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お月見0910

あの猛暑の日々が過ぎ、気がつけばもうすっかり風は秋色になりました。
秋といえば思い出すのが、「いずこも同じ、秋の夕暮れ」というフレーズです。
これは、良暹法師の和歌で、百人一首にも収蔵されている歌から来た言葉です。
 さびしさに宿をたち出でて眺むれば
 いづくも同じ秋の夕暮
百人一首に採用されたこの歌は、一般的には、
「あんまりにも寂しいので、住まいを出て、あたりを眺めてみたら、どこもかしこも寂しい秋の夕暮でした」と解釈されています。ものすごく単純に、「秋=寂しい」と解釈しています。
ところがの歌を詠んだ良暹法師というのは、比叡山延暦寺のお坊さんだった人です。
この時代、比叡山には、たくさんの無骨な僧兵さんたちが大勢いました。
また全国から仏教を学びたいとする僧侶が集まって研鑽に励んでいました。
常に大勢の人のいる、ある意味たいへんに賑やかなところだったのです。
小坂達也さんが、8月15日の動画を作ってくださいました。
ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!靖国参拝平成26年8月15日終戦記念日


そんな延暦寺で晩年までずっと修行を積まれた良暹法師(りょうせんほうし)は、いってみれば人の大勢いる大企業のオフィスか、大忙しで大繁盛している大手流通の幹部社員みたいなもので、毎日、朝早くから夜遅くまで、毎日が気張りっぱなしの、慌ただしい毎日を送ってきた人でもあったわけです。
ちなみにお寺だから、整然としていただろうというのは、間違いです。
人が大勢集まれば、まさに「いづくも同じ秋の夕暮れ」です。
そういう慌ただしい環境のもとでは、人が望むのは、晴耕雨読の平穏な毎日です。
いつかは、人里離れた田舎に草庵をいとなみ、自給自足で構わないから、そこで静かに暮らしたい。
そんな希望を誰もが抱きます。
いま風にちょっとかっこ良く言えば、忙しく働いて富を得たら、南の島のビーチリゾートで、毎日釣りでもしながら、のんびりと優雅に暮らしたいという夢見るようなものです。
幸いなことに良暹法師(りょうせんほうし)は、歳をとって延暦寺を引退したあと、まさにこれを実現するわけです。
良暹法師が草庵をいとなんだ京都の北にある大原は、「京都大原三千院」で有名なところですが、人の往来の少ない、山に囲まれた静かな山里です。
いまでもそうなのですから、千年前には、もっと静かなところであったろうと思います。
この歌は、出典となった詞花集に詞書(ことばがき)があって、そこには「大原にすみはじめけるころ」とあります。
つまり、まさに良暹法師が延暦寺を出て、大原の草庵にひとり棲み始めた頃(夢を実現した頃)の歌であるわけです。
大勢の人が常にいて、騒がしく、また忙しい日々から、自然の中にひとり暮らす、のんびりとした夢のような日々がようやくやってきました。
ところが実際にこうして一人暮らしをしてみると、どうにも寂しくてたまらない。
そこで住まいとなっている草庵を出て、付近一帯を眺めてみると、あたりはもうすっかり秋の景色です。
そこで、
「ああ、どこもかしこも、秋景色なんだなあ」と詠んだのがこの歌と、一般にはされています。
ところが、よくみると良暹法師は、この歌で「いずくも同じ」と詠んでいます。
どこと「同じ」なのでしょうか。
冒頭で「寂しさに」と詠い、下の句は「いずくも同じ」です。
冒頭の「寂しさに」は、わかります。人里離れた山中で、ひとりで棲んでいるのです。それまで喧噪の中で暮らしていた身からすれば、人里離れて「寂しい」のは、当然の心象であろうと思います。
しかし、「いずくも(カルタではいずこもと書いてあるものが多い)」というのは、「どこも同じ」だと言っています。つまり場所を指しています。文法的にみても、寂しいという「心情」を指しているというよりも、あきらかに「場所」を指しています。
何が同じかといえば「秋の夕暮れ」が「同じ」です。
つまり、「秋の夕暮れ」が、どこかの「場所」と同じ情況にあると言っています。
少し考えたらわかるのですが、大原のように自然に囲まれた場所というのは、秋の夕暮れ時は、ちっとも寂しくありません。
天高く空に雲が舞い、複雑なカタチにたなびく雲が夕陽を浴びて茜色(あかねいろ)輝きます。
山々に目を転じれば、そこには紅葉があり、あるいは黄色く色づいた樹々があり、鳥が啼き、特に夕暮れには秋の虫たちが、冬越えの準備のための求愛に声をかぎりに鳴いています。
目を街道に転じれば、そこには曼珠沙華(彼岸花)や、キンモクセイ、萩の花やキキョウの花が咲いています。
それらすべてが一体となって、みんなが生きています。
なんと、良暹法師が、人気がなくて寂しいと思って一歩外に出てみたら、そこは大自然の生命の息吹にあふれかえっているところだったのです。
藤原定家は、この歌を三条院の「憂き世の夜半の月」、能因法師の「竜田の川の錦」の歌の次に配しました。
三条院の歌は朝廷の政争を、能因法師の歌はその政争さえも我が国では錦だと詠んでいます。
ということは、次に配された良暹法師のこの歌も、ただ寂しいとか孤独だとか言っているのではないのです。
人に揉まれた比叡山も、人里離れた大原も「いずくも同じ」だよ、どこもかしこも、みんな生命の息吹にあふれているよ、と詠んでいるのです。
そしてそれらが渾然一体となってひとつの「美しい夕暮れ」を奏(かな)出ている。
そんな秋の夕暮れを、「いずくも同じ」と詠んでいるのです。
秋は生命の息吹にあふれた季節です。
みんな生きています。
自分もそのなかのひとつとして生きている。
それは大自然とともに、神々から自分も「生かされている」ということです。
そこに仏教徒として、大和人として、感謝の思いがある。
良暹法師は、そこを和歌に詠み込んでいるからこそ、この歌が名歌とされているのです。
と、こんなことを書いていたら、なんだかお饅頭が食べたくなってきました。
そんな食欲の秋も、生命の讃歌のひとつなのかもしれませんね☆


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