋美齢が米国で「レイプオブ南京」を書いて、これがベストセラーになったというけれど、自分たちで買いまくれば、瞬く間にベストセラーが生まれます。
1冊5ドルの本を100万冊買い取っても500万ドル(5億円)です。政治宣伝予算と考えたら安いものです。
買取金は国民党のお金ですが、印税は、宋美齢のフトコロにはいるのです。
いま、中共は、国のGDPが世界第二位になった、日本を遠く抜き去ったと自慢しています。
けれどChineseにとって、GDPの水増しはあたりまえのことです。
要するに経済力があるようにみせかけて、外国の投資を誘い、外国人が国内にお金を落としてくれたら、それで良いのです。
そして入ってきたお金は、政治的プロパガンタ以外で海外に放出されることはまったくありません。
それがChinaです。
なるほど一時的には、彼らの蛮性が、世界を席巻したかのように見えるかもしれません。
けれど、それはハリコのトラです。
瞬く間にメッキがはがれる。
そんなものです。
昔、Chinaでは、揚子江や黄河を航海する外国人船舶では、Chineseたちが客として乗船する場合、普通の客室には入れられませんでした。
彼らは檻に入れられ、周囲を銃を持った兵士たちが固めました。
酷いと思うかもしれませんが、これはまっとうなChineseたちが望むことでもあったのです。
そうでもしなければ、乗船したChinese暴徒が暴れだし、自分たちの安全までいつ失われるかわからなかったのです。
Chinaとは、昔からそういう国です。
人が多く、生き残るためにはなんでもあり、それがChinaです。
もちろん、立派に生きよう、日本人のように、たがいを思いやって生きよう、そう思い、そのように行動する人達もいます。
けれど、そうでない人達もいる。それがChinaです。
日本とは、歴史伝統文化が違うのです。
民族が違うということは、そういうことなのです。
そのChinaに、私達日本人は、戦前、戦中、戦後を通じて、とてつもなく残虐な民族であるかのように宣伝され続けてきました。
ところが不思議なことに、日本人は、だからChineseを恨み、誹謗中傷名誉毀損の逆襲をするようなことは、まったくしてきませんでした。
どこまでも清く、どこまで正しく。それが日本です。
だからこそ、Chinaで通州事件を筆頭とした日本人虐殺事件が、Chinaの随所で起きた時も、日本には約6万5千人のChineseが住んでいたし、中華街などを営んでいましたけれど、日本人の抗中デモなど一件もないし、Chineseの誰一人報復のためにと、あるいはChineseだからと、殺されたり暴力を振るわれた人などいないのです。
それどころかChineseの経営する中華料理屋さんは、いつもどおり、お店が繁盛していました。
もし、通州事件のような事件を、日本人が日本でChineseに対して起こしたら、おそらくChina中で報復が起きることでしょう。これが民族の違いです。
日本人が、ではなぜ、そこまで我慢し、まっとうに生きようとするのか。
その基本が教育です。
そして戦時中であってさえ、敵を憎むのではなく、愛のために戦う、そういう精神をしっかりと子供達に教えてきたのが日本なのです。
私は、そのことをとても誇りに思いますし、そういう教育こそ、取り戻すべき日本の教育であると思っています。
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