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4年前のことです。
映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(スペース・バトルシップ ヤマト)が公開されました。
宇宙戦艦ヤマトのシリーズは大好きで、初の実写版ヤマトということで、当時、上映前から期待に胸を膨らませ、映画も拝見させていただいたのですが、それなりに迫力のある良い映画だとは思ったのですが、どうにも腑に落ちない。ヤマトは良いのですが、なにか納得できないものを感じていました。そのまま4年がすぎました。
先日、たまたま昭和53年に公開されたアニメ版映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』のラストのシーンがYoutubeの動画サイトにあるのを見つけました。
思わずクリックしてしまい、それを見たときに、4年前、何が納得出来なかったのかがストンと理解できました。
どういうことかというと、アニメ版のヤマトでは、主人公の古代君も森ユキも真面目なのです。
ひたむきと言った方がいいかもしれない。
彼らは決して、個人として、強いわけでもない。
すぐれた才能を持った人物ではあろうけれど、人並みはずれた超人的才能があるというわけでもない。
ただ、ひたむきで、真面目です。
ところが実写版のヤマトでは、主人公がキムタク君で、ユキが美人の黒木メイサさんです。
豪華キャストの映画です。
主人公も、その相方もかっこよいだけでなく、いわば超人的才能を持っています。
そしてちょっと不良として描かれていました。
ここが、腑に落ちない点でした。
筋肉隆々のムキムキのスーパーヒーローが大活躍をして悪人たちをバッタバッタとやっつけるというのは、アメリカンヒーローものの思考です。
けれど、日本人は体躯もそんなに良いわけではないし、もちろん体を鍛えて素晴らしい筋肉を身につけている方も大勢いるけれど、そうはいっても、胸の厚さが違います。骨格が違うのです。
だからこそ日本人は、集団が一体となって戦います。仕事でも、戦争でも、です。
戦場でも仕事でも、戦いの場において役に立つ人、最後まで本当に勇敢に戦える人というのは、わがままな不良ではありません。不器用であっても、どこまでも真面目で、ひたむきで、責任感の強い人です。
不良は、自分中心ですから、いざという、恐怖のときになると、さっさと逃げ出します。
真面目で責任感が強いから、逃げずに最後まで戦うのです。
不良でもスーパーヒーローならば勇敢に戦えるというのは、日本人の感覚にはないし、非現実的なのです。
責任があるから自分の心や技を鍛え、最後までその責任を果たすし、みんながそういう姿勢だからこそ、かつての日本は、軍でもビジネスでも強かったのです。
大昔の槍や刀を手にした戦いなら、個人の技量や体力、蛮勇がモノを言ったかもしれません。
けれど、銃が登場してからは、どんなに丈夫な肉体を持っていても、銃弾一発で死に至るわけです。
そういう戦いで、苦しい戦場にあっても最後まで戦い抜く勇気は、個人の蛮勇には由来しません。
どこまでも責任感なのです。
先の大戦の末期、北満州にソ連がいきなり軍事侵攻してきました。
そのとき、北満州にあった日本陸軍の基地では、ろくに武器もない状態にありながら、ソ連の進撃を食い止め、その間にひとりでも多くの日本人居留民を逃がそうと、日本人の兵隊さん全員で、前線へと向かいました。
銃は三人に一丁の支給です。
弾薬も数が少ない。
重砲も、数も弾もわずかしかありません。
そんななさけない装備で、ソ連の重戦車隊に立ち向かいました。
ソ連の戦車は銃弾を跳ね返します。小銃では歯が立たない。
重砲さえもソ連軍の戦車の前には役に立ちません。
しかも銃砲は、ソ連軍の戦車からみれば、停まった標的でしかありません。
そんな情況で、どう戦ったのかといえば、なんと当時の北満州には、農地の開墾のための発破工事用のダイナマイトだけはふんだんにあったのです。
そこで、このダイナマイトを雑囊袋に詰め、導火線を少しだけ袋から出して、マッチ棒を三本、胸に貼付けました。
そのダイナマイトを抱いて、敵戦車の下に潜り込み、そこで自分の体ごとダイナマイトを爆発させたのです。
戦車の周りには、敵の歩兵がいます。
近づくだけでも、たいへんなことです。蜂の巣にされます。
敵弾がダイナマイトに当たれば、その瞬間に肉体は四散します。
それでも、敵戦車に立ち向かいました。
勇敢に敵戦車の下に潜り込みました。そして敵戦車を破壊しました。
敵弾に体を貫かれながら、血まみれになって敵戦車に飛び込む。炸裂音が響く。
同僚の生首が宙を舞う。高く舞い上がって地面に落ちる。
まるでスローモーションを見ているかのようだったそうです。
宙に舞ったその首は、そのとき何を見ていたのでしょう。
そんな戦いを日本人兵がしているとき、兵舎には当時徴兵されたばかりの朝鮮人兵と、朝鮮人軍属が残っていました。
彼らは、日本人兵が戦地に赴くにあたり、兵舎をしっかり守ること、日本人居留民の安全な避難を確保することという任務が与えられて、兵舎に残っていたのです。
前線に彼らを連れて行かなかったのには理由があります。
朝鮮人でも将校クラスの人は、立派な人たちで、責任感も強く、最後まで戦う勇気を持った人たちであったのですが、その下の兵たちは、戦地では使い物にならなかったのです。
日頃は日本人よりもはるかに威勢も良い。元気も良い。
体格も平均して、小柄な日本兵よりもはるかに大柄で力もある。
ですから日頃は、ひ弱な日本兵を脅して暴力を振るったりする事件も起きています。
ところが、そんなに度胸があって威勢のよい朝鮮兵たちは、いざ戦場に出て、敵弾が飛んで来ると、途端に「アイゴー」と叫びながら、銃を捨てて逃げてしまうのです。
戦闘の最中にこれをやられたら、全軍が総崩れになります。
ですから戦地へは連れていけなかったのです。
ソ連軍がやってきたとき、ですから彼らには銃後の護りを命じました。
「苦しい戦いには責任感の強い日本人が行く。その代わり敵弾の飛んで来ないうちに、君たちは兵舎をまとめ、日本人居留民を安全に避難させなさい」と命じたのです。
もちろん朝鮮人であっても、将校クラスの人は、その責任をまっとうしようとしました。
多くの朝鮮人兵や、朝鮮人軍属も、その覚悟を固めました。立派な人たちもいたのです。
けれど不良がいるのです。
その不良朝鮮人は、なんと「このままでは自分が逃げれないから」と、自分たちのリーダーである朝鮮人の将校を殺し、兵舎に火を付けて、日本人居留民さえもほったらかして、自分たちから先に逃げてしまったのです。
その様子を、当時、多くの日本人の婦女子が見ています。
そして逃げた朝鮮人たちは、自分たちが食うためにと、徒党を組んで避難民となった日本人の婦女子を集団で襲い、暴行し、強姦し、着衣から手荷物に至る一切合切を奪っています。
そのために、日本人の婦女子たちが長安や奉天の町に着いたときには、裸同然の身の回り品さえも持たずに、ただ、ムシロで恥部を被っただけの、悲惨な姿になっていたのです。
要するにいくら蛮勇があっても、度胸があっても、体つきが立派であっても、自己中で責任感のない者には、戦いなどできない。できないどころか、戦いの最中に弊害しかもたらさないのです。
ところが実写版のヤマトの映画に描かれた主人公の古代君は、まさにそんな不良でした。
ところがその不良は腕が立ち、いざという戦いの場で大活躍をするという設定でした。
それは、不良朝鮮人にとっては、憧れであり言い訳になるかもしれないけれど、実はあまりにも現実離れした妄想でしかありません。
それだけでなく、本来真面目でなければならない日本人の心を惑わす、実はとんでもない設定でさえあったのです。
実写版では、宇宙戦艦ヤマトの艦艇の描き方にも、同様の異常さがありました。
なるほど、昭和53年(1978)のアニメのヤマトと比べれば、はるかにリアルな映像で「かっこいいヤマト」が描かれていました。
けれど、それさえも、描き方が違うのです。
なるほど、アニメの宇宙戦艦ヤマトが登場したばかりの頃のヤマトは、地球上では最先端の宇宙戦艦でした。
けれど、いざ宇宙に出てみれば、敵艦隊と比べれば、はるかにローテクな旧式艦だったし、それが『さらば宇宙戦艦ヤマト』の時代になると、地球防衛軍のなかにあってさえ、旧式のボロ船であり、廃船が決まったほどだったのです。
そのヤマトが、艦を愛する対等な仲間たちの誇りと団結と、ひとりひとりの責任感で、満身創痍になりながらも、最後まであきらめずに戦う。そして死んでいく。
ひとりのスーパーヒーローの活躍ではなくて、全員の団結と共同で最先端装備の敵艦隊と戦い、これを打ち破る。
そこに、たとえボロ船であっても、誇りと責任で戦う勇気があり、感動があったのです。
ハリウッド映画に『バトルシップ』という映画がありましたが、その映画では、ラストで旧式戦艦のアリゾナ(だったかな?)が、それこそ旧式の大砲で、科学の最先端の敵を粉砕するというシーンが描かれ、まさに全世界がそこに拍手喝采を送りました。
装備が旧式でも、自分たちが非力な存在でしかなく、敵がどんなに強くても、それでも仲間たちと共同し、それぞれの能力を最大限に発揮しあいながら、勇敢に敵と最後まであきらめずに戦い、敵を粉砕する、そういう設定でした。
だからこそ、そこに感動があり、全世界で大ヒットとなる素晴らしい映画の誕生となったのだろうと思います。
ちなみにこの映画『バトルシップ』では、構想の段階から、日本的な思想がかなり活かされたと聞きます。
ところが残念なことに、日本映画の実写版『宇宙戦艦ヤマト』では、スーパーヒーローの不良が強力な戦艦を駆使して敵を粉砕するという設定です。
そんなものは、悪いけれど、誰も評価などしないし、だからこそ、日本初のすごいSFXものの期待された映画でありながら、日本国内では、もういい加減、いい歳の大人になったヤマト・ファンと、キムタクさんや黒木メイサさんといった豪華キャスト人気によって、それなりの配給成績になったかもしれないけれど、世界ではまるで評価されない映画になってしまったのであろうと思います。
最近の映画やドラマに共通していえることなのですが、古い映画作品のリニューアル作品にしても、もともとあった日本的な情感を無視して、なにやら、ただかっこよさや、真面目さを無視して不良じみた、まるで朝鮮式理想像のようなものへの「すり替え」を行った作品が目立つようです。
真面目で謙虚で責任感の強い、日本的な素晴らしさを否定し、絶対に通用しない現実離れしたおかしな価値観を日本人に植え付ける。そんな目的を持った作品なのかと、目を覆いたくなります。
かつてアニメのヤマトがヒットしたのは、ヤマトがかっこいいからでも、古代君がかっこいいからでもありません。
昨今のワンピースやドラゴンボールやプリキュアなどの世界でヒットしている日本アニメにも共通することですが、ひとり一人はそれなりに優れたものを持つけれど、敵と比べればはるかに非力な対等な仲間たちが、互いの持ち味を活かしながら、粗末な武器しかなくても、共同し協力しあって真面目に最後まで勇敢に戦い、責任をまっとうし、強大なウシハク敵、上下と支配の世界の住人が、人々を支配下に置こうとする不条理に対抗して、人間としての尊厳と自由を守るところに、賞賛があり、美意識があるのです。
そういうことがわからないで、ただ強ければ良いとばかりに、ありえないようなかっこいスーパーヒーローを登場させ、特殊な武器を持たせて敵をバッタバッタとなぎ倒すというのは、日本式ではありません。
そして、その方向に進んだ映像は、一時的には視聴率や興行成績をとったとしても、必ずあっという間に廃れてしまう。
かつての『子連れ狼』がそうでした。
マンガの『子連れ狼』は、なるほど敵をバッタバッタとなぎ倒すスーパーマンが主人公でしたが、その行動には、やむを得ない動機と、どこまでも自己を律しようとする道に準ずるひたむきさと真面目さがありました。
そしてその真面目さこそが、マンガ版『子連れ狼』のヒットの理由でした。
ところが映画化され、ドラマ化された『子連れ狼』は、何をトチ狂ったか、いたずらに敵をなぎ倒し、ただ強いだけのお侍さんの映像になっていました。そして加えて、大量の赤い血が流れる残酷映画になっていました。
結果、視聴者の意識は離れて行きました。
ドラマ『水戸黄門』も、かつての東野英治郎や西村晃黄門様の時代には、どこまでも正しい黄門様の仲間たちの映像であり、乱闘シーンも敵を殺さない設定のものであったのに、里見浩太朗のシリーズ頃になると、情報をとるために平気で黄門様のご一行が、弱い庶民を騙すし、乱闘シーンは、まさに派手な殺しあいになりました。
結果、視聴率はゴールデンタイムの黄門様より、午後4時からの古い黄門様の再放送の方が視聴率が高いという、おかしな情況になり、それを反省して局が番組をてこ入れするかと思いきや、視聴率が出ないからと、番組そのものを打ち切ってしまいました。
ここは、日本です。
日本的なものを理解しないのであれば、日本でヒットするなど、まず不可能なことです。
そして、一時的には莫大な費用を投じた宣伝効果などで、盛大なヒットを演出できるかもしれませんが、そういうものは、必ず時間の経過とともに、底の浅さが見破られ、衰退していく。
日本人はバカではないのです。

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