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『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』
【CGS ねずさん】第4話 紫式部が言いたかったこと

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杜甫 春望

まず初めに申し上げたいことは、口語には文法は「ほとんどない」ということです。
「私は◯◯に行きます」というのは、文語にはそのような語順で書きます。
「は」や「に」という接続詞で名詞や動詞、目的語をくっつけるのは、日本語などの膠着語の特徴ですけれど、話し言葉には、その接続詞がないどころか、語順さえも、どこの国の言語かわからないほど、ひとことでいえば「いいかげん」なものです。
「行くよ。◯◯。ワシ」で通じてしまう。
口語にはほとんど文法がないということは、英語であれ、イスラム語であれ、China語であれ、日本語であれ、世界中どこの国でも同じです。
問題は、言葉を「書く」ときです。
英語のような、アルファベットの表音文字の国では、書く際には一定のきまりや法則が必要になります。
なぜなら、それがなければ、文章にならないからです。
ところがもともとの漢字文化には、文章に文法は必要ありません。
なぜなら、ひとつの漢字にひとつの意味を持たせたのが漢字だからです。
簡単にいうと、意味を持った漢字という名前の「絵」を、ただ並べたものが漢字語です。
ひとつひとつの漢字そのものに意味があるから、文法は必要がなかったのです。


たとえば有名な漢詩で、杜甫の「春望(しゅんもう)」があります。
杜甫は8世紀の人すから、日本で古事記などが編纂されたよりも、すこしあとの時代の漢詩です。
『春望』杜甫(712〜770)
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火三月に連なり
家書抵萬金 家書萬金に抵る
白頭掻更短 白頭掻かけば更に短く
渾欲不勝簪 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す
ここにある「国破山河在 城春草木深」は、漢字の位置が入れ替わって、
「破国在山河 春城深草木」
と書かれても、ちゃんと意味は通じます。
ただ、漢詩は西洋の「詩(poem)」の影響を受けて「韻を踏む」、つまり語尾をすべて同じ発音にすることで、朗詠するときの調子を整えようしましたから、「国破山河在 城春草木深」となっています。
「国破山河在 城春草木深」という語順になっているのは、そういう理由からです。文法ではありません。
むしろ現代China語の文法でいえば、「破国在山河 春城深草木」の方が正確といえるかもしれません。
仏教の経典も同じです。
漢字で書かれた仏教の経典は、もともとがサンスクリット語を漢字に置き換えたものですが、一言でいえば、似た発音の漢字を、サンスクリット語の音に合わせて配置した「だけ」のものです。
ですから、たとえば般若心経の
「色即是空 空即是色」にしても、語順を変えて
「即色空是 即空色是」と書いてもちゃんと意味は通じます。
要するに、漢字があるだけで、文法は「ない」のです。
(経文の意味についての議論ではありません。あくまで文法の話です)
現代China語には、文法がありますけれど、たとえば日本語の「今日は良い天気ですね」は、現代China語では、
「今天是心情好的早上」と書いても
「是心情好的早上今天」と書いても、意味は通じるのです。
では、Chinaにおいて、いつ頃から文法が成立するようになったのかというと、「20世紀のはじめに魯迅が出てから」です。
魯迅は作品に、もともとのChinaの口語にない語法を多用しています。
魯迅はもともと日本で学んだ人であり、彼は母国のChineseの思考が理知的でないのは、言葉に語順(文法)がないことが原因だと考え、意図的に英語の文法を取り入れてChina語での小説を書き上げたのです。(『魯迅における欧化の文法、的・地の使い分けを手がかりに』(胡蓉著))
そしてこの魯迅がもとになり、現代China語の文法ができあがりました。
法律などは、しっかりとした文法がなければ、言葉の意味など、いくらでもすり替えられてしまうのですから、Chinaを近代化するにあたっては、どうしても文法が必要となったのです。
けれど、あまりにもその歴史は短い。
ですから現代China語で「你是死刑」と書けば「君は死刑だ」という意味になるはずなのですが、もともとの中国語には文法がない、もしくはあってもいい加減なものでしかありませんから、これは「あなたにとっての死刑です」という意味にも解せるのです。
そうなると、悪いことをして死刑を宣告されたはずのAさんですが、Aさんの側からみると、「誰かが俺の代わりに死刑になってくれる」という、まことにありがたい(都合の良い)死刑宣告になってしまいます。
それが現代中国語であり、また彼らのアイデンティティでもあるわけです。
これはあるいみおそろしいことです。
日本語は、もともと「やまとことば」を元にしています。
「やまとことば」は、一音一音に意味があり、たとえば「き、み」は、「き」が男、「み」は女性を意味します。
その女性は、水にもたとえられます。
ですから、「う」は、宇宙の「う」で、広大を意味しますが、その「う」と「み」が合わさると「うみ(海)」になります。
また、「い」は動きを表し、「す」は澄んでいるさまですから、「いすみ」で「泉」になります。
ですから「みず」でできた「うみ」で、「湖」です。
このように、日本語は、音の一音一音に意味があり、その音が組み合わさって、様々な単語を構成しています。
その音を書きあらわすために、日本にはもともと神代文字がありましたが、後年、漢字を輸入しました。
なぜ漢字を輸入したかといえば、漢字は複数の音を一字で表します。
ですから日本人的感覚からしますと、漢字は、文字というより絵として導入しています。
最近では顔文字が使われますが、同時にいまでもアニメなどでは、「強敵」と書いて「とも」とルビを振ったりしています。
つまり、絵と語感の両方で、複雑な心理を描こうとしています。
このことは、漢字が渡来したころも、いまも同じです。
そして日本は、漢字を絵文字として輸入するだけでなく、その漢字に「訓読み」を振りました。
訓読みは、やまとことばです。
ですから、漢字圏においては「民」は、目を潰されて無理やり言うことを聞かされている奴隷民を意味しますが、日本では訓読みでこれを「たみ」と読みます。
「たみ」は、田んぼではたらくみんな、つまり仲間たちという語感がそこにあります。
そして漢字やカナを組み合わせることで、日本人は、複雑な心理や事象をイメージとして捉えやすいようにしました。
さらに、指揮が曖昧にならないように、書き言葉としての文法も、古くから確立しています。
こうした文法に関する造詣が、古くから出来上がっていたから、英語が輸入された際にも、文法を分析し、文法そのものを英語の授業に採り入れました。
そしてそのことを日本で学んだ魯迅が、China語に文法をはじめてもらたしたわけです。
日本は、漢字文化圏ではありません。
日本は、日本語文化であり、カタカナ文字にも代表されるように、多様な言語を採り入れて語彙を増やしてきただけのことです。
どこぞの国が、「ウリたちが日本に漢字を教えてやった」と自慢しているそうですが、彼らは漢字を漢語としました。
けれど日本人は、あくまでも日本文化の基礎の上に漢字を「採り入れ」ました。
文化の基礎基盤がまるで違うのです。
つまり、戦後の歴史認識やChina語認識は、まるでチグハグなのです。
中国に進出し、中国語で契約を結ぼうとしている日本企業さん。
彼らの国の言語は、「你是死刑(君は死刑だ)」が、「あなたにとっての死刑です」という意味に置き換わる不思議な言語なのです。
ゆめゆめ、中国語で契約書を交わすような愚は犯さぬように。
現代中国語では「いたします」と書かれていたはずが、解釈しだいで「いたしません」に都合よく変わってしまう。
それが中国語だということを、ご理解していたきたいと思います。


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