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ハインリッヒの法則

「礼儀作法」の「礼」という漢字は、旧字では「禮」と書きます。
見てわかる通り、「禮」は「豊かに示す」です。
漢字はもともとChinaで生まれたものですから、漢字にはそのChina文化の影響が色濃く残っています。
Chinaは上下の「ウシハク」世界ですから、「禮」は、上に対して用いるものです。
ですからChinaでは、「禮」はあくまで、上に立つ人、偉い人に対して「はっきりとわかるように、見えるように、明確に体で伝える」、それが「禮」という字の、Chinaにおける意味です。
偉い人、目上の人に「見えるように」行うのが「禮」ですから、その偉い人がそこにいなければ、「禮」をとる必要はありません。これもまたChina文化における「禮」の特徴です。
ところが日本では、たとえば昔の人なら、居間の鴨居(かもい)にある天皇皇后両陛下の御尊影のお写真に、毎朝、不動の姿勢をとって最敬礼をとったり、あるいは同じく鴨居に亡くなったご先祖の遺影を飾り、なにかあると挨拶をしたりします。
つまり相手がいないところでも、「禮」をとります。
また日本では「親しき仲にも礼儀あり」で、友達同士でも、あるいは下の者に対しても、「おはよう、こんにちは」はもちろん、「元気にしてるか?」、関西なら「もうかりまっか」など、普通に挨拶も行われるし、お辞儀など、ちゃんとした挨拶が行われます。
「上に対して」だけではないのです。


これがどういうことかというと、日本は、Chinaの漢字は輸入したし、China文化を採りいれたけれど、それはあくまで、日本にもとからある文化の土壌の上に、必要なものを取捨選択して採りいれた、ということです。
ですから漢字も、あくまで「もとからある日本文化を漢字で書き表すために」輸入しました。
そのために日本では漢字に、China風の読みである「音読み」と、日本古来の文化もしくは大和言葉による「訓読み」の二通りが存在しているわけです。
では、「禮」という漢字の訓読みは何かというと「ゐや(うや)」です。
いまでは「ゐ」というカナは使われないので「うや」としますが、「うや」とは何かというと、「うやまう」です。
もとからある「うやまう」という大和言葉に、あとから「禮(礼)」という漢字を充てたのです。
では、「うやまう」とは何かといえば、相手の尊厳を認め、尊敬し、そこから学びを得ることです。
その尊敬の心や、人から学ぼうとする心は、目上だけではなく、友達などの横の関係からも、部下たちからも、同じように、日々、学びを得ることが出来ます。
だから、そうした人々に感謝するし、相手が見ていなくても、相手がすでに亡くなった人であっても、日本人は、相手をうやまい、「禮」をとります。
戦前戦中は、国史の授業があり、その授業では主に日本書紀を学びました。
日本書紀は漢文で書かれていますが、そこには日本語の読み下し文があり、漢字にはふりがながふってありました。
そしてそのふりがなでは、たとえば「禮」なら「ゐやまふ」、親孝行の「孝」なら「たかふ」などとしてありました。ちなみに「たかふ」は、「したがふ」です。
ついでに申し上げますと、忠義の「忠」は「まめなるこころ」です。
よく武士道とは「忠孝の道」などと言われますが、「忠孝」とは、ですから訓読みすれば「まめなるこころをもって、親にしたがふこと」となります。
「まめ」というのは、新妻が夫にまめまめしく尽くす、あるいは男性が女性を口説くときに「まめにラブレターを贈る」などとつかわれる、古くからある言葉ですが、自分にできるすべてをつかって人やものつくりなどに励み、つくすことをいいます。
国民みんなが、そういう「まめなる心」をもって、お互いにお互いのために、自分にできるすべてをつかって周囲の人のためにつくし、親や祖先の教えをきちんと守っていくならば、その国はとても良い国になるに違いありません。
そして武士は、民衆の模範となるべき士(もののふ)ですから、古くからの伝統を守り、親や祖先の教えを守り、そして民のために自分のもっているすべてを尽くして生きる。
「それが武士道の『忠孝の道』なのですよ」などと、終戦までは学校で誰もが普通に教えられたものでした。
最近、日本人によるとんでもない犯罪事件が目立つようになってきています。
日教組教育によって、道徳教育を否定され、徳義を学ばないまま、反日教育を受けて社会人となった人たちが、いまの日本社会の中心層になっているのです。
自分さえ良ければいい。見つからなければ何をやってもいい。それが自由だと教え込まれた世代です。
誰もが自己の欲望にのみ忠実となり、見つからなければ何をやってもいいと考えるならば、その先にある未来の日本は、どのような社会になるのでしょうか。
いま、日本の大人たちの多くは運転免許を持っていますが、その運転免許教習所で必ず習うものに「ハインリッヒの法則」があります。
アメリカで損害保険会社で事故調査の副部長をしていたハーバート・ウィリアム・ハインリッヒが導き出した法則で、一つの取り返しのつかないような重大な事故の背景には29の軽微な事故が起こっていて、しかもその軽微なヒヤリハットな事例が300件起きているという法則です。
交通警察では、こうした法則から、軽微なスピード違反から、歩行者通行妨害、一時停止違反など、軽微な徴候といえるもの、つまり「ヒヤリとするような事故」にさえ至らないようなものから取締を行っています。
あまりにも理不尽と思えるような、ある意味行きすぎと思える取締にひっかかって罰金を払わされ、いやな思いをした人も多いかと思いますが、ところがそういう交通警察の努力によって、重大事故の発生件数が大きく減ってきているのも、また事実です。
重大事故が起きてからでは遅いから、日頃から交通ルールに注意を喚起することになっているわけです。
けれど、それならば、最近頻発している強姦、脅迫、強要、誹謗中傷、殺人などの重大犯についてはどうなのでしょうか。
むしろ、逮捕された犯人の人権ばかりがことさらに強調され、そうした事件が起こることを未然に防ぐための官民をあげた努力は、現実にされているのでしょうか。
教育、見回り、警察権の強化、犯罪者に対する厳罰等々、すくなくとも強姦、脅迫、強要、誹謗中傷、殺人などの重大犯に対する罪は、ほんのわずかな二日酔い気味で運転して飲酒運転で百万円の罰金を払い、免許を取り上げられ、交通刑務所に服役させられるということよりも、はるかに恐ろしい重大犯といえるのではないでしょうか。
見えないところでも禮をとってきた日本、友や部下に対しても禮を失わない日本。犯罪のない安心した社会の中で、玄関に鍵などかけなくても、安心して暮らせた日本は、ほんの50年前までは、あたりまえの日本だったはずです。
すでに起きている日本への中傷や、現在進行形の売国行為と戦うことも、もちろん必要です。
けれど、それと同時に、わたしたちは、本来の日本の姿を、謙虚に学んで行くこともまた、大切といえるのではないでしょうか。


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