耳で聴く『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!』オーディオブック版こちら
ねず本の第三巻「日本はなぜ戦ったのか」 8月24日新発売!
ねず本第三巻の「立ち読み版」ができました。
ねず本第三巻120ご注文はコチラhttp://goo.gl/A59KwU
新刊ラジオに、ねず本第三巻の紹介が掲載されました。耳で聴く新刊紹介です。私も出演しています。よろしければご試聴下さい。http://goo.gl/0s543r
第三巻の紹介文はコチラにあります。→http://goo.gl/6ng7KF
つくる会主催の日本史検定講座第五期生を募集中です。みなさまのご参加をお待ちします。
人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

国会議事堂1016014

平成以降、改革改革と連呼しながら、それらの改革のほとんどはまったく機能しなかったどころか、かえって日本を弱化させ、経済も外交も、結果から見れば改悪としか言いようのない結果になっているといわれています。
ところが企業などでは、社内改革に際して、制度の改革(カタチの改革)をいくらしても、ヒトの改革(意識の改革、人事改造)が伴わなければ、改革など一切機能しないと誰でも知っています。
はやい話、人々の心が上は政治家、官僚から下は一般庶民に至るまで、みんなが個人主義に陥りわがまま勝手に自分の都合しかいわず、しかも個人の利得が最優先されるという社会であれば、権力者はおのれの利益が最優先になります。自分だけが儲かれば良いのです。あとは野となれ山となれです。
会社の幹部が、社員や顧客のことなどそっちのけで、私腹を肥やすことだけに陥ったら、その会社は潰れます。
しかもそのための改革をしたなら、その会社は間違いなく潰れます。
けれど、そんなことを、なんと日本は社会としてやってきたわけです。
日本人の多くは、いまだにお上を信頼するという気持ちが残っています。
それは、江戸の昔から近代に至るまで、お上が無私の存在であり、自己に厳しく、どこまでも「おおみたから」である民衆のために働くものであるという明確な社会制度と、そのためのマインドが完全に日本社会に定着していたからです。
ときに私腹を肥やすバカな人物が、間違って政治権力を持ったり、あるいは華美な贅沢をしたりすることがあっても、そのような者は、なんらかのカタチで必ず一刀のもとに斬殺される。そういう人がいる。
そんな緊張関係が、社会の上層部にきちんと機能していたわけです。
ところが戦後、「しょうゆ組」といわれる卑劣な連中が社会の中心に据わるようになり、類は友を呼ぶで、その「しょうゆ組」の卑劣さを、そのまま継承したエゴイストな連中が、政治や行政、法務の中心に座るようになりました。
いくら社会制度の改革をしても、よくならないのはあたりまです。
「しょうゆ組(醤油組)」については、今年8月15日の産経新聞に、「8・15に思う。歴史戦必勝を英霊の前に誓う」という都留文科大学教授の新保祐司先生の投稿が掲載されたのですが、そこで、あらためて紹介されたことで、多くのご年配の方々が、あらためて思い出した言葉でもあります。
以下にその記事の一部を引用してみます。
原文はURLを付しておきますので、そちらをお読みいただければと思います。


=========
8・15に思う。歴史戦必勝を英霊の前に誓う
都留文科大学教授 新保祐司
http://www.sankei.com/column/news/140815/clm1408150001-n1.html
5月30日に月刊誌、中央公論元編集長の粕谷一希氏が84歳で亡くなった。
氏は名編集者として知られているが、また、評論家として戦後日本に対する明晰(めいせき)な批評を遺(のこ)した人でもあった。
戦前からの良質な教養を受け継いだ真の知性であったといえるであろう。
 ≪「醤油組」糾弾した粕谷氏≫
氏の著作のうち主要なものを3巻にまとめた『粕谷一希随想集』が今、刊行されている。
その編集に協力者として参加した私は、氏の評論のほとんどを改めて読み直してみて、戦後日本の諸問題に対する鋭利な指摘から得るものが多かった。
その中でも特に深く心に突き刺さったのは、「醤油(しょうゆ)組の天下」という寸鉄人を刺す鋭さを持った言葉であった。
この寸鉄は、確かに「戦後」という時代にとどめを刺す力はある。
昭和53年の「鶴見俊輔氏への手紙」の中に、「私たち多少下の世代から眺めていますと、戦後の論理には、“醤油を飲んで徴兵を逃れた”、いってみれば醤油組の天下といった風潮がありました。
『きけわだつみの声』の編集方針も、意識的に反戦学生の声だけが集められました。
愚劣な戦争に駆り出されて、無駄な死を強制された。だから、二度とこうした戦争を起させてはならない。もう『僕らは御免だ』、ドイツの戦没学生の手記も訳されて、戦後の反戦感情・反戦運動は盛り上げられてゆきました。
それは半面では正当に思われました。
けれども微妙なところで、何かエゴイズムの正当化といった作為的な思考のスリカエがあるように思われて、当時から私にはなじめなかったことを記憶しています」と書かれている。
「醤油組」とそれに従った人々によって「戦後の論理」は支配されたのであり、「醤油組」の倫理的問題は、実は心の奥底の単に戦争に行きたくないという「エゴイズム」を「反戦」とか、「平和主義」とかの美辞麗句で「正当化」したことである。
行きたくないということを直接的に表明するだけであれば、その人間は卑怯(ひきょう)者のエゴイストと指弾されるわけだが、「反国家主義」とか「戦後民主主義」とかを装うことによる「微妙」な「スリカエ」が行われて、さも「正義」の人であるかのように振る舞うという悲喜劇が蔓延(まんえん)したのが、戦後の生ぬるきヒューマニズムの見苦しい風景であった。
=========
徴兵を受けて戦場に行くというのは、平時の感覚で言ったら辛いことです。
徴兵されて兵隊になれば、厳しい教練は受けなければならないし、戦地に行けばそこには敵の銃弾が飛んで来るし、敵の爆弾も炸裂するわけです。
厳しい教練をやっとのことで卒業しても、戦地に向かう輸送艦ごと、海に沈められてしまうことだってあります。
誰だって死にたくないし、まして自分の仕事を放り出して任務に就くわけです。
遺された家族のことだって気になる。
なんとか戦地から生きて帰って来れたとしても、そのときには、手足が無くなっているかもしれない。
実際、昭和50年代くらいまで、銭湯に行くと、そうして手や足のない人が、風呂屋さんにはいっぱいいたりもしたものです。
けれど、国を護るために、そうやってみんなが戦ったのです。
しかも敵は、常に日本側の10倍以上の兵力や火力を備えています。
日本は、総力をあげて戦わなければならなかったし、自分だけ無傷で帰れる保証などあるわけありません。
そして(ここが一番大事なところですが)、日本は、昨今勝ち組と称しているような限られた一部の人の利益のためだけにみんなが働かされるという収奪国家ではなく、天皇を中心としてすべての民衆が「おおみたから」として、本当の意味での秩序ある自由が保たれた世界最古の道義国家だったわけです。
それを守るために、みんなが戦った。
だからほとんどのお宅では、父も母も本人も、覚悟して出征に応じたのです。
それは辛いことです。
けれどその辛さも、自分ひとりではない。みんなが共有しあっている。
そういう中で、徴兵が行われ、戦地へと多くの若者たちが出発して行ったのです。
そのような環境下において、自分だけが徴兵から逃れようと、醤油を飲んで体調不良を演じ、徴兵検査を誤摩化して自分だけ助かろうとする。見下げ果てた卑怯者の行為です。
けれど、終戦後、そうして生残った卑怯者たちが、実は戦後の似非民主主義者であり、似非平和主義者、似非反戦主義者となっていったわけです。
そしてその実態は、なんのことはない、卑怯卑劣なエゴイストたちだったわけです。
もともとがエゴイストであり、自分さえよければいいという卑劣な連中です。
卑劣者は、やはり卑劣な人たちと仲間になる。
そうして仲間になったのが、やはり卑劣な在日不逞朝鮮人であり、ChinaやSouth Korea、North Koreaのスパイたちであったわけです。
いま、日本の物流は、トラック輸送が中心です。
けれど、これは普通に考えたらおかしなことです。
日本人のように時間に正確であることを望む民族の人たちにとって、正確かつ効率的な物流を考えたら、交通事故や渋滞の危険の伴うトラック輸送より、鉄道貨物での輸送の方が効率的に決まっています。
にもかかわらず、いまでは貨物駅さえもなくなり、貨物列車もいつの間にか消えてなくなってしまっています。
なぜでしょうか。
昭和40年代から50年代、朝晩の鉄道ラッシュは凄まじいものでした。
いまでこそ、フレックスタイムが導入されたり、電車の増発が実現されて、ようやく一定のラッシュの緩和がされるようになりましたが、ひとむかし前は、朝の鉄道ラッシュの時間帯には、電車の各車両のドアのところに、アルバイトの若者が立ち、すし詰め状態の電車に乗り込む人たちの胸やおしりを電車に押し込んでいました。
女性などあわれなもので、背中から電車に乗り込めば乳を押されるし(腹を押されたら痛いです)、前向きに乗り込めば尻をギューギュー押されたものです。ひどい話です。
どうしてそんな情況に至ったかといえば、鉄道各社が左翼に汚染され、年中ストライキばかりやっていたからです。
ストが起きれば、物流が停止してしまいます。
ならば、日頃から多少のリスクがあっても、トラック輸送に切り替える。
鉄道会社がラッシュの緩和のために、鉄道を増発しようとすると、過剰労働を強いているとわけのわからない身勝手なへ理屈をつけてストライキを起こす。
結果、鉄道車両の増発もできず、人々は、苦しい目に遭い続けたのです。
卑劣な連中が、卑劣を正義にしてしまうから、こういうことが起きます。
日本は、いま、バブル崩壊後の底知れない不況のなかにあります。
ところが不思議なことに、日本の歴史上では考えられないような高給取りや、高額資産家が生まれているのも、その不況下にある日本です。
某、サラ金の社長は、個人年収が200億円です。
某、宗教団体のトップは、個人年収が3兆円を超えるとも伝えられています。
某、食品メーカーは、ライバル会社の製品に店頭で毒を混入させ、ほとんど廃業にまで追いつめ、市場の独占を図りました。
そしてありえない格差社会が生まれています。
卑怯であっても卑劣であっても、儲けた者が勝ちというおかしな社会が、いまの日本です。
日本を正常化するためには、世の中にまず、根本的な道徳観を取り戻す必要があるのですが、これに真っ向から反対しているのが、反日左翼の人たちです。
彼らにいわせると、道徳教育をすると日本は軍事国家になるのだそうです。
いかにも「しょうゆ組」が言い出しそうなことです。
中山成彬先生が文部科学大臣になったとき、日教組の左傾化教育、性教育に名を借りた性器教育のあまりのいかがわしさに、道徳教育、ちゃんとした歴史教育を取り戻そうと、教育改革に着手されました。
そしてその具体的方針が固まり、これを次の文科大臣として引き継いで実現したのが、下村文科大臣(当時)です。
教育基本法が抜本改正され(これ自体すごいことです)、学習指導要綱が抜本改正されました。
ところが現場の教育も、教科書もいっこうにあらたまらない。
何が起きたのかというと、文科省の教科書採択の窓口担当官が、左巻きなのです。
教科書の採択云々の前に、教科書の記述にいろいろと干渉し、南京虐殺はあっただの、慰安婦やセックス奴隷を強要しただの、国語をバカにしたような程度の低い記述を事実上強要してきました。
つくる会の先生方など、なんどそれに泣かされたかわかりません。
つまり、教育基本法が改正され、学習指導要綱という制度が改正されても、その改正内容を、教科書採択の現場と教育の現場で、ヒトが事実上スポイルしてしまっていたのです。
平成にはいってからの26年間で、基本六法のうち、抜本的な法改正が実現したのは、商法を除けば、実は教育三法だけです。
法律を改正するということは、それほど難しいことです。
そしてそれを行えば、大臣といえども、クビが飛ぶこともあるたいへんなことなのです。
けれど、そこまで実現できても、ヒトが変わらなければ、運用するのはヒトなのです。
結果、おかしなことになる。
いまの日本は、教育、行政、メディア、法務など、社会のあらゆる分野において、公職追放を含めた抜本的な人事の改革が必要なときにきているといえるのではないでしょうか。


人気ブログランキング
 ↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓  ↓
ねずブロメルマガ

コメントは受け付けていません。