田母神氏の論文問題、中山元国土交通大臣の発言問題等、最近「言論の自由」に関する議論が高まっているような気がします。
言論の自由は自由権の一種です。
検閲を受けることなく自身の思想・良心を表明する自由を指します。
誰もが自分の意見を堂々と開陳できる機会を得ることができる権利です。
日本国憲法だけでなく、国際人権法でも保護されており、世界人権宣言第19条、国際人権規約B規約にも規定されています。
ただ、実際には、多くの国で保障されるには至っていません。
日本では、古くは聖徳太子の十七カ条の憲法に、
十に曰く、こころのいかりを絶ちて、おもてのいかを棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。
と説かれ、これが言論の自由の根幹となっています。
そして、明治元年1月の五箇条のご誓文に、
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス
一 旧来ノ陋習を破リ天地ノ公道ニ基クベシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ
と誓約されましたが、これ読んでみると全部、言論の自由を指している。
この精神を受けた大日本帝国憲法でも、第29条で
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
と言論の自由が規定され、さらに現憲法においても、第21条で、
1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
と規定されています。
日本には言論の自由がある。このことはわたしたち日本人にとって、おおいに誇るべきことだと思うのです。
同時に、言論の自由は生存権を前提としているものでもあります。
なぜなら死人に口はないからです。
生命の維持が危害にさらされている場合、言論の自由もまた危害にさらされる。
だから私たちは、私たちが生存することも、憲法で保障されている。
さらに、言論の自由は、法の下の平等を前提としています。
国民という集団を、
「言論を述べることができるグループ」と
「言論を述べることができないグループ」とに分けたら、
当然後者にとって言論の自由を行使する機会が大きく阻害されるからです。
そして権力に対する言論の自由は、権力を監視する意味合いもあります。
これがあるから、日本では古来、権力者といえどもルールを厳守することが求められた。
日本は「法治国家」、これに対しアジアの某大国は「人治国家」であるといわれています。言論の自由があるから、権力者側も一般庶民も、互いに論理的に正しい言動が求められ(これがなければ誰もついてかない)、それが遵法精神となり、法のもとに平等となり、民本主義ともいえる「官は民のためにある」という哲学が日本人の共有概念となったといえると思います。
そうした中で、中山元国土交通大臣の発言をふりかえると、彼が行った大臣就任後のインタビューでの「日教組は問題」という発言は、国土交通相という職責とはなんの関係もない発言であり、他省のことに口を出すのは就任挨拶にはふさわしくない。だから彼は大臣を辞任したし、責任をとって議員も辞職した。言っていることは、ボクは正論と思いますし、言論の自由からして、彼の発言は政治家としての彼のポリシーを語ったものとしておおいに評価できるものと思いますが、「国土交通大臣として」は、領分を越えた発言であり、これはたしかに問題発言といえたかと思います。(発言内容には個人として全面的に賛同です)。
これに対し、田母神氏の論文ならびにその後の処分に関しては、政府や野党、マスコミの反応は、常軌を逸していると思います。これは言論の自由への挑戦以外のなにものでもない。
どういうことかというと、田母神氏は、個人の資格でアバの懸賞論文に応募したのであり、論文にも個人の氏名は書いてあるが、職業・役職名は一切書いてない。
自衛官や政府高官といえども、個人としての言論の自由は憲法で保障されているのであり、彼が個人としていかなる信条を持とうが、これを論として発表しようが、自由である。これが日本国民の大原則です。
もし彼が、たとえば文芸春秋などの雑誌等に、航空自衛隊幕僚長田母神俊雄として論文を寄稿したなら、これは職能の上に立った公式発言であり、その内容に関する賛否は大いに議論されてしかるべきと思います。
しかし、個人として行った行為についてまで、これを規制することは、まさに、マスコミや政治家による「言論統制」以外のなにものでもない。
そして彼の自由な発言を「規制」するということは、言論の自由を否定し、言論の自由の否定は、国民の生存権の否定にもつながる。
事実彼は「更迭」され、退官を要求され、いままさに退職金まで奪われようとしている。これは自衛隊員としての生存そのものを否定されていることであり、職業上の生命を現に奪われている。これが発展すれば、日本の歴史認識について個人が語ることは、そのまま生命財産を失うことを認めるということにもなり、古来、庶民の言論の自由を認め続けた日本という国の「最も素晴らしい部分」を否定し、失わせることになる。
そんな大げさな・・・と思う人もいるかもしれないけれど、発言の自由を失うのは、そういうことなのです。
生きているから、発言できる。死んだら発言できない。
発言をして良い人と、発言をしてはならない人を作ることは、発言をしてはならない人がもし発言したら、その生存すら奪われるのが当然という社会を作ることになる。ボクはそう思います。
そもそも歴史認識なんていうものは、観る立場によって180度違うのがあたりまえです。
織田信長とえいば、多くの日本人が大好きな歴史上の人物ですが、彼が行った比叡山の焼き打ちや、本願寺攻めの残虐行為を高く評価したら、彼は日本史上もっとも残虐な帝王だったということになる。しかし、彼の出現が、戦乱に明け暮れる戦国期を終結させ、平和な日本を作る石杖となったのも事実です。
どこをどう評価するか。
歴史は良い・悪いで片付けるものでなく、人々や自分自身の未来のために「学ぶ」ものです。そしてそのために不可欠の要素が、「言論の自由」にある、とボクは思っています。
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中国に言論の自由なし

第二次大戦 名言集Ⅷ(開戦編)
これ、すごくおもしろいです^^b

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