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日本の春0314

「富(とみ、英:Wealth)」という言葉は、財産や資源を豊富に持った人や持った国などに使われる言葉です。
ですから「富」をたくさん得た人や国は、「豊か」とされます。
家計の富の世界分布(The World Distribution of Household Wealth)なんてのを調べた人もいて、それによると、世界の全家庭の富の総計は2000年に125兆ドル、その富の90%が北アメリカ、ヨーロッパと日本によって生産され、世界の成人の1%が世界の富の40%を持っているのだそうです。
そんなわけで「富」も「豊かさ」も、しばしば経済の指標として扱われるし、現代の日本社会が目的としているのも、国全体、社会全体、そして企業や個人が、その富をいかに極大化していくかにあるとされています。
もっと簡単にいうと、「富」や「豊かさ」というのは、要するに「お金があること」、もしくは「つかえるお金が豊富にあること」を意味し、そのために経済が営まれると、戦後の私たちは、なかば「信じられ」ています。
ですからいまの日本では、お金持ちになることが幸せであって、豊かであって、富んでいることだと、一般に考えられているようです。
では、先日お伝えした「入唐求法巡礼行記」に出てきた唐の皇帝は、富める人であったといえるでしょうか。


Chinaの皇帝ですから、この世の富をすべて持っています。
なにせ望楼がほしいと思ったら、すぐに命じてそれを築造できてしまうくらいなのです。
しかも武力を持っています。権力も持っています。
けれど、その皇帝自身、そしてまた皇帝の周囲にいる(いつ殺されるかわからない)人たち、当時の唐の国の領民たちは、それで本当に豊かで富んでいたといえたのでしょうか。
実は、ここ、国家として考えるときにおいても、個人においても、とっても大切なことなのではないかと思うのです。
つまり、どんなに経済的に豊かでも、どんなに権力があったとしても、安全で安心で平和でないなら、それは決して「豊かで富んだ」社会でも、人でもない、ということです。
逆にいえば、平和や治安の良さは、国の「富」を図る上で、とっても大切なファクターだし、個人においても、家族や友人たちと、穏やかで温かな交流を保ち、互いを愛(いと)しく愛(おも)う関係を持つということは、とても大切な「豊かさ」や「富」のファクターということができます。
そもそも「経済」という単語がそうです。
経済は、もともとは「経世済民」から来た言葉です。
意味は、江戸時代の学者の太宰春台によれば、「天下國家を治むるを經濟、世を經(おさ)め民を濟(すく)ふ義なり」です。
つまり江戸時代の「経世済民の学」は、いまどきの経済学のようなお金の話だけではなくて、政治学、政策学、社会学、外交学、軍事兵学、農学など、きわめて広範な領域をカバーする学問だったわけです。
なぜかといえば、それは単にいまでいうお金の流れだけを扱う「経済学」と違って、そこに「人々の幸せ」という重要なファクターを混ぜていたからです。
このことは、いまどきの日本を考えたらよくわかります。
日本は、いまやとっても豊かな国です。
主婦でも専用車を持ち、生活保護者でもエアコンのある生活をしています。
都会に行けば、世界中の美味しい料理を食べることができる。
平成不況とはいえ、まさにいまの日本は、「世界の成人の1%が世界の富の40%を持っている」状況にあります。
ところがその一方で、川崎の中1生徒殺害事件や、福岡一家惨殺事件など、ひと昔前なら考えられないような酷い事件が頻発しています。
先日、この中1生徒の事件のことを、このブログに書いたら、「戦前の方が少年犯の事件は多かった」とコメントしてきた人がいました。
バカバカしいので承認しませんでしたが、数の上から言ったら、たしかに今も戦前も変わりません。
ただし、戦前の事犯が、未成年者が非道や外道になりきる前に対処されていたために、摘発件数が多かったこと、これに対して、現代日本では、少年犯が想像を絶する非道外道になってからでしか国家として対処されていないという視点が、抜け落ちています。
とりわけ、我々日本人とは、人の命に対する価値観がぜんぜん異なる日本人のような顔をした外国人による凶悪な犯罪が、現実にこれだけ頻発しているにも関わらず、政治においてまったく対処されていない、それどころか、むしろそうした犯罪を犯す者たちのほうを、むしろ法と政治で保護している。そこが問題だと申し上げているのです。
数週間にわたって監禁し、暴行を与え続けた挙句、殺害に至っても、殺人事件としては1件です。
たまたま事故で殺してしまったとしても、事件としては1件です。
事件の凶悪性や反復性、常習性などをまったく加味せずに、ただ数字だけを比べても、それは比較になりません。
話を戻しますが、国の内外における平和と治安の良さ、徳性の良さは、国家として考えたとき、まさに「なににも代えがたい富である」ということができます。
いま、私たちは日本を取り戻すことを合言葉にしていますが、その取り戻すべき日本は、精神、国体ともに、健全で安心、安全で、なおかつ豊かな日本であろうと思います。
わたしたちは、そういう日本を取り戻し、さらにもっと豊かな日本を築いていく。
いま、この瞬間の贅沢や、特定個人や特定企業、特定政治団体だけにとって都合のよい社会ではなく、ひろく日本全体が、そして世界の民衆が、ほんとうの意味で富める民(たみ)となれるようにしていく。
そのために努力をし続けていくのが、日本という国、そして日本人に与えられた大きな役割なのではないかと思います。
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ムヒカ大統領の衝撃的なスピーチ
【世界で最も貧乏な大統領】

お時間のある方は、上の動画をご視聴されるか、下の文字起こしを読んでみてください。
きっと何かをお感じになるものと思います。
そして日本は、わずか70年前までは、海外にいる600万人の食料を国内生産で賄うことができるほどの納涼大国だったのです。
【文字起こし】http://whats.be/2180
会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
私たちの本音は何なのでしょうか?
現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?
質問をさせてください。
ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。
息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
同じ質問を別の言い方ですると、
西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
可能ですか?
それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?
なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?
マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。
マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。
私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?
あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?
このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?
このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。
我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、
政治的な危機問題なのです。
現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。
逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
幸せになるためにこの地球にやってきたのです。

人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。
命よりも高価なものは存在しません。
ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。
消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。
このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。
ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。
これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。
石器時代に戻れとは言っていません。
マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。
昔の賢明な方々、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています
「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。
国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。
私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。
根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。
そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。
私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。
私の国には300万人ほどの国民しかいません。
でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。
ヤギも800万から1000万頭ほどいます。
私の国は食べ物の輸出国です。
こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。
そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。
しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。
なぜか?
バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。
そして自分にこんな質問を投げかけます。
これが人類の運命なのか?
私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。
これらをもたらすべきなのです。
幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。
ありがとうございました。
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