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パラオに咲く花

パラオ・ペリリュー島に天皇皇后両陛下が訪問されました。
そこで、戦いの模様を、舩坂弘(ふなさかひろし)さんの手記でご紹介したいと思います。
舩坂弘さんは、戦後、東京・渋谷で書店の経営をはじめ、日本最初の書店ビル「大盛堂書店」の経営者であった方です。
平成18(2006)年、86歳で永眠されています。
舩坂さんは、昭和19(1944)年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊の軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に赴任を命ぜられました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
そこに同年9月11日、米軍が来襲しました。
開戦から5日間、米軍はまず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行いました。
次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をしました。
そして9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸しました。
このとき、島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名です。


アンガウルは、小さな平たい島です。
内陸部に誘い込んでの戦いはできません。
日本軍は、はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちました。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷したそうです。
しかし兵力差は15倍です。
水際作戦で中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けました。
そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ろうとしたのです。
米軍は陸続と上陸してきました。
日本側は、大隊の残存兵力を島の北西の洞窟に集結させました。
ここから先はゲリラ戦です。
戦い3日目に、舩坂軍曹はひん死の重傷を負いました。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
場所は敵陣のど真ん中でした。
味方が助けようにもすぐには助けれられない。
押しつ戻しつの戦いの中で、米軍の銃火の中に放置された舩坂氏のもとに、ようやく軍医がやって来たのは、重症を負ってから数時間後のことでした。
傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、何も言わず、手榴弾を手渡して去って行きました。
自決用です。
おまえはもう死んでいる、と宣告されたようなものです。

舩坂弘さん
舩坂弘さん

「負けるもんかっ!」
舩坂軍曹は、近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛りました。
そして夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったそうです。
ところが舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまいました。
舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負っています。
動くことがままならないような重症を何度も負うのですが、不思議と翌日には回復したそうです。
ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんどサイボーグもどきの体力です。
舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊です。
子供のころからきかん気でガキ大将で、長じては剣道と銃剣道の有段者となり、また中隊随一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人だったのです。
舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。
ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させました。
まさに鬼神の如き奮戦です。
舩坂軍曹を見た分隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。
しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相でした。
舩坂軍曹自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまっていました。
さらに腹部の傷が化膿しました。
そこにハエがたかって蛆(ウジ)が湧きました。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意しました。
このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。
立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていました。
そんな中で彼は遺書を書きました。
==========
若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。
靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
 陸軍軍曹 舩坂弘
【原文】
若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
==========
自決を決意した舩坂軍曹は、手にした手榴弾を引き抜きました。
手榴弾は、引き抜いたら数秒後に爆発します。
ところが手榴弾が爆発しない。
思いに反して手榴弾が不発だったのです。
「なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか」
舩坂はこのとき、深い絶望感を味わったそうです。
このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましていました。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちています。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂は、絶望から気を取りなおしました。
「どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いよう」
彼は、米軍司令部への単身での斬り込みを決意したのです。
彼は拳銃弾から中の火薬を取り出しました。
そして、その火薬を腹部の患部に、自分の指で押し込みました。
そして火をつけました。
貫通創です。
腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いています。
その両側から炎が噴き出しました。
激痛のあまり意識を失いました。
このときは、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。
当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。
そのまっただ中を、舩坂はまる4日かけて、這い続けました。
米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしました。
そして米軍指揮所テントにあと20Mの地点にまで到達しました。
舩坂軍曹は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まったのです。
舩坂軍曹は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめました。
左手に拳銃を持ちました。
そして全力を絞り出して立ち上がりました。
このとき、突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。
それはまるで、半ば腐りかけた屍体が、いきなり立ち上がったような、この世のものではないものにしか見えなかったからです。
それもそのはずです。
このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い、更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいたのです。
全身血まみれ、服はボロボロ。
人間に見えるほうが不思議なくらいです。
米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20Mを駆けました。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとしました。
その瞬間、頸部を撃たれました。
舩坂軍曹は気を失って倒れました。
倒れた舩坂軍曹のまわりに、米兵たちが集まりました。
どう見ても即死です。
全身血まみれで首を撃たれているのです。
生きていると思うほうがどうかしています。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断しました。
軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、米兵たちに向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語ったそうです。
舩坂軍曹は、死体置き場に3日間転がされました。
そこでなんと舩坂軍曹は、息を吹き返したのです。
そして死体の山の中からむっくりと起き上りました。
番をしていた米兵は、あまりの恐怖に血が凍りました。
そして舩坂軍曹に銃口を向けました。
その銃口に、舩坂軍曹は、ゆっくりと、まっすぐに向かいました。
そして銃口に自分の身体を押し付けました。
そして幽鬼のような声で、英語で「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげました。
不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。
米軍は、舩坂軍曹に、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈り、彼を野戦病院で手厚く看護しました。
元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っています。
こうして一命を取りとめた舩坂軍曹は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復しました。
そして、となりのペリリュー島に送られました。
闘志の衰えない舩坂は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見て「よし!いつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓いました。
ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、舩坂軍曹は夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。
ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領された前の日の夜のことです。
舩坂軍曹は、千Mをほふく前進しました。
そして途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、彼は小銃弾を67発集めて火薬を抜きとりました。
その火薬を導火線にして、彼は米軍の火薬庫に火をつけました。
火薬庫は大爆発を起こしました。
炎は次々に別の棟へも移りました。
これによって、ペリリュー島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまっています。
米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせました。
舩坂軍曹は、そんな火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻りました。
収容3日目の夜、舩坂はこんどは歩哨を殺して銃を奪った舩坂軍曹は、再び夜陰にまぎれながら歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートル。
そのとき真後ろからいきなり、「ヘーイッ!」とタックルをくらいました。
舩坂軍曹も必死に抵抗しましました。
相手は大柄ですが、健康なときならいざしらず、まだ怪我の治らない舩坂軍曹は、ついにはぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられてしまいます。
タックルをした米兵の大男は、顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵りました。
そして舩坂軍曹に銃を向けました。
殺される。
そのとき舩坂軍曹は、「これで楽になれる」と思ったそうです。
そして目を閉じた。
ところが舩坂軍曹の耳に、次に聞こえたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「アナタハ神様ニマカセナサイ。
 自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。
 アナタハ神ノ子デス。
 アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂をそのままにしてテントを出て行きました。
翌日、縄を解かれて放置された舩坂軍曹は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを一本ずつ手に入れます。
マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないといいます。
「今夜こそがチャンス」
舩坂軍曹は、その夜秘かにテントを出ました。
そしてほふく前進しながら、有刺鉄線を越えようとしました。
「よし、あとすこしだ。」
そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂は拳銃を突きつけられ、テントに戻されます。
「殺せ!」と英語で怒鳴る舩坂軍曹に、大男はこう言いました。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、私ニ連絡キマシタ。
 アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、
 私ハ仕事ノ途中ダケレド、切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話して、こう続けました。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、即座ニ射殺サレタコトデショウ。
 私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。
 無事デヨカッタデス」
さらに大男は、舩坂の無謀な行動を戒めました。
そして「生きる希望を捨てるな、死に急ぐな」と説きました。
大男は、「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問いました。
舩坂軍曹は「わからない」と意地を張りました。
けれど舩坂軍曹の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心に沁みていました。
舩坂軍曹ら捕虜は、ハワイへ送られることになりました。
一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきました。
彼は言いました。
「軍曹、死ンデハイケナイ。
 生キテ日本ニ帰リナサイ。
 私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ、神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を舩坂軍曹に渡しました。
そこには彼の名前が記されていました。
「F.V.CRENSHAW」
舩坂軍曹は、その名詞をポケットに入れました。
けれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまいます。
舩坂軍曹は、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々としました。
そして昭和21年に帰国しました。
帰国した舩坂軍曹は、栃木の実家へと帰りました。
実家では、舩坂軍曹は、戦死したものと思われていました。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは、昭和19年10月19日のことです。
昭和20年12月には、舩坂軍曹の実家に、戦死公報が届けられていたのです。
ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたそうです。
「弘って字があるけど、これって俺のこと?」
村の人々も、帰ってきた舩坂元軍曹の傷だらけでボロボロの姿を見て、これは幽霊に違いないと噂したそうです。
しばらくのあいだ、彼は「物の怪」と思われていました。
だから、彼が故郷に帰って最初にした仕事は、「舩坂弘之墓」と書かれた墓碑を引き抜くことだったそうです。
戦後、舩坂元軍曹は、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開きました。
そしてこの小さな書店が、後に日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展しました。
彼は書店経営の傍ら、
「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「血風 二百三高地」
「ペリリュー島 玉砕戦」
「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」
「硫黄島‐ああ!栗林兵団」
「殉国の炎」
「聖書と刀‐太平洋の友情」
「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わしました。
また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈ったりもしています。
関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられた刀です。
また、ペリュリューで世話になった大男、CRENSHAW伍長にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。
ようやく連絡がとれたCRENSHAWとは、生涯の友となりました。
舩坂軍曹は、アンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立しました。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行いました。
さらに他の遺族を募って、慰霊団を引率したり、パラオ諸島原住民に対する援助や、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行ないました。
舩坂弘さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。
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尊い平和の礎のため
勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り
永久に其の功績を伝承し
感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。
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パラオは、ここ数年来、ペリリューやアンガウルの島内にある日本の碑文に、ハングルや簡体字によるひどい落書きが目につくようになりました。
また、碑文や戦跡に行くための日本語の案内板は、倒されたり、方向を変えられたりもしています。
今回の天皇皇后両陛下のパラオご訪問で、パラオの人々がこうした落書きを消したり、倒された案内板を復旧したりしてくれたようです。
ありがたいことです。
パラオ、ペリリュー、アンガウルで散って行かれた英霊の皆様に深く哀悼を意を表するとともに、かつて同胞であったパラオの人々に、心からの感謝を申し上げたいと思います。
※この記事は、2009年11月の記事をリニューアルしたものです。
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