
福島県原山1号墳出土の埴輪群
先日ある方から、おもしろいご質問をいただきました。
それは、
「古墳が出来た由来はわかったのですが、では古墳に埋められていた埴輪(はにわ)は、どうして武装した姿のものが多いのでしょうか」というものです。
古墳がなぜ造られたのかについて、このブログを通じて何度も「あれは、荒れ地を開墾して田畑を作ることによって生じた土砂の盛り土です」と述べさせていただいています。
これは、何も私が申し上げている新説でもなんでもなくて、戦前は、むしろそれが世の中の常識でした。
地元のお年寄りに聞けば、誰でも知っていた、あたりまえの話でしかなかったのです。
ところが学者さんたちは、「あれは豪族たちが権威を誇示するために民衆を使役して強制的に作らせた墳墓である」という異説を唱えました。
それを聞いたお年寄りたちは、「偉い学者さんでも、あんまり勉強ばかりしていると頭がおかしくなるのだな」と、まるでそんな異説が世の中では「たわごと」扱いでしかなかったのです。
ところがいつの間にか、そんな「たわごと」にすぎない「豪族使役説」がすっかり定説みたいになってしまいました。そんなところから埴輪も、墳墓の副葬品であり、民衆を生き埋めにする代わりに埋めたものだという「おどろくべき新説」が、いまではすっかり定着してしまっているようです。
これまた、バカな話です。
まず復習しますと、古墳は墳墓(豪族たちのお墓)ではありますが、そのために造成されたものではありません。
仁徳天皇陵をはじめ、わたしたちの国には巨大古墳がたくさんありますけれど、あくまでも、土地の開墾をしたときに、結果として生まれる土砂を、計画的に盛り土したことによってできたものです。
米を作るためには、水田を開墾しなければなりません。
そのためには水路を引き、用水池をつくり、河に堤防を築かなければならない。
するとあたりまえのことですが、大量の土砂が発生します。
そうした土砂は、今の時代ならダンプカーで沿岸の埋め立て地に運びますが、昔はダンプなんてありませんから、開墾地の近くに計画的に盛り土します。これが古墳です。
このことは、最大の古墳である仁徳天皇陵が、見事に証明しています。
以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しているのですが、このときの計算では、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。
仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。
そんな時代にどうやって800万人も動員したのか。しかも工期が16年です。
その間、民衆は老若男女全員が、アホな無駄な土盛り作業だけに狩り出されていたとでもいうのでしょうか。
そんなことをしたら、民だけでなく、施政者たちまで飢えて全員死んでしまいます。
仁徳天皇は、日本書紀によれば、難波の堀江の開削、茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)、山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)の灌漑用水、茨田屯倉(まむたのみやけ)設立、和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)の築造、灌漑用水としての感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)の掘削など、広大な田地の開拓を行った、たいへ失礼な言い方ですが、かまどのお話よりも、むしろ仁徳天皇はいわば「土木(どぼく)天皇」といってよいくらい、民のための広大な土木事業を営んだ天皇です。
そしてそれだけの広大な土木事業を営めば、結果として必ず残土が出ます。
その残土は、いったいどのように処分するのでしょうか。
いまならダンプカーで港湾の埋め立てに用いたりしますが、大昔にはダンプなんてありません。
結局、開墾地内に計画的に盛り土するしかないのです。
ちなみに仁徳天皇陵は、周囲が堀になっています。
盛り土は、土が柔らかいですから、雨が降れば土砂が流れます。
つまり付近の田畑が、土砂で埋まってしまいます。
これを防ぐために周囲を計画的にお堀で二重に囲んでいます。
実に合理的な対処法です。
仁徳天皇陵もそうですが、すべての古墳は平野部にあります。山間部にはありません。
平野を開墾するといっても、原始のままならでこぼこです。
それを水田にするなら、水田は水を引きますから、全体が真っ平らでなければなりません。
また水を引くための水路も必要です。水路には堤防も必要です。そうしなければ大雨のときに水害が出ます。
そうした被害を未然に防ぐためには、計画的な土地の開墾と、指揮者、労働者が必要です。
ただ耕せば良いというものではないのです。
そして広大な土地の開墾は、ものすごく年月がかかります。
しかも開墾しただけではだめで、そのあとの土地のメンテナンスが必要です。
いまでも、一級河川と呼ばれる川には堤防がありますが、そこには国土交通省の役人さんが、自転車で毎日堤防の検査監督をしています。これは猛暑でも酷寒でも大雨でも続けられています。
そういう地道な保護があってはじめて、土地は活きるのです。
けれど人には寿命がありますから、そんな工事を計画し、全体を統轄してくれた大将にも、死が訪れます。
全部、大将が面倒見てくれたから、広い田畑ができたのです。
大将がいてくれたから、安全に土地が使えたのです。みんなが腹一杯飯が食えたのです。
そんな大将に感謝するとしたら、大将のお墓はどこに築くでしょうか。
広大な田畑を見渡せる、盛り土のてっぺんではないでしょうか。
古墳が墳墓となった理由は、そこからきています。
ですから古墳によっては、墳墓ではない古墳もたくさんあります。
たとえば仁徳天皇陵は、もともと墳墓とすることだけを目的とした御陵ではないことは、仁徳天皇陵のすぐ近くにある他の古墳がこれを証明しています。
仁徳天皇陵のすぐ脇に、いたすけ古墳とか御廟山古墳といった前方後円墳がありますが、その古墳が誰のお墓であるのか、いまだにわかっていません。そもそもお墓であるかどうかさえもわかっていません。
要するに、墳墓を目的に造成されものではないからです。
もともとが工事の結果としての盛り土で、結果としていちばん大きな盛り土に、みんなが仁徳天皇に感謝して、そこを御陵にしたに他ならないからです。
ちなみに、小さな盛り土を近くに造成したことにも、ちゃんと意味があります。
水田地帯は、大水に弱いのです。
水が出たら、みなさん、どうしますか?
高いとろろに避難しませんか?
一番大きな御陵を天皇陵にしてしまったら、そこは避難所には使えません。
ならば、その周囲に、こぶりの盛り土を造っておき、万一の場合の避難所にする。
実に合理的です。
そして、冒頭のご質問です。
では、副葬品の埴輪(はにわ)は、何のために埋められたの?、人柱ではないの?というご質問です。
古墳がもともとは大規模土木工事のために、計画的に築かれた盛り土であり、そこに土木工事の大将のお墓を作ります。
なんのためでしょうか?
広大な荒れ地を開墾し、みんなのために尽くしてくれた大将がいれば、感謝の心を持つのが日本人というものです。
お世話になった大将に、こんどは、ずっとその農地を守ってもらいたいと思う。これが人情です。
「大将、生前はお世話になりました。こうして田んぼがひらかれ、オラたち感謝にたえません。
大将、オラたち、これかもずっと、この田畑を大事に守って行きます。
そしたら大将、そんなオラたちが災害に遭わないように、作物に虫がついたり、作物が病気にならないように、今度は、墳墓の上からずっとオラたちを見守っていてくだせえ」
それは、大将が、こんどはあっちの世界で大将になって、病魔や厄災からみんなを守ることです。
「そんなありがたいことをしてくださるなら、おひとりっちゅーわけには、いくめえよ」
「だったら、大将に兵隊さんを付けてあげるべえ」
「んだな。じゃあ、どうせなら、たくさんの兵隊さんがいたほうが良かっぺな」
それで副葬品にしたのが埴輪です。
ですから埴輪は、あの世の神様の兵隊さんたちです。
だから、生きた人、秦の始皇帝の兵馬俑(へいばよう)の兵像のようなリアルな像ではなくて、のっぺりとした、ちょっとお化けのようなお顔をされています。
あきらかに生きた人とは区別した、あの世の神様の兵隊さんたちなのです。
その「あの世の兵隊さん」たちは、とってもユーモラスなお顔をされています。
これを作った人々の、あたたかで、おおらかで、やさしい気持ちが伝わってくるかのようです。
埴輪は、人柱の代替品ではありません。
黄泉の国に行った新田開墾の大将(大きな古墳では天皇)のための、あの世の軍団であり、最初からそういう、この世のものとは異なる設定のものであったのです。
そしてこれまた、わたしたちの曾祖父の時代くらいまでは、古墳の近くで代々生活している人たちにとっては、およそ常識のことでした。
埼玉の行田市には「さきたま古墳群」がありますが、そこは石田三成が忍城(おしじょう)の城攻めをやったところとしても有名です。映画「のぼうの城」になりました。
この城攻めのとき、石田三成は近隣にある古墳群の古墳を取り崩して堤防を築きました。
石田三成は教養人です。
古墳がお墓なら、そんな乱暴なことはしません。
古墳が盛り土と知っていたから、これを用いました。
いまでもこのときに作られた堤防が残っていますが、その土は古墳と同じものだし、堤防から埴輪の欠片などが出土するそうです。
埴輪が、田畑を守る一種の飾り物だったからこそ、三成は、平気でこれを取り崩したのです。
そんな古くからの常識を破壊したのが、戦後の学者さんたちです。
学者さんたちは、古墳は豪族たちの権力の象徴であり、だから古墳は墳墓であり、副葬品としての埴輪は、人柱の代替品であり、もともとは人間を埋めていたのだ、といいます。
では、お伺いしたいのです。
副葬に人柱を立てたというのなら、その人骨が並んだ古墳を見せてくださいと。
ウシハク領主にとっては、田畑は自分の贅沢のためのものです。
しかし、シラス国においては、田畑はみんなのためのものです。
みんなが安心して食えるように田畑を開墾しているのです。
その民(たみ)を殺して人柱にしてどうするんですか?
日本は太古の昔から、みんなを、そして命をたいせつにしてきた国なのです。

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