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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
ねずさんの百人一首本は2015年3月発売予定です。
【CGS ねずさん】第5話 学校で教えてくれない百人一首

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遣隋使1228

607年といえば、第二回の遣隋使が派遣された年です。
Chinaに「隋」が誕生する前の時代は、3世紀の初め頃の、あの『三国志』で有名な三国時代、五胡十六国時代、南北朝時代と続く、China大陸の戦乱の時代です。
このことは日本外交という面からいうと、日本がChinaを無視できた時代といえます。
向こうさんが勝手に内乱を繰り返しているのです。
ですから日本は、第21代の雄略天皇の時代に、宋に使いを送った(478年)のを最後にして、Chinaの冊封体制から離脱しています。
そして600年に、日本が、新しくChinaにできた「隋」の大帝国に第一回の遣隋使を送るまで、122年間の間、日本はChinaと国レベルでの国交を絶っています。
ちなみにChinaの皇帝が、東アジアの周辺国に朝貢を要請するようになったのは、魏蜀呉の三国志の時代からといわれています。
それ以前のChinaの王朝は、Chinaエリアだけでの覇権を争っていただけです。


その魏に、魏志があり、その中の倭人伝は有名です。
このことと華夷秩序、冊封体制を結びつけて、Chinaの歴代王朝が周辺諸国を冊封体制の下に制圧していたような印象をあたえる記述をよく見かけますが、これは実は、半分正解、半分不正解な記述です。
というのは、Chinaの歴代王朝は、なるほど「柵をもって王に封ずる」という政治体制を敷きましたけれど、これはChinaの歴代王朝にとっては、彼ら自身の権威付けのためのものでもあったのです。
ご存知の通り、Chineseというのは、たいへんわがままな人たちです。
そういう人たちを従わせるに際して、「ほら、この通り皇帝のもとには、君たちよりもはるかに遠くの諸国の王たちが、皇帝の徳を慕って朝貢してきている。だから皇帝は権威があるのだ。君たちも見習いなさい」という、一種のデモンストレーションを、年中行う必要があったのです。
つまり柵封は、歴代王朝の権威付けのためという彼らの都合のために行われていたという側面があるわけです。
このことは同時に、周辺国にとっても、強大なChinaの皇帝をバックにつけているということが、周辺国の豪族たちにとっても、自分の権威付けになりました。
現実問題として、戦って血を流して領土を切り取るよりも、強大なバックについてもらって、その権威で自身にとっての周辺豪族を従わせたほうが、はるかに楽だし安全です。
実際、こういうことは、今も昔も変わりません。
どういうバックがついているかということでしか人を見ることができない人というのは、いまの世の中にもいます。残念なことですが、それが世の常です。
このことは、いわゆる「権力」というものが内包する大切な側面をも見事にあらわしています。
つまり「権力」は、何らかの「権威」がなければ、発揮することも行使することもできない、ということです。
その「権威」は、強大な軍事力であったりするし、身近なところでは、会社から与えられた部長とか課長とかいう「身分」であったりします。
そして「身分」が「権威」によって裏付けられると、そこに「権力」が生まれるわけです。
「力」も同じです。
「力」は「正義」という名の権威の裏付けがあって、はじめて正当化されます。
最近では、大義名分を兵を利用するためとか、非常に低次元なものにしたがる作家さんや教授さんがいますが、いくさをするということは、「力」を用いるのです。
そして「力」を用いるためには、大義という名の「正義」の裏付けがなければ、それはただの暴力になってしまいます。
Chinaでは、正規軍とヤクザと暴徒は同じものですが、わが国では太古の昔から、軍と警察は、ヤクザや暴徒とまったく別な存在です。
だからこそ大義名分を大切にしたのです。
話が前後しますが、古代に話を戻します。
有名な「漢倭奴国王印」と記された金印は西暦57年のものですけれど、当時の倭国は村落国家の時代です。
つまり村がひとつの「クニ」であった時代で、その村々を組織化し集合体化していくためには、力のある者が、なにかもっと力のある者にその権力の認証を与えてもらう必要があったのです。
Chinaは広大だし、そこにある軍事独裁国家が後ろ盾となり、金印までもらっているわけです。
周辺の村々からすれば、すくなくとも奴国は、漢の国に使節を派遣できるだけの財力と政治力を持っているということになるわけで、しかも与えられた印は、金銀銅の中で、いちばん位の高い金印です。(ちなみに朝鮮半島の歴代王朝もChinaの皇帝から印を授けられていますが、彼らは銅印以外はもらったことがありません)。
それだけの御仁ならば、じゃあ、村々協同の大将にしようじゃないかという気運が自然と生まれるわけで、それで奴国は力を得ていくわけです。
ところがそれから100年位経った2世紀後半になると、Chinaの漢の大帝国自体が内紛状態になるし、そうなると漢の権威が弱化しますから、当然のことながら漢を後ろ盾にした奴国の権威も弱化します。
それで起こったのが、「倭国乱」です。
そして最終的に、卑弥呼(姫巫女)が、魏に使いを送ったのが西暦239年のことです。
その西暦200年代に古代大和朝廷が国内を統一し、統一した倭の五王(讃、珍、済、興、武)が宋に使いを送って柵封を受け、そして最後に倭王武(雄略天皇)が宋に使いを送ったのが478年で、これ以降122年間日本はChinaとの国交を断つ・・・と話がつながるわけです。
要するに、古代の一時期、日本はChinaの柵封を受けました。
それは散乱する国内の村落国家を大和朝廷としてい統一していく過程において、その必要があったからです。
そしてその必要がなくなったとき、つまり倭王武のときには、柵封を受けること自体、日本は取りやめにしてしまっています。
そしてChinaに強大な軍事帝国「隋」が誕生したときには、日本は堂々と隋と対等な国家として、外交を展開しています。
それが7世紀のことです。
それ以降、日本は独立した国家として、独自の日本文明をしっかりと築いてきました。
つまりすくなくとも1400年間、日本は独立自尊をしっかりと保ってきたのです。
いま、Chinaや米に媚びる人たちがいます。
7世紀の日本人の爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものです。


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