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20150518 暴れん坊将軍

時代劇などで、お殿様役の役者さんが、「よは満足じゃ」と語るシーンがあります。
ここでいう「よ」とは、いったい誰のことなのでしょうか。
現代漢字では、「余」とか「予」が充てられます。
けれど本来は、実は「世」です。
ただ、「世」と書くと、なんだか大言壮語みたいになるので、そこからすこし遠慮して「余」とか「予」を書きました。
けれど音はあくまで「よ」です。
そして「よ」とは「世」のことです。
ではなぜ「世」というのかというと、お殿様には「私」がないからです。
これはとっても厳しいことで、お殿様になる人、というより昔の武士は、幼少期からこのことを徹底的に仕込まれました。
なにしろ「私心を持ってはいけない」ということは、昔の武士たちのイロハのイの字よりも前に来る、基本中の基本だったのです。
やまと新聞 小名木善行の「百人一首」 第8回
二番歌 持統天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山


なぜ基本かといえば、これは聖徳太子の十七条憲法にまでさかのぼります。
第十五条に「背私向公」とあります。
「私(わたくし)に背(そむ)き、公(おおやけ)に向(むか)え」と読みます。
およそ人の上に立つ者は、自分個人のことよりも、みんなことを優先せよということです。
ましてお殿様といえば、藩主ならいまの県知事、直参旗本ならいまの市長くらいの役職にある者です。
そういう人が、「俺が、俺が」と我を張って自分個人の利益を優先するようになったら、まさに「世も末」です。
だからこそ、お殿様は、一人称を「よ」と言ったのです。
そしてここでいう「よ」は、自分個人のことではありません。
「世の中の人々」という意味です。
ですから「よは満足じゃ」というのは、「私個人が満足に思いますよ」という意味ではありません。
そもそもそういう概念自体、ほんのすこしでも思うことさえ許されなかったというのが、当時のお殿様です。
つまり「よは満足じゃ」は、その議決事項等について「世の中の人々が満足に思うであろう」、もしくは結果について、「世の中の人々がきっと満足したことであろう」という意味で使われた言葉です。
殿様なんぞに生まれたら、これが食べたい、あれが食べたいなどと我儘を言うことなど一切許されません。
ご飯に味噌汁に漬物、しかもお毒味役が毒味してからですから、冷えたご飯に冷えた味噌汁です。
おかわりも、2杯までと決められたら、それに従うしかない。
身の全ては公(おおやけ)のためのものだからです。
美味いものを腹いっぱい食べて「満足、満足」と言えるのは、むしろ庶民だけです。
そんな次第ですから、たとえばテレビドラマの「暴れん坊将軍」が、ラストシーンで「余の顔、見忘れたか!」などというのは、まったく日本の歴史を知らないか、日本の歴史を誤って教わったか、あるいは意図的に日本の統治の精神を歪めようとするさもしい心得からくるファンタジーでしかないのです。
ちなみに、武士は自分のことを「拙者(せっしゃ)」と呼びましたが、これは「そんな公に奉仕することのできない拙(つた)ない者」という語感があります。
つまり、「私」を主張したり、自分のことを述べたりする者というのは、公ではなく私であって、それはつたないもの、と考えられていたのです。
そもそもお殿様というのは、天子様である天皇から、担当地域の政治を委ねられた者、もしくは日本の治世を親任された将軍家から、領土領民の統治を委ねられた者たちです。
だから、領土領民を「ご拝領」といいます。
いわば人のものを預かっている立場ですし、何のために預かっているかといえば、その領土領民たち、つまり天子様の「おおみたから」を、より安全に安心して暮らせるようにと預かっているのです。
いまでは知事や市長は、選挙によって「選ばれた人」という位置づけですけれど、「俺は選ばれた人間だ」という意識は、いわゆる選民思想に由来します。
これは、俺は神によって選ばれた者だ、というのに等しいことで、あたりまえのことですが、傲慢を産みます。
ですからこのような人達が、自分の所轄する、自分を選んでくれた県や市町村で、何か大きな不祥事が起きたからと、自ら責任をとることはありません。
戦後の現代史を見ても、知事や市長が引責辞任するのは、常に、その知事や市長自身の手による金銭不祥事くらいなものです。
先般、神奈川県川崎市で中一児童の殺害事件がありました。
もしこれが江戸時代に起きたことであれば、川崎の、この場合は町奉行になりますが、川崎町奉行は、世間を騒がす問題を起こしたということで、切腹です。
なぜなら、そのような問題を「起こさないために」町奉行の職があるからです。
問題が起きたならば、その「問題を起こしたことに責任」をとるのはあたりまえです。
そのことを自覚し、自分で責任をと切腹すれば、家門は維持できます。
せめて息子は家督を相続し、また別な任地で奉行職を勤める家柄を維持できます。
けれど、自分で責任を自覚せず、腹も切らないとなれば、幕府から譴責(けんせき)を受けます。
この場合は、切腹ではなく、斬首です。
斬首は武門の恥です。
ですから、お家はお取り潰しとなり、妻子も親も、翌日からは一介の浪人一家となり、路頭に迷わなければなくなります。
武家稼業は楽じゃないのです。
現代社会では、切腹も打首もありません。
そして神奈川県警が被害者をイジメた児童を逮捕し、川崎市長は、市議会で「二度とこのような事件が起きないよう、教育委員会とも連携し、しっかりと対策をしていきたいと思います」と述べるだけです。
いささか過激な発言に思われるかもしれませんが、現代日本の市長さんは、小楽なものです。
ここまで申し上げても、「でも昔のお殿様は世襲だったよね」などと思う人がいるかもしれません。
しかし考えてみてください。
殿様と呼ばれる間も、そうでない間も、泣いて我儘を言えたのは生まれたての赤児の内だけで、その後は一生死ぬまで「私」ということを、言葉さえも発してはならないのです。
しかも何か大きな事件が起きれば、公のために問題を起こした責任をとって切腹です。それがお殿様の役割です。
気楽に「私」を主張できる民と、幼児から死ぬまで一切「私」を言えないお殿様。
話をする際にも、「私はこのように思う」とは一切口にさえできないお殿様。
常に「世は」と、世の中の人はこのように思うであろうという形でしか発言できず、「私は」とか「俺が」などと一言でも言おうものなら、主君押込(しゅくんおしこめ)といって、座敷牢に入れられ反省するまで半年でも1年でも牢屋から出してもらえなかったのが、昔のお殿様です。
いま、youtubeなどにおいて、様々な論客のみなさんの動画が出回っています。
どれでも構いませんから、どれかひとつを再生してみてください。
多くの場合、その人の発言は、1分に一度「私は」と、私という言葉が出てきます。
公のために活動し、発言している人ですら、そうなのです。
そのことが良いとか悪いとか言っているのではありません。
ただ、一切の「私」を捨てるということは、人生の途中からいきなりなれるということではなく、幼児のうちから徹底した教育を施さなけば身につくものではない、ということなのです。
だから殿様は世襲であり、生まれたときから、ずっと「私」を捨てる教育が施されてきたのです。
食べ物の中に、好きな食べ物があっても、「俺、これ大好物なんだ」とさえ言えない。それがお殿様です。
そしてそこまで徹底して公に尽くし、公に生きることは、世襲でなければできることではありません。
ただし実力分野、たとえば藩の経理財務や藩の外交、あるいは学問や武芸などの分野においては、世襲や血筋ではなく、実力がものを言いました。
ですから、どの藩においても、そうした分野には出自(しゅつじ)などは一切問題にせず、たとえ農民や職人、あるいは商人の出であっても、有能な人材を用いました。
これまた至極もっともなことです。
ただし、責任を取るということに関しては、そういう人達は切腹やお家断絶はなく、解雇というだけにとどめられました。
そういう違いがあったのです。
こうしてみたとき、江戸時代が、前にもご紹介しましたが、江戸の享保年間の20年間の間に、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数がゼロだったこと、あるいは江戸の日本橋のたもとという、日本一往来の激しかった場所で、青天井のもとに全国に送金される現金がザルにいれられて、見張り役さえいなかったのに、江戸時代を通じて盗難事件がゼロだったこと。
明治から昭和の中期頃まで、家に鍵なんてかけなくても、誰も泥棒さえはいらないというほどまでに、優れた治安が実現していたことなど、ある意味当然のことであったと思います。
それから考えれば、児童が殺害されるような事件があっても、女子高生がコンクリート詰めにされ、発見された時に膣からオロナミンCの瓶が2本も出てきても、区長も知事も警察署長も、だれひとり死刑にならない時代というのは、施政者にとっては「都合の良い時代」かもしれませんが、民衆にとってそれが本当に良い時代といえるのか、そういうことにこそ、私達は疑問を呈していかなければならないのではないかと思います。
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