
先日テレビをつけたら、たまたま埼玉県川越にある喜多院の徳川家光公誕生の間を紹介していました。
番組ではタモリが見学に行き、寺の住職がそれを案内するというものだったのですが、驚いたのが「厠(かわや)」の案内でした。
それが下の写真の厠ですが、住職の説明では、この厠で家光公が用をたすときは、警護の武士が4名、この小部屋の四隅に立ったというのです。
聞いて驚きました。
常識で考えたらわかることです。
説明のとおりなら、150cm四方くらいの小さな部屋に大人5人が入ったことになります。
いわば満員電車みたいなすし詰め状態になるわけで、そのような状態でどうやって刀を抜いて防戦するのでしょうか。
刀を抜いた瞬間に肝心の家光公が怪我をしてしまいます。
これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬもあふ坂の関

おそらくは高名な学者の先生がそのように言ったり書いたりしたから、住職もそのような説明をしているのでしょうが、ちょっと考えたら、誰だっておかしいと気がつくはずです。
警護の者が立つなら、それは個室の前です。
なぜなら敵が個室にまで侵入してからこれを撃退するのは、その個室内に家光公もおいでになるわけですから、最早至難の業です。
5〜6人で入り口から槍で突かれたらひとたまりもありません。
警護するなら、そもそもその個室の付近に襲撃者を近づけないこと、早期にやってきたことを発見して、逃げ場のない個室からいち早く安全な場所に避難していだくことが大事です。
警備の侍が、家光公と一緒に個室にいた、それも4人もはいっていたなどということが「ありえないこと」だということは、ちょっと考えたらわかることです。
もっというなら、写真を見たらわかりますが、個室の壁は杉板です。
薄い板一枚の個室なのです。
修行を積んだ武者が、外から槍で突いたら、中の人は簡単に殺せます。
それほどまでに、ある意味不用心とさえもいえる環境下の「個室」であることのほうが、実はもっと大きな意味があるのです。
海外旅行をして驚かされることのひとつに、トイレがあります。
Chinaに行きますと、まずトイレそのものを見つけるのが困難なころに加え、あってもそのトイレに間仕切りがあることがほとんどありません。
一流のホテルなら個室があります。
ところが多くのChineseは、扉を閉めないで大用をします。
要するにChinaのトイレには扉がないのが標準だし、扉があっても閉めないで用をたすのが彼らの習慣です。
西洋でも、つい近代まで、宮殿に個室トイレはありません。
個室がなくて、ダンスなどを行う大きな部屋の隅に、「おまる」や「壺」が置いてありました。
一般の家屋でも、単に路上に向けて落とすだけのものがトイレだったりしています。
これに対し、日本のトイレは大昔から個室が標準です。
しかも、中にはいって鍵を閉めたら、完全個室です。
江戸時代の長屋の共同トイレも個室です。
奈良時代にはすでに水洗トイレがあって、奈良県の藤原京や秋田でその遺構が見つかっていますが、やはり個室です。
武田信玄が愛用したトイレも、もちろん個室です。しかも水洗式でした。
奈良平安の昔から水洗トイレが使われていたということも驚きですが、それ以上に、トイレが個室になっていたということ、トイレが中から鍵をかけることができる仕様になっていて、そこが完全個室になっていたことが、日本人を考える上で、実はとても重要なことなのです。
理由があるのです。
実に簡単なことです。
日本では、薄い板一枚で仕切られた個室トイレに入っていても、そこをいきなり襲われて、扉の外から槍で突かれて死んでしまうなどということが、「ありえないことだった」ということです。
仮に犯罪者か何かで、追っ手に追われていたとしても、追われる側の人がたまたまトイレにはいっている最中なら、追手は、用が済むまで、ちゃんと表で待っていました。それがあたりまえでした。
もちろん、敵討ちなどで追われる人を殺さなければならない場合もです。
義経記をはじめ、奈良平安の昔から、いわゆる戦記物の物語や歴史書はたくさん遺されていますが、その中で、ただのひとりも、武将がトイレで用をたしている最中に扉の外から槍で突かれて殺されたなどという話はありません。
相手を殺害する意図を持っているのなら、その相手が用便中に襲撃するのが、いちばん手軽で簡単です。
用を足している最中というのは、人間がもっとも無防備な状態だからです。
にも関わらず日本では古来トイレが完全個室であったということは、実は、日本がそれだけ安心、安全な国だったこという、これはひとつの証拠なのです。
また、襲撃する側も、相手が大用をたしている最中なら、襲撃は簡単です。
けれど、そんな襲撃をしたら、襲撃をした側が「末代までの恥になる」と考えたのが日本人なのです。
目的のために手段を選ばないのではなく、目的よりも名誉を重んじ、手段を選んだのが日本人なのです。
そしてそのことは、卑劣といわれる暗殺者であっても、トイレで用足中の相手を襲おうなどと考えられないことであったということです。
どれだけ日本人の民度が高かったのかがわかります。
このことは、海外のトイレが、なぜオープン・スペースなのかを考えたらわかります。
用足の最中に襲われそうになったとしても、扉がなくてオープンなら逃げることができます。
襲われる前に、襲ってくる連中がやってくるのを見ることができる。
だから逃げることができる。
いちはやく敵の襲撃を察知して逃げるためには、トイレに扉があったり、囲いがあったりしたらかえって困るのです。
狭い個室では、応戦さえできない。
扉があるほうが安心という日本の文化と、扉がないほうが、外敵がきたときにすぐにわかって安心という文化、人が人を殺すことがあたりまえの文化と、そうでない文化の違いがここにあります。
ちなみに、日本では、人を殺すということは、記紀の昔から悪しきこととして忌み嫌いました。
それらは古来「穢れ」として忌み嫌われました。
それどころか、死そのものまでが、「穢れ」とされました。
ですから戦国時代でさえ、日本の武将たちはできる限り人を殺さないように勤めています。
信長、秀吉、家康の三代の時代をみると、信長だけがやけに残虐性の高い人物として描かれていますが、これは秀吉の時代に、秀吉の善政を強調するために、信長を意図的に魔王のような残虐性を持った人物として意図的に描かれたものにすぎません。
実際にはどうだったかというと、最近になって発見された蜂須賀小六の部下の日記などによると、信長は実はお酒に弱くて甘党で、団子や干し柿が大好物、宣教師が持ち込んだコンペイトウなど大好物で、宣教師におねだりまでしていたといいます。
そして体を壊して参上できなかった家臣には、大丈夫かと気遣う手紙を送ったり、家臣から諌められたときなども、素直に非を認めていた。
最近になって第六天の魔王などと呼ばれる信長ですが、実像は、やさしくて気配り上手で、みんなから愛され、尊敬されるタイプの人物だったようです。
スケートの織田信成さんは、信長の17代目の末裔とのことですが、血統というのは争えないもので、もしかしたら信長も、信成さんのようなキャラクターだったのかもしれません。
またこの時代の戦記によく見られることですが、戦に敗れた側の大将は、クビを跳ねるという習慣があったというのですが、実際には、いくさの最中に死んだ雑兵のクビで間に合わせ、大将そのものは、出家(しゅっけ・お坊さんになること)させて命を長らえさせたというのが、一般的なならわしでした。
公式記録には、死んだことにする。
けれど、その実、出家させてお坊さんとなって、戦いで亡くなった敵味方の兵の弔いを生涯し続ける。
むしろ、本当に命を奪うことのほうが、稀であったといえるかもしれません。
石田三成は、最後、処刑されたのではなくて、地位を放棄して坊さんになったという話があります。
江戸時代の吉良上野介も、ある説によれば、赤穂の浪士によってクビを跳ねられてなどいなくて、内蔵助によって命を助けられ、その後長生きして天寿をまっとうしたという。
明智光秀も、光秀としては死んだことにされますが、実は僧となって生き延び、息子を立派に育て、家康の幕府開設の際には、新しい国家作りに寄与した、実は光秀の息子が天海僧正だという説もあります。
どれも公式記録には、そのように書かれていません。
ただし、日本における公式記録というのは、むしろ建前であり、真実は、行間から「察する」ことができるようにしておく。
それが日本の書かれたものの特徴です。
奉行所の記録には、厳しい処分を下したと表向き「書いて」あるけれど、実は、裏からそっと逃してあげている。
そういうことも、実は、よくあったのが、日本です。
それだけ互いに信頼できる国家であり、民族であったわけです。
ヤクザの喧嘩でも、古来日本では、相手の命を奪うことは、滅多にしませんし、武を用いるときも、相手を「こらしめ」られれば足り、敵が「マイッタ」といえば、そこまでです。
ですから刃物を使う場合でも、Chineseのように、いきなり首を狙うことは伝統的にしません。
首を狙えば命を奪うことができますが、日本の喧嘩では、大腿を狙って刺し、「痛い目」にあわせて、相手に改心を誘うというのが一般的でした。
要するに、いいたいことは、日本人は古来、命を大切にしてきた民族である、ということです。
そういう国だったからこそ、トイレも安心して個室でゆっくりとくつろげたのです。
考えていただきたいのです。
古来大陸では、敵となった城塞都市は、徹底的に殺戮と破壊の限りをつくしています。
幼児は塀から投げ捨てて殺し、奴隷として使えない老人は皆殺し、若い女性は強姦したうえで殺害し、若い男は、奴隷として次の戦の先陣を勤めさせられる。
ですから、戦いは常に、女房子供や親兄弟に至るまで、全員皆殺しになるか、生き残るために戦い抜くかという、究極の選択だったわけです。
これに対し日本では、戦国時代でさえ、城を攻滅ぼしたあと、その城にいる全員、それだけでなくその国(藩)に住む農民、町民、老人、子供、婦女にいたるまで皆殺しにしたなどという記録はありません。
負けた方は、大将クビを差し出せば、それでオシマイです。
その大将クビさえも、多くの場合は代役だった、というのが実際のところです。
そして戦いの最中に、失われた命に対しては、戦のあとには、敵味方を問わず、ねんごろに弔いを行なっています。
どこまでも命を大切にする。
それが日本です。
歴史小説では面白さを出すために、何万の兵力が結集し、なんとかヶ原で丁々発止の大決戦が行なわれ、残虐が行なわれたようなことが、よく書かれています。
けれど、みなさん、ご自分が、勝った方の大将だったとして、そういう振る舞いをみなさんならされるでしょうか。
あるいは、そういう残虐な振る舞いを平気でするような大将なら、みなさんはついていくでしょうか。
答えは、NOです。
日本で、中世のイクサの際、全部が全部、命を大切にし、敵を殺さなかったと言っているのではありません。
ときに殺しあいの大イクサがあったことも、事実であろうと思います。
ただ、基本的なマインドとして、人をそうやすやすとは殺さない、そういう国であったからこそ、日本のトイレは大昔から、扉のついた個室になっているのです。
なんだか歴史教科書をみると、百姓一揆なども、打ちこわしや商家を襲って皆殺しにしたかのような記述が多く見られますが、実際にあった百姓一揆は、いまでいったら、日の丸の旗をたてて保守のみなさんがデモを行なう、あれと同じで、日の丸の旗の代わりに、ムシロ旗を立てて行進したにすぎません。
現実問題として、もし百姓一揆が、年中、打ちこわしや、商家を襲う殺人集団だったのなら、当然のことながら、一揆の集団に対し、藩主は戦支度の武士軍団を差し向けて、これを皆殺しにしていたはずです。
どこぞの国では、実際にそのようにしています。
けれど、そういう武士軍団が一揆の集団を襲ったなどという記録は、日本には、ただの一件もありません。
日本の歴史は、共産主義者や反日左翼が宣伝するような、階級闘争の歴史ではないのです。
だからこそ、その共産主義者や反日左翼主義者でさえ、トイレにはいるときには、安心して個室で用をたしているのです。
私達は、毎日、トイレにはいります。
そしてどのご家庭のトイレも、会社や学校のトイレも、みんな大は個室です。
昔のKorea半島のように、毎朝男も女も、家の外に出て、路上で大用をたすなんて習慣は、日本中どこを探したってありません。
Chinaのように、時間のかかる大は、扉のない丸見えの環境でするもの、という習慣もありません。
なぜ日本のトイレが個室になのかというと、要するに私達の先祖は、平和を愛し、人を殺したり争ったりすることを「穢れ」として忌み嫌い、人と仲良くし、自分も安心してトイレを使える、そういう文化を、古代から作り上げてきてくれたおかげ、なのです。
Chinaがお好きなら、どうぞ、トイレは個室ではなく、オープンスペースで。
Koreaがお好きなら、どうぞ、トイレは、家の前の公共の路上で。
それが嫌なら、日本という国を築いてきた先人達に感謝の心を持つべき、そのように申し上げたいのです。
そうそう、最後にもうひとつ付け加えます。
冒頭にテレビ番組で紹介された埼玉県川越市の喜多院の家光公の部屋のことを書きましたが、ここには他にも江戸城内に遭った春日局の部屋も移築されています。
その部屋も番組で紹介されていました。
部屋は四室あり、このうち三室の天井が少し低くなっています。
なぜかというと、隠し階段のようなものがあり、そこから天井裏の屋根裏の大広間(畳が敷いてあります)に上がることができるようになっています。
この部屋について、やはりタモリが質問し、住職が答えたのが、「ここは女中たちを折檻するときに使われた部屋です」というものでした。
もう、ため息が出ました。
その二階の屋根裏部屋には畳が敷いてあり、ちゃんと窓もあるのです。
窓は、建物の外からもちゃんと確認できます。
しかも大広間になっています。
部屋の主は、春日局です。女性です。
そして1階の部屋には押入れスペースがあまりないのです。
春日局くらいの身分の高い女性になると、たくさんの衣類があります。
園遊会やお茶会、和歌会などの式典も多々あります。
それら衣類は、夏服と冬服も用意しなければなりません。
他にもたくさんの小物があります。
それらの保管は、いったいどのようにしていたのでしょうか。
少し考えたらわかることなのです。
要するに二階の屋根裏部屋の大広間は、そこが今風に言うならクローゼット・ルームだった、ということです。
普段使わない衣類や小物などは、屋根裏部屋にあげておく。
そうすることで、部屋にはモノを置かず、いつも簡素で清潔な状態にしておく。
武家は華美を嫌います。
けれどお局様(おつぼねさま)は、実際にはたくさんの衣装が必要です。
そうであれば、その衣装を、どこかに保管しなければなりません。
そしてそれが衣類なら、風通しがよい場所に保管しなければ、湿気の多いお蔵のようなところに保管したら、虫の餌食になってしまいます。
だから屋根裏部屋に、ちゃんと窓もしつらえてあるのです。
もしそこが「女中たちの折檻部屋」だというのなら、悲鳴が外にもれるような障子の窓をどうして作ったのでしょうか。
むしろそんなエゲツナイ想像をする学者たちに、異常性を感じます。
※この記事は2012年6月の記事をリニューアルしたものです。

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