
このブログの読者の方なら、戦前戦中の教育と、現代教育のあまりの落差に、正直がっかりさせられている方も多いかと思います。
たとえば百人一首の謙徳公の歌です。
あはれともいふべき人は思ほえで
身のいたずらになりぬべきかな
父は旧制中学なので戦前の教育を受けた人だったのですが、その父から小学校の頃に、
「謙徳公というのは、つましくて徳の高い貴人のことだ。この歌は、そういう徳の高い人であっても、いざという時に不退転の決意を示すことが大事であること詠んだ歌なのだ」と教わった遠い記憶があります。
この歌は『拾遺集』(九五〇)に掲載されている歌でもあるのですが、そこの詞書には、
「ものいひ侍りける女の、のちにつれなく侍りて、さらに逢はず侍りければ」と書かれています。
「交際していた女性がつれないので、この歌を書いて送った」というわけです。
他にも謙徳公には『一条摂政御集』という著書がありますが、そこには、
「くちおしき下衆なれど、若かりけるとき女のもとにいひやりけることどもをかき集めたるなり」とあります。
今風にいえば「若気の至りではあるけれど」というわけです。そして、
「年月をへてかへりごとをせざりければ、負けじとおもひて言ひける」と続け、この歌が巻頭に飾られています。
歌を字義通りに解釈すれば、
「あわれな人に成り下がると思うぞ、このままではむなしく死んでいくだけでしかないではないか」です。
冷たい態度の女性に対して、
「私と付き合わなければ、おまえはむなしく死んで行くだけの人生になってしまうのだ」と言っています。もっと噛み砕いていえば、
「私と一緒になることがおまえの幸せなのだ」ということです。かなり強引です。
けれど少々強引であろうが、いざというときに本気を出せるのが男なのだと、父は笑っていました。
その父は学校で、同じことを戦時中の旧制中学で教師から教わっています。
歌を詠んだ謙徳公という名は、死後に贈られた諡(おくりな)で、これは生前の遺徳を称えた敬称です。
生前の名前は藤原伊尹(ふじわらのこれただ)で、太政大臣だった人です。
ちなみに藤原伊尹の父も、太政大臣だった人です。
その父は名門の身でありながらたいへん篤実な人で、親に考を尽くし、兄弟仲よく、君に忠貞の誠を捧げ、信心あつく、悪友と交わらず、殺生や博打にのめりこまず、口をつつしみ、怒りをおぼえても色にださず、勉学に励み、立派な字が書けるようにせよと戒めを遺しました。
さらに「衣冠より馬・車にいたるまで、あるにしたがひて用ゐよ。美麗を求むる事なかれ」(『徒然草』第二段)と、節倹し堅実に生きることを息子の伊尹に遺訓しています。
ところが『大鏡』によれば、息子の伊尹(これただ)は、父親の葬儀を破格の大葬儀にしただけでなく、太政官の壁に墨が跳ねたからと、壁一面を高価な壁紙に張り替えたりと、かなりの豪放さを発揮した人物として描かれています。
そんな贅沢をした人が、死後には「謙徳公」だというのです。
「謙徳公」というのは、
「謙」=つつましくておだやかで謙虚。
「徳」=人徳のある人
「公」=貴人、貴い人、
という意味です。
これでは『大鏡』の人物描写とだいぶ様子がかけはなれています。
実は、「日本の古典というのは、そういう矛盾や落差のあるところをしっかりと読むことが、読むということの意義である」と教えたのが、戦前、戦中の教育です。
謙徳公の父は、太政大臣として亡くなっているのです。
政治の最高権力者であったればこそ、謙徳公は公人として、同じく公人であった父について、公式に盛大な葬儀を営んでいるのです。
また、壁の墨事件にしても、太政官という公務に使う部屋だからこそ、壁ごと取り替えているのです。
公務で遣うべきときには、大胆に費用を遣う。
けれど私的なことや平素の業務は、地味すぎるといわれるほどに、質素倹約を心がける。
だからこそ、謙徳公は、慎ましくおだやかで、誰からみても徳の高い貴人とされたのです。
公私のけじめ、というものです。
そんな謙徳公が、若い頃に女性を口説くとき、やはり本気を見せたのが冒頭の歌です。
歌は、「黙って俺に来い。俺についてくることがおまえにとっての幸せなのだ」という歌です。ものすごい自信です。普通は、なかなかそこまで言えるものではありません。
けれど、いざというときには、これだけのことを、謙徳公はサラリと言ってのけているのです。
たとえはとっても悪いのですが、昔の極道者は、びっくりするような美人と交際していたものです。
端から見ればあんな美人がなぜ?と思ってしまうのですけれど、彼らには彼らなりの論理があって、自分はヤクザ者で、いつ死ぬともわからない。いわば「覚悟の人生」を歩んでいるわけです。
だから女性を口説くときも、本気です。
明日がないと思う分、いまを逃したらもう未来永劫その女性を口説くチャンスなどやってこないのです。そう思うからが本気です。
本気で真剣だから、びっくりするような美人をも口説き落とすのです。
極道者が良いと言っているのではありません。
ただ、勉強ばかりしてきたひ弱なエリートでは、そういういざというときの覚悟が定まらない。だから美人も口説けない、のだそうです。
男の生き様というのは、地位の上下や財力の大小だけではありません。
いざというときに、どういう態度をとれるのか。
そのことを、昔の人は「男になる」という言い方で表現していました。
ちなみに西欧社会の公式パーティには、妻を同伴することが常識です。
これは実は、どんな女性を妻にしているかで、その男が、男として本気を出せる男かどうかを、チェックしているのだと聞いたことがあります。
どこまで本当の話かは知りません。
けれど、欧米であれ中東であれ日本であれ、いざというときに本気を出せないような男では使い物にならないし、いざというときに本気になれる男性かどうかを、社会人としての生活の中においては、常に周りからチェックされているというのも、それが上位の社会になればなるほど、あたりまえに行われるということは、なるほどとと納得させられるものがあります。
ところが、です。
謙徳公の歌の最近の解説本を見ると、およそどの本を見ても、「派手好みで贅沢好きだった藤原伊尹が、冷たくなった女性に、『私のことをあわれとか気の毒とか思ってくれる女性は、あなたの他に誰もいないのです。(あなたの他に誰も思い浮かばないのです)。もしあなたが私を振り向いてくれないのなら私はただむなしく死んで行くだけでしょう』と、藤原伊尹が、富と権力を手に入れていながら、「ボクの奥さんになってくれないのなら、死んでやるぅ」と愚図っている、きわめて幼稚な歌なのだと解説しています。
失恋というなら、まだショックかもしれません。
ところが、この時点で伊尹は失恋さえしていないのです。
相手の女性がちょっと冷たいそぶりを見せただけです。
その程度のことで、本人にとってはそれは重大なことかもしれないけれど、「ボク、死んでやるう」と愚図っている。いかにも甘えん坊の、ボンボンが言い出しそうな、ツマラナイ歌であるように解説しているわけです。
けれども、藤原伊尹は、この歌を自分の著書の冒頭で公開しているのです。
しかも彼は、太政大臣にまで栄達しているのです。
人の世なのです。そんなひ弱で、愚痴ばかりの女々しい男なら、そもそも人の組織において出世するなど、あり得ないことです。
サブクラスならまた、多少の可能性はあるかもしれませんが、太政大臣というのは、唯一絶対の政治権力者なのです。
しかも藤原伊尹は、没後に謙徳公という立派な諡(おくりな)まで贈られているのです。これは万民が、藤原伊尹を、素晴らしい、徳の高い人物であったと認めたということです。
そういう人物の歌を、どこでどうしたら上のような女々しい歌と解釈できるのか。歌を文法的に解釈していっても、そのような女々しい歌意には、まったくならないのです。
この歌は千年の時を超えて、民衆の道徳的規範として生き続けた歌です。
『大鏡』にしても、藤原伊尹がのべつ贅沢だったと書いているわけではありません。
日頃はつましく倹約をしていながら、いざという公事に際しては、周りが驚くような大胆さをみせる、そこに驚きがあったからこそ、このことを逸話として書きのこしているのです。
歌も同じです。
一見おとなしそうにみえながら、その内面には、高い矜持と堂々たる強靭な精神が宿っているからこそ「黙って俺に付いて来い」の言葉が、相手の女性に対しても説得力を持つのです。
これはいまも昔も、普通の会社においても、およそ人間の集団の中にあるリーダーとなる人にとって、不可欠の精神です。
先日、江戸時代中期の儒学者に山崎闇斎(やまざきあんさい)のことをこのブログで紹介しました。
まだあまり日が経っていないので、覚えておいでの方も多いかと思います。
彼は京で闇斎塾(現在の山崎闇斎邸跡)を開きましたが、闇斎の教えはとても厳しく、骨の髄まで孔子孟子の教えを叩き込んでいました。
塾生たちは塾の門をくぐることさえ苦痛だったという、それくらい厳しいものでした。
ですから高弟ともなれば、孔子孟子を尊敬すること、まさに人後に落ちないものとなっていました。
ある日のこと、高弟三人が闇斎に呼ばれました。山崎闇斎は言いました。
「三人に聞く。お前たちには孔子、孟子の教えの素晴らしさを教えてきた。お前たちが孔子、孟子を尊敬することは、おそらく人後に落ちないものと思う。」
三人はうなづきました。
「では、お前たちに聞く。もしいま、孔子を大将とし、孟子を副将として数十万の兵を率いて彼らが日本に攻め込んで来たとする。そのとき我ら儒者はどのようにしたら良いか答えよ。」
三人が驚いたことはいうまでもありません。日頃から、孔子、孟子を、まるで神様同然に尊敬するようにと教わってきているのです。その神様が自分たちを責めに来る。どう答えて良いのかわかりません。そこで黙っていると闇斎が激怒しました。
「お前たちは、これまでこの塾で何を教わってきたのか!そのような事態に至ったならば、我々は身を固め、武器を手にして彼らと一戦交える。そして孔子と孟子を捕まえて、その首を一気に刎ねる。こうして国恩に報いるのだ。それが孔孟の教えなのだ。わかったか!」
教育勅語にも「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と書かれています。
平素は親孝行に励み、兄弟仲良くし、夫婦相和し、友と信頼しあい、人に対して慎み深く控え目に振る舞い、博愛をみんなにおよぼし、学問を修め、知能を啓発し、徳を身につけて日常の生活をしていても、いざというときに本気になれないようでは、使い物にならないと書いているのです。
だからこそ、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」なのです。
いざというときに本気になれる精神を、戦前戦中までの教育は、修身や国語、あるいは国史の授業で生徒たちにしっかりと叩き込んでいました。
そういう教育と、そういう精神性を頭から否定するだけでなく、「ボクの彼女になってくれないなら死んでやるぅ」と甘ったれていたのだとしか教えることしかできなくなっている現代教育と、果たしてどちらが、立派な人間を育てることができ、また人間として真の学びを得ることができる教育といえるのか。
そのことを、戦後の日本は、猛反省すべきときにきているといえるのではないでしょうか。

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