
拉致の可能性が排除できない行方不明者を調べる特定失踪者のことが問題になっています。
一方で、朝日などに焚き付けられた北朝鮮帰還事業者の現実があります。
以下の文は、ある講演の際のものです。
筆者には、受講者の方から、メールでお知らせいただきました。
そのメールを転載します。
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講演テーマ「自由であることの大切さ」
講師:高政美(コ・ジョンミ)
「1963年7月18日。この日さえなければ」
この言葉から、脱北者、高政美(コ・ジョンミ)さんのお話が始まりました。
昭和35(1960)年、大阪生まれの方です。
昭和38(1963)年7月18日、帰国運動で北朝鮮に渡りました。
お母さんとおばあさんは、北朝鮮への帰国を迷っていたそうですが、朝鮮総連の人が何度も家に来ては、
「北朝鮮は地上の楽園。大学も無償で行けるし何もかも自由」
と帰国を勧めていたそうです。
北朝鮮へ着き、船をおりた瞬間、それが嘘だとわかりました。
だまされた。
北朝鮮の人たちのクサイ、貧しいみなり、頭はふけだらけ。
高さんはこの時3歳でした。
一緒に船に乗っていた6歳の兄が、
「降りたくない。このまま、この船で日本に帰してほしい」と泣きだした。すると、
「この子はちょっとおかしい」と、兄はどこかへ連れて行かれてしまいました。
北朝鮮に着いた途端、私たち家族は一度も食事することもなく、あっというまに家族は離され、6歳の兄はどこかへ連れて行かれてしまいました。
精神病院に入れられた、と聞きました。
5年後、自分が8歳の時に、はじめて家族全員で兄に面会できることになりました。兄はこの時、11歳。
病院に入院していると信じていたので、母はお弁当を作っていきました。
お世話になっている病院の人や、同室のほかの患者さんの分まで、たくさんお弁当を作っていったのです。
ところが、面会に連れて行かれたのは、コンクリートの塀に囲まれた山の中の建物でした。
すぐに、これは病院じゃないとわかりました。
まるで動物園のような、1メートル四方ぐらいの「おり」がたくさんあり、中にはなんと人間が入れられていました。
兄に面会に行った両親、姉、自分はいったいどこに来てしまったのか、わかりませんでした。
鉄格子の中に、大勢の人が入れられているのです。
小さなおりの中で、立つこともできないので、みんな四つん這いです。
はじめは、人間ではなく動物に見えました。
よく見ると人間でした。
顔も手も真っ黒。髪は伸び放題でライオンのよう。誰ひとりとして、表情がない。
おそろしくて、自分は母親の手をしっかり握っていました。
母親も、自分の手をしっかり握りかえしていました。
ブルブル震えていました。
おりの中に入れられた人間の髪をつかまえて、顔をぐいっとあげ、兄を捜しました。
父が兄をみつけました。
でも、動物のようでした。立ち上がることもできない。
3分ほどでその場を離れました。
その日から、家族は食事ものどを通らず、会話もなくなりました。
父は平壌に行きました。
スパイ活動に従事するためらしい。
兄が収容所で亡くなったと、父が通知書を持って家に帰ってきました。
家族の目の前で、父はその通知書に火をつけて燃やし、
「誰にも話してはいけない」と言いました。一度だけ面会にいけたのも、例外的で、決して人に話してはならないのだと言っていました。
この時、自分は11歳でした。
毎日、日本からの帰国者というだけで、壮絶ないじめを受けていました。
20人ぐらいから殴られ、肌の色が見えないほどでした。
日本から持って来たきれいな服を着ているので、服をびりびりに破かれ、パンツ1枚にされてしまい、恥ずかしくて家に帰れないので、真っ暗になるまで隠れて、夜になってから裸で家に帰ったこともありました。
毎日、どうしたら自殺できるだろうかと、そればかり考えていました。
北朝鮮では、自殺すると政治犯になり、残された家族も捕まってしまう。だから自殺もできない。
家族に迷惑をかけずに自殺する方法をずっと探していました。
壮絶ないじめを受けていることは、母に隠していたが、姉が母に相談したことで、わかってしまいました。
母が学校に来ました。
見ると、母が学校の先生の前に正座して、
「うちの娘を許してください」と謝っていました。
日本から持って来た洋服や、いろいろな物を差し出して、土下座して、娘を許してくれ、いじめないでくれと頼んでいたのです。
先生は、
「こんな親だから、子どもがいじめられても当然」と言っていました。
次の日から、自分は学校に行くのをやめました。
すると、52人もの人(学校の友達など)にアパートを取り囲まれ迫害を受けました。
母は毎日、神様にお祈りしていました。
神様に守ってもらうしか、もう道がなかったからです。
子どもを守る言葉を書いて、
「となえるだけじゃだめ。心からお願いしなければいけない」と母に言われた。
もうだめだと思った時は、この最後の3行を唱えなさいと言われて、お祈りの言葉を覚えました。
のちに脱北に失敗して刑務所に入れられた時も、拷問を受けたときも、まるで死人のようになって横たわっていると、
「必ず生きて、しなければいけないことがある」という声が聞こえてきました。
歯を抜かれる拷問を受けたり、手首を切って動脈を引きだして自殺をはかったこともあります。
肉体的には10回以上は死んだはず。
なのに、どうしても死なない。不思議。
こうして日本に生きて帰ることができ、本物の人間になり、こうしてここに来られました。
祈れば必ずかなう。本当に今日、かなった。
皆さんとお会いして、これで何かが変わる気がしている。
今まで何度も死のうとしたのに、死ななかった。神様が守ってくださった。
≪脱北を決めた動機≫
自分は卓球で体育大学にすすみ、体育大学の教師になりました。
平成7(1995)年、北朝鮮で大量の餓死者が出ました。
駅を出ると、道ばたにいっぱい、飢え死にした死体が転がっていました。
体育大学の学生が、この死体の片付けを命令されました。
自分は体育大学の先生だったので、学生たちの監視役として死体処理の仕事をしました。
自分のように政治的な行事(体育大学の学生は、公的行事で踊りや競技をする)にかかわる人間には、食事やバスなど十分な援助が与えられていたので、町でこんなに餓死者がでているなんて、まったく知りませんでした。
外国人が来る地域だけでも、死体を片付けろということになりました。
学生に白衣を着せて医者のふりをさせ、死体を担架に乗せて病人を運んでいるようにみせかけて、駅の部屋にどんどん積み重ねていきました。
あまりにもいっぱい死体があるので、部屋には詰め込みました。
死体を重ねていくと、下のほうの死体から茶色くなっていき、そのうち、人間の油がしみだしてきました。
夜になると、山に死体を埋めに行く。
人間の死体を、まるで物のように、どこの誰かもわからないのに、どんどん投げて、大きな穴に埋めました。
自分はきっと地獄に堕ちるだろうという気持ちでいっぱいになりました。
学生もどんどん倒れていきました。
しかし、その場を離れると政治犯になるので、離れることはできません。
学生たちは「ここで死ぬ」と言っていました。
この死体処理にかかわったことで、自分の頭がくらっと変わりました。
これは絶対おかしいと思いました。
この仕事のあと、食事もとれなくなり精神病院に1カ月入院しました。
90年代には300万人のNorth Koreanが餓死しました。
日本が食糧援助していたことを、脱北してから知りました。
そんなものは、一切届いていません。それどころか、北朝鮮は韓国に米を輸出していました。
餓死者がでているということなど、ニュースでも報道しないので、北朝鮮の国民でも知らないはずです。
自分も死体処理の仕事を命令されるまで、知らなかったことです。
川を渡って脱北し、中国で捕まる。
北朝鮮の収容所に送られ、すさまじい拷問を受ける。
顔がはれあがり、口や目や耳がどこにあるかもわからないほどでした。歯も抜かれました。
脱北して何をしようとしたのか、聞きだそうとしていました。早く殺してほしかった。
1976年に、父も同じような拷問を受けています。
父は半年間、1m四方の穴に閉じ込められました。
拷問の時に出され、拷問が終わるとまた穴に入れられる。
四つん這いで過ごしているうちに、手足の指先の肉が腐って落ちてしまいました。。
お尻の肉まで見えるようになってしまいました。
20年後に、自分も同じような目にあいました。
でもどんなにひどい拷問を受けている時でも、死人のように横たわっている時に
「あなたは絶対しなない。
あなたはこのことを黙っていられますか。
生きて話さなければならない。
あなたには使命がある」という声が、毎日のように聞こえてきました。
ここにいる皆さんなら、この話を信じてくださるでしょう。
刑務所の中で、そういう声が聞こえたことを、ここにいる皆さんなら信じてくれると思う。
日本に来てはじめて、拉致被害者の存在を知りました。
自分のように帰国事業で北朝鮮に渡った日本人のことは知っていたが、無理矢理拉致された人がいることは、まったく知りませんでした。
なぜ日本人が拉致されて、あんな恐ろしい北朝鮮に連れて行かれるのか、許せないです。
なぜ日本の皆さんは、これを黙っているのか。
命がけで助けなければ。
今一番しなくてはならないことは、北朝鮮の人々に知らせること。
韓国人にも拉致被害者がいるそうだが、日本人ほどひどい扱いは受けていないらしい。
日本人が拉致されていることは、北朝鮮の国民は誰もしらないだろうと思います。
日本人は本当は強いはず。
何かあったら心を一つにしてまとまると聞いています。
皆さんの力を信じています。
何とかお願いします。
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はじめにすこし厳しい言い方をしますと、このお話には、もともと半島の方のお話なので、やや大げさになっているところがあるかもしれません。
ですが、仮に話が数百分の一のものであったとしても、ここで話された北朝鮮の日々は、どれひとつとっても人道的に許されることではありません。
わたしたちは、政治が歪むと、ここまで人は残忍な仕打ちを受けることがあるのだということを、しっかりと踏まえる必要があります。
なんだかんだいって、日本が自由な国であり、多くの国民もその自由を節度を持って享受している国であること、西洋の人がやってきても、日本は素晴らしい国だと言われる、そういう国に住んでいること。
そしてわたしたちは、その日本の良さを、次世代につないでいかなければならない使命があるということを、あらためて確認しなければならないと思います。
そして世界から、横暴な暴力による支配をなくして行くためには、なによりもまず日本が強くなっていかなければならなのだと思います。
それにしても、北を地上の楽園と煽った朝日は、その責任を、どうとるのでしょうか。
※この記事は2010年6月の記事をリニューアルしたものです。

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