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つい3〜40年前まで米国では、「黒人には傷みを感じる神経がない」と本気で信じられていました。
米国が黒人に公民権を与えたのは、そもそも昭和39(1964)年のことです。
いまから、たったの50年前です。
それまでは黒人は、単なるモノでしかなかったのです。
日本では、米国の黒人差別は、米国第16代大統領のエブラハム・リンカーンが、1862年に「解放」した、と信じている人が多いようです。
違います。
リンカーンが「解放」したのは「奴隷制度」です。
彼は「人種差別」を撤廃したのではありません。
このことは「ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人」に詳しく書いていますので、詳細は省きますが、簡単に申し上げると、「奴隷制度撤廃」と「人種差別撤廃」では、意味がまるで異なります。
リンカーンの当時の米国経済は、南部諸州が経済の牽引役でした。
米国の北部にはまだ産業が育っていません。
デトロイトの自動車産業がはじまるのは、リンカーンよりもずっと後の時代のことです。
一方、南部11州は、綿花栽培で大儲けしていました。
米国の南部の農園で生産された綿花は、産業革命を果たして一足早く工業化に成功して世界の富豪国家となった英国にまるごと輸出されました。
英国はこの綿を生地に仕立て、高級紳士服などの工業生産品として世界中に輸出していました。
英国製の生地は、世界最高とされていたのです。
しかも当時の英国は世界の海を制した大国です。
つまり英国文化が世界を席巻していたわけで、英国風の仕立物は、世界中で歓迎され、高値で売買されていました。
つまり英国では、生地を作れば、作った分だけ売れたし、値段もバカ高い生地ですから、大儲けできたのです。
生地を作れば作るほど儲かるということは、その生地の原料となっている綿花も「作れば作るほど」儲かりました。
ですから米国南部では、そのために広大な地所で綿花栽培をしていました。
なにしろ土地はくさるほどあるのです。
その土地に綿花を植え、「農奴」として「黒人奴隷」を使ってその栽培と収穫をすれば、右から左に儲かりました。
そして綿花農園は、大規模であればあるほど、儲けが大きくなります。
なにしろ労働力は、賃金の安い奴隷なのです。
ここで大切なことは、意外に思われるかもしれませんが、南部の農園では、黒人労働者(奴隷)たちは、比較的大切に扱われていたという史実です。
これは当然といえば当然のことで、農場が広がれば広がるほど、黒人労働者の人数も増える。
人数からいったら、白人の農園経営者よりも、そこで働く農園労働者の方が、圧倒的に多いのです。
どこの会社でも、経営者の人数よりも、労働者の人数の方が多い。あたりまえのことです。
その少数の経営者が、大多数の黒人を圧政下に置いたらどうなるか。
反乱でも起こされて、綿花農園に火でもつけられたら、全財産がパアになります。
ですから、そうならないように、ある程度黒人達を優遇し、ある面においては厳しく使役させていたのです。
そこには、一定の「共存関係」が成立していたわけです。
映画「風とともに去りぬ」は、ご覧になられた方が多いかと思いますが、主人公の家は、昔の中世のヨーロッパの貴族のように、豪華で多数の部屋を持つ大邸宅です。
が、周囲に城壁はありません。城壁がないということは、「争いがない」ということです。
そしてその大邸宅の中には多数の黒人の農園労働者たちが生活していました。
なかには、結婚して子が産まれる黒人もいる。
一方、農園は広大ですから、労働効率を考えれば、そこで働く農園労働者は、農園主の大邸宅に住むばかりが能ではありません。
優秀であり、かつ責任感の強い信頼できる黒人には、その者が担当している農園の近くに家を建ててやり、そこを基点として、一体の農園の管理を任せたりもしています。
黒人と白人が、身分は違うのは当然です。
農園の経営者であり、オーナーなのです。
黒人たちはそこで働く労働者です。身分や立場の違いは、当然あります。
ただ、それは差別というより、主従関係に近いものであったということができます。
もちろん奴隷は私有財産(動産)ですから、モノとしてしか扱われないという側面もありますが、はやい話、農作業のために使う牛や馬は、世界中、どの農家でも、それなりに大切に扱います。
そして動産である黒人達は、終身雇用で定年もなかったのです。
悪いけれど、いまどきの日本のフリーターよりも、よほど生活は安定しています。
黒人達は、仕事が済むと、近くの飲み屋に集まり、そこで、自分たちの民族音楽に、欧米風の楽器をあわせた独自の音楽を誕生させ、それをみんなで楽しんでたりもしました。
そうです。ジャズミュージックです。
当時の南部の黒人労働者たちは、もちろん、農場主とくらべれば生活は貧しかったかもしれないけれど、決して貧困ではなかったし、生活にも余裕があったというのが実情です。
これに対し、南北戦争以前の北部諸州ではどうだったかというと、北部には綿花のような中心となる産業がありません。
人はたくさんいます。
その人々は欧州からの移民たちです。
人がいれば、繊維製品の製造業や、日用品製造業、あるいは建設業等々の労働市場は数限りなくあったけれど、それら労働者市場は、白人移民たちの労働市場でもあったわけです。
ではそこに黒人奴隷という私的所有権に基づく労働力が介入してきたら、何が起こるか。
答えは簡単です。
白人労働者の職場が奪われるのです。
白人労働力は、雇用主からみれば、「契約関係」です。
月給は20万よこせ。休みはよこせ。給料あげろ、気に入らなければ会社を辞めると言い出す。
文句ばかり言って働かない。
だからといって殺せば、こんどはコチラが殺人罪です。
ところが黒人奴隷を労働力として採用するとどうなるか。
月給は半分でOK。所有物ですから、生殺与奪の権は、オーナーの側にあり、使い物にならなければ、売り飛ばすこともできるし、殺しても、あくまで「動産」であって「人」ではありませんから、罪になりません。
これは圧倒的な「力関係」となりますから、その分、黒人達にちゃんとした仕事を仕込めば、会社は儲かるようになります。
経営者からみて、こんなに「都合の良い」労働力は、他にありません。
そうした奴隷制度が、北部の町に進出してきたらどうなるか。
これまた答えは簡単です。
北部の白人労働市場は壊滅し、黒人労働力が北部を席巻することになるのです。
そしてこのことは、北部に住む多くの白人の生活を圧迫することになります。
だからこそ、北部の人々は、「奴隷制度」に反対し、黒人を「差別」することによって、北部の労働市場から排除しようとしました。
「黒人を差別」したのではありません。
存在そのものを否定しようとしたのです。
黒人がいるから、白人の労働市場が奪われるのです。
ならば、この世から黒人を消すしかないという考え方です。
ところが、南部諸州では、次々とアフリカから黒人を連れて来る。
そして南部で何らかの事情であぶれた黒人が、北部に流れて来る。
住み着く。
彼らだって食べなきゃいけないから、労働させてくれるところを探す。
雇う雇用主が現れる。
するとそこで、子が生まれ、ますます黒人が増える。
そして増えた分だけ、白人は職を失う。
だから、排除するしかない。
黒人に対する、米国内の人種差別というものは、だから「差別」というより「排除」の動きだったのです。
「人種差別」ではありません。
「人種排除」です。
ところが米国自体が、黒人排除論に動くと、困るのは南部11州の農場主たちです。
農奴を使っているから、商売になっているのです。
それが白人の使用人たちにとってかわったら、コストは倍以上につきます。
綿花農園そのものが競争力を失い、存続できなくなってしまいます。
そこで起こったのが南部11州の、米国からの脱退と独立、アメリカ共和国の建国でした。
この結果、南北戦争が起こりました。
南北戦争では、南北合わせて320万の兵が激突した戦争です。
この戦争では、たった3年で、両軍あわせて123万人の死傷者が出ています。
かわいそうなことに、この戦いに北軍側では、100万人以上の黒人義勇兵が、最前線で戦っています。
彼らは、この南北戦争が、「奴隷解放のための戦い」であり、「人種差別撤廃のための戦い」と信じていたのです。
結果として南部諸州が負けました。
アメリカ共和国は否認され、もとの米国に戻りました。
そしてリンカーン大統領によって「奴隷廃止」が宣言されました。
黒人たちは、「奴隷」ではなくなりました。
そしてその結果、人種差別(人種排除)は、より一層激しいものになったのです。
要するにリンカーンの行った南北戦争は、
北部諸州の白人の労働雇用を守るために、
低賃金、終身雇用の労働力である「黒人を排除」することを目的として、
黒人が米国内に増加する温床となっている南部の「奴隷制度」を根こそぎ排除し、
黒人を米国から抹殺しようとした戦いであったのです。
南北戦争における北軍は、いっけん人道的です。
なぜなら「奴隷制度反対」を主張したからです。
けれどその内実は、「制度」に反対していただけで、人種への偏見と排除圧力は、むしろ奴隷以上に酷かったのです。
奴隷なら、個人の所有物です。動産です。
ですから、いちおう、所有物としての保護があります。
けれどその保護さえ失った黒人たちは、こんどは、奴隷以下の排除の対象となったのです。
ものすごくたとえは悪いですが、家畜として飼われる牛は、家畜である限り、飼い主から一定の保護が与えられます。
けれど、飼うことを禁止され、牛が街中にあふれたら、その牛たちはどのような扱いを受けることになるでしょうか。
それと同じことです。
そして人種差別は、人種排除の動きとなり、しかも黒人には「公民権」は与えられていないままです。
黒人奴隷は、「奴隷解放」の結果、農園主からの庇護を失い、「排除、差別」の対象となったのです。
南北戦争の4年前の1857年(安政4年)、米国最高裁は、
「黒人ならびにその子孫は、所有者の財産であって、合衆国の市民ではない」という判決を出しています。
それが今度は、「財産」ですらなくなったのです。
市民ではないということは、「人格権」も「公民権」もない、ということです。
その米国が、黒人たちに公民権を与えたのは、南北戦争から100年も経った昭和39(1964)年のことです。
では、その100年の間に、米国では何があったのでしょうか。
米国における黒人差別の実情については、さまざまな本も出ているし、ネットでも黒人問題等で検索すれば、たくさんの記事がヒットしますので、そのあたりは、是非、ご自分でお調べ下さい。
当ブログでも、過去記事
「公正な世界を目指して戦った日本」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-642.html
で、デュボイスの例をひいて、黒人差別の実態について書いていますので、ご参照いただければと思います。
問題は、奴隷解放をしたはずの南北戦争から、100年も経ってから、なぜ、黒人は差別の対象から米国市民としての「公民権」を与えられるようになったか、ということです。
実は、ここに日本が深く関係しています。
第一次世界大戦が終結した大正8(1919)年、第一次大戦の惨禍を再び繰り返すことがないために「国際連盟」を創設しようという「パリ講和会議」が行われました。
このとき、米国の黒人たちが最大の注目したのが日本です。
日本は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れるという、その時点ではまさに画期的な提案をかかげて、戦勝国の一員として講和会議に出席しています。
この講和会議に出席する日本の全権使節団は、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄りました。
本来ならば、パリに向かうなら、インド洋を回るルートが早道です。
けれど、日本の使節団は、あえて別ルートで米国をまわったのです。
これには理由があって、人種差別撤廃を図りたい日本の使節団は、講和会議の議長役となる米国のウィルソン大統領に、あらかじめ根回しをして人種差別撤廃への協力を求めようとしたからです。
ですから、この日本の訪米は、長年人種差別と戦ってきた米国の黒人社会が大絶賛しています。
「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人は、日本の使節団に「世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、という嘆願書まで渡しているのです。
「われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で“人種問題”について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。」
これは、全米黒人新聞協会が発表したコメントです。
人種差別に苦しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていたのです。
当時、ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったことについて、やはり黒人紙の「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように述べています。
「ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本当に喜ばしい限りである。
同じ人種の医者に診てもらうことができる安心を患者は得ることができるのだから。」
そもそも日本人というのは、人種差別という概念を持ち合わせていません。
誰であれ、親しく真面目に接してくれるなら、胸襟を開いて友となる。
それが日本人です。
1923年の関東大震災のとき、ある黒人が「シカゴ・ディフェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書しました
それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始めました。
「たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくていつ出すというのか。」
同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透しました。
万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行いました。
「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打撃を受けた、と分析しました。
なぜなら「日本人は、それまでの白人優位の神話を崩した生き証人」だったからです。
1936年、イタリアがエチオピアを侵略しました。
アメリカの黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」として支援しました。
アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事が、アメリカの黒人たちの心を動かしたのです。
「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけにはいかない」、「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言したことを伝えています。
また「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じました。
そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハイレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇族・黒田雅子女史の結婚の計画です。
これは実現には至らなかったものの、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せていた証拠でもありました。
シカゴ・ディフェンダー紙は、
「海を越えた二人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じています。
「20世紀の日本人-アメリカ黒人の日本人観」の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次のように我々日本人に呼びかけています。
「歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それがアメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、心から理解してもらえるはずである。」
パリ講和会議における日本の提案は、当時の白人社会にはとてつもなく大きな爆弾であったといえます。
国富の大部分を、人種差別と植民地政策によって得ていた欧米資本家や貴族たちにとって、植民地を失うということは、すなわち国家の崩壊であり、資産家たちの破産を意味するものでもあったのです。
それだけに、人種差別撤廃を堂々と主張する日本は、彼らにとって、どうしても許すことのできない相手でした。
そしてパリ講和会議での日本の「人種差別撤廃法案」は、16カ国中、11カ国の賛成を得ながらも、議長であった米国大統領ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられてしまったのです。
怒った全米の黒人たちは、全米で数万人もの負傷者を出すほどの大規模な暴動を続発させています。
日本の主張した「人種差別撤廃」の主張は、単に日本人が欧米と対等につきあえること願ったというだけでなく、貧しく、差別された世界中の人類が、肌の色を越えて「四方の海はみなはらから」なのだという陛下ご自身のお気持ちが国民の意思、国家の意思となったものにほかなりません。
けれど、米国の黒人差別は、その後も長く続きました。
パラオ、アンガウル島の玉砕戦を生き残った舩坂弘さんが書いておられるのだけれど、米軍の攻め方というのは、はじめ艦砲射撃やら航空機からの爆弾投下で、徹底的な爆弾による破壊を試みる。
そして上陸して日本軍の弾の当たるところに最初に出てくるのは、いつも決まって「黒人歩兵部隊」だったといいます。
戦争ですから、先頭にたつ歩兵は撃たれます。
そして先頭の部隊が撃たれることで、敵の居場所がわかる。
わかったら、そこを(弾の飛んで来ない)艦船から、艦砲射撃で攻撃する。
そして日本軍の弾が飛んでこなくなる頃になってやっと、白人の掃討部隊が前線に出て来る。
それが当時の米軍の戦い方でした。
テレビや映画などでは、実際のこういう姿は、まず出てきません。
白人の兵隊が勇敢に銃を撃ち、日本軍と戦っているというようなシーンしか出てきません。
けれど、実際の戦闘では、常に敵弾の届く危険なところには、黒人兵が狩り出されています。
真珠湾攻撃の総指揮官だった淵田美津雄大佐は、自伝で次のように述べています。
終戦直後のある日、3人の大柄な黒人兵がやってきた。
そしていきなりジープに乗れと言った。
相手は武装した黒人兵、こちらは丸腰です。
生きて帰れないと覚悟した。
淵田大佐は、こうして30分ほどジープにゆられ、丸の内の郵船ビルの裏手に連行されました。
そのころ郵船ビルは、米軍将校たちの宿舎に充てられていました。
ビル内には、米軍の白人将校向けのバーまでしつらえてありました。
淵田大佐を連行した黒人兵たちは、そのバーで働かされている兵隊でした。
バーの楽屋裏に連れ込まれた淵田大佐は、そこに集まった大勢の米軍黒人兵たちから大歓迎されたのです。
食いねえ、飲みねえ、と、それはそれはたいそうな歓迎だったのだそうです。
彼らは異口同音に言いました。
「真珠湾攻撃を誰が一番喜んだと思う?」
「それは、われわれ黒人だよ」
当時、米軍兵士と日本人との交流は米軍ないで固く禁止されていました。
その禁を破ってまで、彼ら米黒人兵たちは淵田大佐を真珠湾攻撃隊長と知って、大歓迎したのです。
日本が行った大東亜戦争は、人種差別絶対の世界のなかで、嬲られ、痛めつけられ、万やむを得ず、乾坤一擲の大勝負を挑んだ戦いであったということは、これまでにもよく語られてきたことです。
けれど日本の歴史を巨視的にみれば、これは起きるべくして起きたことと見ることができます。
日本は、縄文時代の約1万5千年にわたって、武器さえも持たない世を築いてきました。
弥生期は、大陸では春秋戦国の時代です。凄惨で大規模な戦いが連続する時代でした。
そうした時代の到来を前に、日本人は神武東征以降、国をひとつにまとめ、武器をとって戦うことを学びました。
そして白村江の戦い以降、半島や大陸と距離を置き、遣唐使の廃止以降は国としては鎖国に踏み切って国の護りを固めました。
その結果日本は、約600年にわたる平和な時代を築いています。中世の世界で、600年間、戦いのない平和な時代を築いたというのは、おそらく日本だけです。しかも日本は、その平和を、半島と大陸という二つの凶悪国家のすぐ隣で実現したのです。
ところが平安末期から鎌倉初期にかけて、日本は国が荒れました。
国内で戦いや殺し合いが連続的に起こりました。
当時の施政者である貴族たちが、このことをどれだけ嘆いたか計り知れません。
ところがその戦いによって武力を磨いた日本は、なんと、世界を征した大帝国の元と戦い、彼らの侵略を跳ね返してしまったのです。
ところがその後、これを行った鎌倉幕府も崩壊し、足利政権になっても、戦いは止まず、14世紀には再び日本は血で血を洗う時代になりました。群雄割拠した戦国時代です。
この時代は家同士が、互いに相争い、武装を固めなければならない時代でした。
そしてその結果、日本は世界最大の鉄砲保有国になり、結果として、日本は、スペイン、ポルトガルの植民地とならずに独立を保ちました。
そして江戸270年の平和と安定を手に入れています。
その江戸時代を通じて特筆すべきは、武士が単なる武力行使者ではなく、その精神性が極めて進化したことにあります。
そして幕末、列強諸国の植民地化圧力に対して、武士道を武士だけのものではなく、国民全部のものとして再び国をひとつにまとめた日本は、日清日露を戦い、大東亜を戦い、気がつけば、今度は世界から植民地を一掃してしまっただけでなく、人種差別や人種排除さえも一掃してしました。
こういう流れを巨視的にみると、どうしても私には、八百万の神々の大きなるご意思のもとに日本があるように思えます。
戦後の日本は、なんと武装を解いてしまうということを出発点にしましたが、このことの是非はともかく、いま日本は新たな試練を前にしているように思えます。
未来は、つねに過去と現在の延長線上にあります。
我々現代人は、父祖の勇気と信義あふれる行動によって、戦後69年の平和と、豊かな暮らしを手に入れることができました。
けれどこのままでは、私達現代人は、未来を担う子や孫の生きる未来に、誤った歴史観で反日を刷り込まれ、民族としての自覚もアイデンティティを失った、奴隷というより、ゾンビとして生きるしかない、貧しい未来を与えることになってしまいます。
人は変わることができます。
国家もまた、人によって構成されているものである以上、人によって変えることができます。
日本を取り戻す。
それは、私達が、私達の祖国のアイデンティティを取り戻す戦いだと思います。
※この記事は2012年の記事をリニューアルしたものです。

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