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苧環 (おだまき)
苧環0428

実は、今日の記事は去る4月13日に「ねずさんのメールマガジン」で配信したものの再掲です。
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国体を取り戻す
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「国体」と聞くと、国民体育の略と受け取る方が最近は多いようですが、今日お話するのは、その「国体」ではなくて、日本のカタチ、戦前から使われていた日本の国のカタチという意味での国体です。
国体というのは、日本における天皇を中心とした秩序のことをいいます。
天皇といえば、君主という言葉を想像しがちです。
なるほど君主国というのはいまでも世界中にありますし、世界中のあらゆる国は、かつてはそのすべてが君主国でした。
けれど、日本における天皇の存在は、他の諸国の政治権力者としての君主とは異なり、権威として、権力者よりも上位にあって、自らは権力の行使をせず、しかもすべての民を「おおみたから」とするという、極めて特殊なカタチをしています。
これが日本における天皇を中心とした秩序ですが、そのことを総称して用いられたのが、国体という用語です。
このような統治の形態は、世界中、どこを探してもありません。
ですから日本語の国体は、英語圏では「Kokutai」と訳され、そのままの言葉として使われています。
つまり、他に言いようがない(適切な言葉がない)ために、日本語の「Kokutai」がそのまま使われているわけです。


この国体は、日本の2675年の歴史の根幹になっています。
それは神話だという人もいるかもしれませんが、聖徳太子による十七条憲法や、天智天皇の大化の改新が行われたのが7世紀、そして8世紀初頭には国体をもとにした古事記、日本書紀といった歴史書が編纂されています。
ということは、確実に存在が確認できる記紀の時代からみても1300年です。
世界で二番目に古い国がデンマークで約1000年、三番目に古い国が英国の900年、日本はデンマークや英国よりもはるかに古い時代に、すでに国体を成立させていたのです。
国体とは、天皇を中心とした秩序のことです。
ですから、国体が乱れると、日本の秩序も乱れます。
実は、日本の世界で最も古くて長い歴史を持つ国が、この国体に基づく秩序を乱した時代が、これまでの歴史の中で2回あります。
それが、応仁の乱の前後の百年と、大東亜戦争終戦からの70年です。
この両者が国体を乱しているということは、長い日本の歴史の中で、ご皇室の祖を祀り、ご祭神が日本の最高神である天照大御神である伊勢神宮の式年遷宮が、この二つの時代だけ、国費(公費)をもって行われなかった時代であるということから特定できます。
他の時代、たとえば江戸時代なら、式年遷宮は(もちろん民間からの寄進もありますが)、基本、その費用は徳川幕府が供出しています。
応仁の乱(1467-1477)からはじまる戦国時代というのは、その前期は、とりわけ酷い時代でした。
いまでも家柄の残る当時屈指の大大名(後の世に総理まで出した家柄)の家老クラスの大幹部が、郎党を引き連れて、高級貴族(いまでも家柄が残っています)の屋敷を襲って、その息女の着ている着物まで丸裸にして剥がして持ち去ってしまったなどという事件が公然と起こった時代です。
貴族たちの荘園は野盗によって強引に簒奪(さんだつ)され、税も納められなくなり、とにかく力が強ければ、財力がありさえすれば、何をやっても許される、力だけが正義とされた時代であったのです。
秩序が乱れ、武力さえあれば何でもできるという時代にあって、おもしろいのはこの時代、大手宗教団体が各大名家にまで入り込み、中にはその宗教団体が大名と武力衝突したり、自治国家まで形成したりした時代でもありました。
「現代日本はそこまでひどくはないよ」という方もおいでかもしれませんが、単に武力を行使していないだけで、政党を作って政権に入り込んだりもしているわけですから、ある意味、たいへん現代と戦国初期はよく似ています。
そんな価値観や秩序の乱れた戦国時代が何故できたのでしょうか。
当時の政権は足利政権ですが、足利政権は、その前の鎌倉政権時代の弊害である「田分け相続」を大幅に修正することで成立した政権です。
どういうことかというと、その前の時代の政権である鎌倉幕府は、いまの戦後日本と同じで、遺産相続が均等配分方式でした。
そうなると、当初は広大な知行地があっても、子供が4人いれば一回目の相続で知行地は4分の1,二度目の相続で8分の1、三度目の相続で16分の1と、財産はどんどん分割されていってしまいます。
そうすると、どんなに大金持ち(大地主)であったとしても、7代目には、相続財産では飯も食えない情況になってしまうわけです。
当時の鎌倉の御家人たちは、そのためにたいへんな経済苦となり、やむなく幕府は徳政令を出しました。
これはつまり御家人たちの強制破産宣告みたいなもので、そうなると一時的には借金がなくなりますが、その後の生活はより一層苦しくなるわけです。
こうした社会的混乱の中に南北朝の争いがあり、その勝者となった足利尊氏が開いた政権が、足利政権でした。
土地は、統合されて広くなることで高度な活用が可能になります。
ですから足利政権は、均等配分方式で細分化された土地を、領主のもとにあらためて統合し、秩序を回復しようとしました。
ここまでは良かったのです。
ところが足利幕府は、秩序の回復のために全国の土地を武士たちに再配分しすぎた結果、足利政権自体の知行地が、極端に減ってしまったのです。
将軍職、つまり政府というのは、その維持のために莫大な歳費がかかります。
そこで三代将軍足利義満のときに開始したのが日明貿易でした。
土地がなくても、交易をすれば莫大なカネが転がり込んできます。
その成功に味を閉めた足利義満は、なんとChinaの皇帝から柵封まで受けてしまいます。
そして「日本国王」を名乗った(1404)のです。
つまり足利義満は、カネのために、将軍という天皇に親任された政治権力者の地位にありながら、自ら天皇の権威を(結果として)否定し、天皇を中心とした秩序ではない、華夷秩序を日本に持ち込んでしまったわけです。
日本のすべての秩序は、天皇を中心に形成されています。
足利義満は、結果としてこれを否定しました。
ということは、政治権力者自身が、「権力(力)さえあれば、秩序なんてどうだっていい」と自ら宣言したようなものだったのです。
結果、世の中の秩序は根底から否定されました。
カネや武力さえあれば、何をやっても許されるという時代を招いてしまったのです。
そしてこうした時代を背景として起こったのが、応仁の乱です。
応仁の乱は、何故起きたのか、いまだに謎とされています。
兄弟喧嘩が原因だという学者さんもいますが、いまいち説得力に欠けているようです。
ただ、応仁の乱が始まったのは、1467年です。
これは、足利義満が「日本国王」の柵封を受けてから、ちょうど63年目にあたります。
いまの日本で民主党政権が誕生したのが、終戦から64年目の出来事です。
すでにその前年から、政権交代ブームになっていたことからすると、事実上63年目と言ってもよいかと思います。
民主党政権は、3年で挫折しましたが、応仁の乱は、その後、まる10年続きました。
京の都は灰燼に帰し、全国の主だった都市も、焼け野原となりました。
田畑(定職)を失った人々が、武者(フリーター)となって、全国を徘徊しました。
彼らが民家を襲い、食べ物や女を奪うと、治安維持のために当初は武家が出動していたのですが、後にはその武家が先頭を切って土地を奪うようになっていったのです。
襲われた人々は、当初は寺に逃げ込んだのですが、その寺さえも武者たちに襲撃されるようになっていきました。
挙句の果てが、皇居の中にまで難民たちがダンボールハウスならぬ掘っ建て小屋を建てて、まるで東日本大震災の避難所生活さながらに難民生活を送るようになりました。
けれどその避難所さえも、放射能汚染による退去命令さながらに、武者たちによって狩り出され、追い立てられる情況になっていきました。
そこまで国体秩序が荒廃した時代に、ある小さな事件が起こりました。
百人一首です。
百人一首は、藤原定家が鎌倉時代初期に、本来の日本の国体を取り戻したいという強い情熱と信念に基いて、その晩年の最期の大仕事として編纂した歌集ですが、この歌集は、定家の死とともに、なんと230年間もお蔵入りしていたのです。
ところが世の中が乱れ、名門貴族たちの荘園が奪われ、貴族の生活が圧迫されたとき、藤原家では、定家のこの遺産を、飯尾宗祗という連歌師に売るか、渡したか、それはわからないのですが、蔵から世の中に出てくるのです。
百人一首を託された飯尾宗祇は、旅の連歌師です。
歌の専門家です。
彼はひと目で、百人一首の凄みと藤原定家の選歌意図を見抜きました。
そしてこの遺産を、当時、当代一の古典学者と呼ばれた三条西実隆に手渡したのです。
百人一首は、一首一首の歌を、真剣にまじめに読んで行ったら、その真意が誰にでもはっきりと、感動をもってわかるように編集されています。
そこには、天智天皇(一番歌)から始まり順徳院(百番歌)に終わる、五百年の天皇の統治の時代、秩序ある時代の生成と、繁栄、そしてその崩壊を嘆く様が、明快に歌に詠み込まれているからです。
そして天皇を中心とした秩序ある時代の素晴らしさが、読み手に感動を持って伝わる仕様になっています。
三条西実隆は、当時、時代を代表する古典学者として、全国の大大名やその奥方や子女などとも交流がありました。
そして彼や彼の弟子たちは、その百人一首に描かれた天皇を中心とした秩序ある時代を、広く世間に普及して行ったのです。
このことは、民意を大きく転換させるきっかけとなりました。
そして民意の転換は、大大名の行動の変化となって、具体的な行動を変えていきました。
力のある大大名、強い名門の大大名たちが、自国の覇者という立場に満足するのではなく、天皇を中心とした国体の回復によって、日本全体の秩序の回復に乗り出すようになっていったのです。
こうして甲斐の武田信玄や、駿河の今川義元、越後の上杉謙信、尾張の織田信長などが、こぞって京の都に上ろうとしはじめています。
すこし考えたらわかることですが、甲斐の武田氏にしても、駿河の今川氏にしても、それぞれ大国の領主です。
すでに財もなし、家は安泰で、すでに高齢です。
にも関わらず、彼らはどうして、あえてリスクを犯してまで京の都に上ろうとしたのでしょうか。
さらに付け加えるならば、当時の武士たちというのは、足軽たちまで含めて、全員が半農半武です。
戦に兵を動員するに際して、大名は、各地の農家に依頼する立場です。
お殿様が物狂いなら、兵は集まりません。
むしろ、兵たちの側に、「そうしよう」という強い信念と要望があって、はじめて殿様は兵を動員できました。
このことは、昨今の保守系の街宣デモの動員と同じです。
主催と参加者の心がひとつになるから、人が集まる。デモが行われる。
左翼は、日当を出してデモの動員をしますが、当時の戦の軍兵は、戦に参加したからといって、恩賞が出るわけではありません。
もちろん軍功を立てれば恩賞をもらえますが、戦への参加は手弁当だし、負ければ、逃げ帰る費用は自分持ちです。
にも関わらず、「オラたちの土地を守るため」ではなく、国というまったく遠い存在のために、あえてリスクを冒して京の都を目指して進軍する。
そこには、大名の意思や動員というよりも、むしろ兵として動員されている側に、そうしようという強い意思がなければ、実はこれは実現できないことです。
なぜなら日本は、ウシハク国ではないからです。
こうして秀吉の時代には、お百姓が関白太政大臣となり、家康の時代には武門の長が征夷大将軍となって、わたしたちの国の天皇を中心とした秩序(国体)を見事に回復していきました。
江戸三百年の平穏は、こうして築かれたのです。
昨今の日本は、連日、暴行障害強姦殺人が報道されています。
神社が放火され、国の重要文化財に油が蒔かれ、首相官邸がテロの対象になる。
このままいけば、あと10年もすれば、いまの米国なみに、女性の5人に1人は強姦被害の経験ありになってしまいかねません。
なぜこのようなことが起きるのかといえば、その根源に、秩序の乱れがあるからです。
日本人のような顔をして日本語を話し、日本で生活する日本人でない人たちを、政府が放置し容認しているのです。
日本的秩序感を持たない人たちを国内に放置すれば、国内秩序が乱れるのは「あたりまえ」のことです。
しかも学校で道徳を教えない。
天皇の存在のありがたさを教えない。
応仁の乱当時さながらに、世の中が乱れるのはあたりまえです。
「日本を取り戻す」といいます。
その本質は、日本の「国体を取り戻す」ことなのです。
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