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先日、「何が『正しい』かなんて、そもそも神々が決められることで、人の身でわかるようなものではないと思います。人にできることは、ただ『まこと』を尽くして生きることだけです。そうすることが日本人の道なのだと信じています」という文を書かせていただきました。
先日、友人から次のように教わりました。
「神々がおっしゃられているのは『正しいとかいうのは分離と対立を生むだけで、時代と逆行する。日本の心がひとつになったなら本当に世界を変える力があるのに。そうなることが日本の使命だ。原発反対にしても、戦争反対にしても、反対運動を行う人は誰かを悪に仕立てることで自分の責任を逃れることができると思っていますが、それこそが悪を生み出す行為ではないでしょうか。」
これはすごい言葉だと思いました。
私もまったく同感なのですが、日本の心は、どこまでも和と結いにあります。
ねず本の第三巻にも書きましたが、争いがあっても、たとえ戦うしか選択肢がなくなっても、それでも民衆のために「まこと」を尽くし続けてきたのが、私たちの国の歴史です。
わたしたち日本人にとって、戦いは勝ち負けではないのです。
平時も戦時も変わらない。ただ「まこと」をつくしてきたのです。
もちろん、いくら「正しい」は対立を生むとはいっても、悪は誅しなければなりません。
だからこそ警察もあるし、軍隊もあります。
世の中を乱す者がいる以上、これは仕方のないことです。
福沢諭吉は、民度の低い国を具体的にあげて、そういう国の政府は「辛き政府」になると書きました。
民度が低く、民衆がわがままで他人から奪うことばかりに走るような国では、政府は苛斂誅求の政府にならざるをえない。これはやむを得ないことです。
民衆の民度が低ければ、大量の警察官が必要になるし、施政者がウシハク施政者で程度が低ければ、大量の警察官どころか軍隊が必要になります。
そういう国が近くにいれば、好むと好まざるとに関わらず、それをはるかに上回る強力な軍隊が必要になります。
これまたやむを得ないことです。
程度の低い国や民族の悪行を放置すれば、民の安全も安心もないからです。
このブログを通じて、昔の日本のお話をいくつかさせていただきました。
縄文時代は、1万5千年以上続いた長い長い時代だけれど、この時代の全期間を通じて遺跡から武器が出土していないこと。このことは、このブログの読者の方であれば、もう常識となっていることと思います。
弥生時代は稲作伝来によって変化した時代と学校では教えますが、実は稲作は縄文中期に始まっていて、むしろ弥生時代は大陸では春秋戦国時代であったがゆえに、日本人は武装せざるをえなくなったのだということ。
古墳は豪族たちの権威権力の象徴ではなくて、水田を切開いた結果生まれた盛土であること。
そして奈良、平安の昔の日本では、天皇の下に太政官と神祇官が置かれていたというお話もさせていただきました。
平安時代、朝廷が京都にあったことは、誰でも知っていることです。
政府が京都にあったのです。
そして政治的意思決定は、太政官が行っていました。
いってみれば、太政官=いまの内閣のようなものです。
けれど、少し考えたらわかることですが、中央で何か意思決定しても、それを全国津々浦々に浸透させるネットワークがなければ、中央政庁は機能しません。
では、古代におけるこうしたネットワークは、どのような仕組みになっていたのでしょうか。
わが国では、天皇が代わるたびに元号が替わっていましたが、これは暦が替わるということです。
その暦は、農作業と切っても切れない関係にあります。
そして元号は、中央で新しく変わると、その新しい暦がおよそ三日以内には、全国津々浦々にまで示達され、徹底されていたことが記録に書かれています。
どうしてそのようなことができたのでしょうか。
なるほど、国内に諸国には、朝廷から国司が派遣されていました。
国司の下には地頭がいました。
けれど、たとえば相模の国といえば、いまの神奈川県ですが、その神奈川県にたったひとりの国司がいたとして、それだけで県の行政のすべてをまかなうなんてことはできません。
国司がいまの県知事だったとして、では国司のいた県庁には、何人のスタッフがいたのでしょうか。
地頭が市長さんだったとして、では市役所には、何人のスタッフがいたのでしょうか。
国司や地頭は、徴税官ですが、現実の問題として、エリア内の行政示達機能は、ほとんどないのです。
このことは、要するに太政官の持つ全国ネットワークには、全国の民衆への直接的な情報示達力はなかったということを意味します。
では、そういうものを、いったい誰がどのように担っていたのかというと、これが神祇官とその下にある全国の神社だったのです。このことは令集解などにもあきらかになっています。
人々は神社に集まり、そこでみんなで食事をし、宮司さんから中央の施政についての話を聞いていました。
そしてその神社は、田植えの際の苗をつくり、農家に配っていました。
また収穫されたお米は、神社で一定量を預かり、これが災害時の非常米になっていたし、翌年の田植えの際の苗になっていました。
もっと簡単に言うと、古代日本では、神社を通じて、日本の農業社会がまわっていたのです。
そして大和朝廷は、こうした全国の神社ネットワークの上に、のっかるカタチで成立していました。
ちなみに後年、こうした苗の管理や非常米の保管などは、庄屋さんが担うようになりましたが、それは仏教伝来によって、仏様を拝む人が増えたことが原因です。
一方、いまだに古い神社に行くと「奉納」と書いた看板のところに、米俵やお酒の樽が置いてあります。
古代からの習慣の、これが名残です。
要するに、古代の日本では、神社が各地域の行政府の役割を担っていたということなのですが、すごいなと思うのは、この神社には、まったく武装というものが存在しないし、警察機能としての牢屋のようなものも、存在しないという点です。
もっといいますと、大宝律令とか養老律令という言葉をお聞きになったことがあろうと思いますが、これは古いChinaの言葉で、「律」が刑事法、「令」が民事法を意味します。
そして大宝律令にせよ、養老律令にせよ、「律令」という漢字は使われているものの、結局「令」だけで「律」が発動されることがなかったのです。
このことは、全国津々浦々、警察力をそもそも必要としなかった、ということを意味します。
古代、中世において、警察がないのです。
それで治安が完全に保たれていた、ということです。
それが日本です。
聖徳太子の十七条憲法の第十条にある言葉です。
人皆有心 心各有執
彼是則我非 我是則彼非
我必非聖 彼必非愚
共是凡夫耳 是非之理能可定
相共賢愚 如鐶无端
是以彼人雖瞋 還恐我失
人みな心あり、心おのおの執あり。
彼を是し、我を非す
我を是し、彼を非す。
我、必ずしも聖にあらず
彼、必ずしも愚にあらず
共にこれ凡夫の耳、是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき
相共に賢愚なること鐶(みみがね=まるい環)の端なきが如し
是を以て彼、瞋(いか)ると雖(いえど)も
かえってわが失(あやまち)を恐れよ
こういう感覚は、聖徳太子が十七条憲法を書かれたから全国に浸透したということではなくて、すでに古代の日本社会の中に、このような感覚が立派に定着していたからこそ、それを憲法にしたということです。
世界中どこでもそうですが、そもそも憲法というものは、その国の歴史伝統文化に基づく概念を成文化したものです。
つまり十七条憲法に書かれていることは、すでにその時代、もしくはそれよりももっとずっと古い時代から、日本人にとっての常識であったということなのです。
「対立と闘争」というのは、もともとが19世紀に始まる西洋の個人主義の概念です。
そのさらに奥の原点には、一神教による他宗教の排除があるのですけれど、これが個人や政治の倫理観にむすびついたのが19世紀の市民革命、そしてこれをさらに拡大発展させた思想が共産主義です。
日本人の日本的思考は「和と結(ゆ)い」です。
これは実は「対立と闘争」とは対極をなす思想です。
「対立」の反対が「和」。
「闘争」の反対が「結」。です。
民度の低い、どっかよその国の話をしているのではありません。
それが日本人ならば、「これが正しいのだ」と声を大にして大騒ぎしなくても、もともとが「互いにあい結びて」みんなで力をあわせて未来を築いて行く力を内在させていると思うのです。
もちろん人が生きていれば、必ず争いは生まれます。
利害の衝突もあります。
そういうときに、当事者双方が互いに知恵を絞って、両者にとってより良い未来を築いていく。
最近の流行語で、これを「win winの関係」というのだそうですが、その考えは今から1400年も前の十七条憲法に書いてあります。
日本はずっと「win winの関係」を国是としてきたのです。
人の身でできることは、結局は、それぞれが「まこと」を尽くして生きることしかできないのだと思います。
その時々で、自分がこうだと信じる道を生きることしかできない。
それが結果として間違っていたのか正しかったのかは、後の世か神々にしかわからないことと思います。
ですから、正しく生きるのではなくて、その正しいと信じることのために、自分にできる「まこと」をつくし、和を大切にして生きること。人には、そんなことしかできないのだろうと思います。
すこし、異なことを書きます。
「保守」という言葉がありますが、そのなかに「保守本流」という言葉があります。
この「保守本流」の流れの中にあるのが、加藤紘一さんとか、河野洋平さん、あるいは朝日新聞です。
わたしたちはそれらを反日左翼と呼んでいますが、実はこれが戦後長く続いた「保守本流」です。
どういうことかというと、戦後にGHQが敷いた流れを「保ち守る」というのが、戦後の「保守本流」だったということなのです。
ですから、いまでも反日の先生方や学者さん、あるいはメディアなどの人たちは、「自分たちこそが保守である」と思っています。なぜなら、まさに「本流」だからです。
これに付随して、親米保守、反米保守という造語もありました。
親米なのか反米なのかで、保守層をたて分けようとする、これも思想です。
そしてこの二つは、たがいに相容れないものとして、激突していた時代もありました。
おもしろいのは、この両者とも、我こそは保守と自認していた方々でした。
しかし、この親米か反米かというたて分けそのものは、マルクス・レーニン主義に基づいて相互の対立をあおり、互いに闘争させるための方便ともいえるものです。
そして「対立と闘争」という世界に巻き込まれた瞬間から、それは日本的和の精神から離れ、相互に憎み合い、対立しあって、互いに相手を殲滅するまで否定し続けるだけの存在に成り下がってしまいます。
いま「保守」と自認している方々の多くは、すこし前の概念で言いますと、右翼になります。
ところがこの右翼にもいろいろあって、なかには日本は鎖国して農本主義に戻るべし、という思想もあります。
「保ち守る」べき拠り所が、それぞれ異なるのです。
「保守本流」と呼ばれた人たちは、その拠り所が占領下の日本でした。
占領状態にあった日本が、理想的日本であり、日本は常にそこに還るべきというのが、その思想の根本にあります。
戦前派、戦中派という語もありました。
戦前派の方々の多くは、大正デモクラシーの時代が拠り所であったようです。
戦中派の方々は、むしろ明治にその拠り所を求めていたようです。
農本主義右翼まで行きますと、どうやら江戸時代の鎖国日本の体制を保ち守るべきと考えておいでのようです。
なかにはもっと古い、奈良、平安の時代の日本を保ち守るべしという思想の方々もおいでになります。
もうすこし極端なものになりますと、大和朝廷成立以前の地方豪族たちの地位復活を賭けておいでの方々もおいでになるようです。
要するに何を言いたいのかと申しますと、古代から近現代に至るまで、日本はずっと日本だ、ということです。
私は、対立を好みません。
太古の昔から、日本人はさまざまな試行錯誤をしながら、施政のためのもっとも良いカタチを築いてきました。
そうした先人たちの知恵に学び、次の世代により良い日本を引き継いで行く。
その過程のなかで、自分も神ながらの道をまことを尽くして日々努力して行くだけだと思っています。
聖徳太子は、次の言葉もあります。
=========
以和為貴 無忤為宗
人皆有黨 亦少達者
是以或不順君父 乍違于隣里
然上和下睦 諧於論事 則事理自通
何事不成。
和を以(も)って貴(とうと)しとなし
忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
ここをもってあるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、
また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、
事理おのずから通ず。
=========
そして、上の文に続けて「何事不成(何事か成らざらん)」とあります。
やたらと彼我の違いをあげつらって、対立し敵対するのではなく、和と睦の心で理解しあう、わかりあう。
そうして未来を築いて行くことが大事だと書いておいでです。
互いに謙虚に学ぶ。
大事なことは、そこにあると思っています。

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