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■ねずさんとふたりごと
第1話 日本人としての誇りを持とう! 【CGS ねずさん】

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先日、自治会のゴミ拾いがあり、参加してきました。
50人位が参加し、ひとりひとりが40リットルのゴミ袋を手にして、ほんのわずかな距離を道路脇のゴミを拾って歩きました。時間は、わずか40分程度です。
驚きました。
全員の手にしたゴミ袋が、満杯になってしまいました。
なんと、去年の倍の量です。
たった一年で、ここまでひどくなった。そのことにみんなが驚きました。
道路脇のゴミは、ちょっと見にはわかりません。
けれど、その気になって歩くと、ジュースやコーヒーの空き缶にペットボトル、コンビニのお弁当の容器、箸、ストロー、タバコの空き箱などなど、どうやら車の中や歩行中に、相当数の人が平気で「ポイ捨て」をやっている。
もともと、多少はあったことだけれど、急激な増加には呆れました。
昔は、土地と人は同じ神様から生れた兄弟なのだと教わったものです。
日本の国土を産んだのも、日本の神々を産んだのも、日本の人々を産んだのも、同じ神様です。
ですから、土地と人は兄弟なのだ。それが日本の常識でした。
いまほど住宅街も発達していず、道路脇は、どこも田んぼや畑や空き地ばかりでしたが、そんな道路脇では、「草取り」をすることはあっても、「ゴミ拾い」はなかったように思います。
路肩にゴミを捨てるなんて、そもそも誰も思いつかないし、考えもつかなかったし、そもそも捨てるものがありませんでした。
昔のことですから、ペットボトルなんてありません。
飲料は水筒ですから、そもそも持ち帰るものであってゴミにならない。
お弁当は弁当箱に入れて風呂敷で包んで持っていったし、食べ終わった弁当箱も風呂敷も、明日また使うものだから、大切にたたんで持ち帰りました。
ボクは粗雑な男なのでしませんでしたが、家柄の良い子や女の子たちなどは、食後に綺麗にお弁当箱やお箸を洗って持ち帰っていて、偉いなあと感心していたものです。
遠足などでは、お菓子を持参しますけれど、そのお菓子の包み紙などの紙ゴミは、ちゃんと持ち帰るのがあたりまえでした。
お父さんのタバコの箱は、丁寧にたたんでとっておき、土瓶敷や鶴の置物にしました。
醤油やお酒や酢は、一升瓶で売られていましたが、ビールの空き瓶同様、瓶(ビン)は、酒屋さんが買ってくれるので、絶対に大事にとっておいていました。
考えてみると、あらゆるものを再生できるように使い、あらゆるものを再生しながら、ひとつのものを長く使う。それがかつての日本ではあたりまえだったように思います。
だからこそ、安ければ良いという粗製濫造品ではなく、しっかりとした良い物を作ろうとしたし、消費者もそういう洗濯をしました。
なるほど一部の学者さんや評論家さんによれば、経済は個人消費だから、良い物を安く提供すれば、流通業の売上があがり、経済は活性化するのだそうです。
けれどもそのために、生産拠点がChinaやKoreaに移転し、国内製造業が打撃を受けることになっては、いったいなんのための流通なのかわかりません。
流通量と販売額があがっても、その分製造業が凋落したら、賃金が下がり、消費者の消費力が下がり、国内のGDPは成長どころか低落してしまうのです。
そしてその一方で、日本人から道徳心が失われ、モノを大切しなくなり、なんでもかんでも捨てれば良いとなる。あげく、道路脇に平気でゴミをポイ捨てする。
いったい戦後政治は、日本をどのような国にしたいのでしょうか。
国際化とかグローバリズムというものが、日本人の徳性を下げ、日本が国中にゴミが撒き散らされた汚い国になり、人殺しや放火が相次ぎ、ごく一部の者だけが年収数百億の超大金持ちとなり、一般庶民がただ収奪されるだけの愚民になりさがることなら、私は、国際化にもグローバリズムにも、NOを叩きつけたいと思います。
いささか個人的な話になりますが、私はものごとを判断するとき、
「この状態が100年続いたら」
「この人が100人いたら」
と考えるようにしています。
これは私がサラリーマン時代に、尊敬する大先輩から教えていただいた考え方なのですが、たとえば会社などにおいて、この人が100人いたらと考えます。
たとえば優秀な営業マンであっても素行に問題があるような人物が100人いたら、会社の品格はさがり、ひいては会社が市場の信用をなくし、100年後には会社はなくなる。
あるいは戦後、とくに平成以降の日本の政治や日教組教育があと100年続いたら、おそらく日本は礼儀も道徳もない、どこか斜め上にある国とよく似たふしだらな国になることでしょう。
スポーツの試合では、審判に積み上げた買収の額によって試合結果が決まる国になるかもしれない。
そして世界中の人々は、結局は黄色い猿は、猿でしかなかったのだと、東洋の人々を頭から軽蔑し、完全に排除を目論むことになることでしょう。
それがグルーバリズムの求める日本の理想的未来像だというなら、そんな未来は私は拒否します。
先日、私の友人が、シラス、ウシハクの違いを、アニメのワンピースと北斗の拳の世界観の違いだと喝破してくださいました。
ワンピースの仲間たちが、互いに対等な仲間たちとして、みんながひとつになって生きていくシラス姿。
北斗の拳のケンシロウが倒していく雑魚キャラたちのウシハク姿。
日本が理想としているもの、そして世界の民衆がほんとうに求めているのは、シラス社会なのではないでしょうか。
そしてその社会は、できるだけゴミを出さず、ゴミを路肩に安易に捨てるような不道徳は、「誰も見ていなくても、お天道さまがみている」と、誰もそんなことをしようとしない、衛生的な社会であろうと思います。
イデオロギー政治では、結果として対立が煽られるばかりで、自分さえ良ければあとは知らないというおかしなドグマに陥ってしまうことは、戦後の政治ではっきりしています。
わたしたちがもとめているのは、そんな高尚な「なんとか主義」ではありません。
もっとずっと身近な、安全、安心、清潔、豊か、美しくて住み良い国です。
道端を汚す国に住みたいのか、汚さないきれいな国でいたいのか。
選択はいたって単純なものです。
政治は過去から次世代へ。
わたしたちは、いま、かわるときにきています。

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