
先日、「明治維新とは何であったのか」というテーマで、藤岡信勝先生の講義が「つくる会」主催の日本史検定講座で行われたのですが、そこであらためて、戦後の自虐史観のバカバカしさについて感じたことがありましたので、今日はそのことを書いてみようと思います。
つい先頃までは、「明治維新とは」という定義をめぐって、「講座派」と「労農派」という学説の対立があったのだそうです。
おもしろいもので、この二つの対立があることが強調されることで、あたかも明治維新については「この二つ以外には論点がない」かのように演出がされてきました。
では、この2つの派が何を言っているかというと、
「講座派」=明治維新は日本が絶対主義国家になろうとした”革命”である。
「労農派」=明治維新は日本が近代資本主義国家になろうとしたブルジョア”革命”である。
というものです。
ひとめ見たらわかるとおり、どちらも共産主義史観(マルクス史観)によるもので、「維新は階級闘争であり”革命”である」という考え方がその基礎になっています。
学校で習ったり、時代劇を見たり、小説を読んだりして、なんとなく明治維新=革命であるというような漠然としたイメージを抱いている方は、いまでも多いようです。
これは無理からぬことで、なにせ「それ以外の解釈がなかった」のです。
いや実は、そういう歴史観など、とんでもない!と言う人たちは市井にたくさんいたのですけれど、少なくとも学校教育の現場や、小説や歴史書籍の出版、あるいはテレビドラマなどにおいては、明治維新=革命という思考しかなかったわけです。
ところがその「革命」という言葉自体も、これまた実にあやふやなもので、もともと漢語としての「革命」は、ご存知の通り「易姓革命」からきていて、これはChina皇帝の横暴が極致に達したとき、「命(天命)が革(あらた)まり、皇帝の姓(せい)が易(か)わる」というところからきています。
Chinaの明王朝は皇帝の姓が「朱(しゅ)」です。その後に興きた清王朝は「愛新覚羅(あいしんかくら)」です。姓が変わるのです。
ちなみに、日本の天皇には姓がありません。ですから日本では易姓革命は起こりようがありません。
この漢語の「革命」に、西洋におけるレボリューション(revolution)の翻訳語をあてたのが幕末頃の日本の学者です。
「revolution」というのは、もともとは動詞の「revolve」からきていて、これは回転とか循環を意味する言葉です。それが「激変」を意味する名詞となって「revolution」となりました。
要するに、西洋的な意味での革命「revolution」は、政治上の激変を意味する言葉であるわけです。
ですから西洋的な意味で明治維新を「revolution(革命)」とみなすことは、あながち間違いとはいえません。けれど、明治維新においても、我が国の「天皇を国体の中心となす」という、はるか太古の昔からの体制はまったく変わらず、政治体制だけが、徳川幕藩体制から明治新政府体制に変わったわけです。ですからこれを「revolution(革命)」とみなすことは、それはそれで間違っていない。
ただし、日本人に馴染みの深い漢語としての「革命」とは、実は、明治維新は全然意味が異なるわけです。
なぜなら天皇という存在が我が国最高位におわすことに、何の違いもないからです。
ですから、戦前のわたしたちの先輩たちは、黒船来航にはじまる幕末から明治にかけての政変のことを、「明治革命」ではなく、あえて意図的に「明治維新」と呼んだのです。
「維新」という言葉は、本来「いしん」ではなく、「これあらた」と読みます。
初出は『日本書紀』で、大化2年(646)3月の記事に、大化の改新の詔(みことのり)に応じた中大兄皇子が、「天も人も合(あい)応(こた)えて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新(あら)たなり(天人合応厥政惟新)と述べています。
つまり、天皇のシラス統治のもとで、政治体制を一新する、ということを意味します。
ちなみに、天皇によるシラス統治を明確に示しているのが、律令体制の中に、天皇直下の機構として「太政官(だじょうかん)」と「神祇官(じんぎかん)」が置かれていることです。
太政官は、行政、司法、立法の政治の三権をすべて統括する政治の中心機構で、China皇帝と同じだけの権限を持つ最強政治権力機構です。
ところが、これと並び立つ機構として、我が国には神祇官があるわけです。
神祇官は、天皇の祭祀を輔弼(ほひつ)し、全国の神社を統括します。
仏教が伝来する以前の日本の社会は、村々にある神社が苗の配分を行ったり、お祭りを取り仕切ったりしていました。
要するに中央の政治上の意向も、庶民に徹底するためには、この神社がつねに機能していたわけで、いくら太政官が画期的な政策を打ち出そうが神祇官がこれを承認しなければ、実質的には何もできない。
そしてその二つの機構の上に、シラス存在として天皇がおかれていたわけです。
話が古代に脱線してしまいましたが、明治維新は、我が国にChinaのような易姓革命が起こったわけではありません。徳川政権が倒れて天皇政権が出来上がったのではなくて、もともと徳川政権自体が天皇統治の下部機構にあったからです。
つまり明治維新は、漢語的な意味における「革命」ではないのです。
さらに明治維新は、西洋的意味での革命(revolution)でもありません。
ということは、講座派も労農派も、解釈を間違っている、ということです。
なるほど「政治上の大激変」という意味においては、西洋的意味での革命「revolution」に近いといえなくもありませんが、マルクス史観における革命(revolution)は、その基本にあるのが「階級闘争」という概念です。
王政によって、王や貴族たちが優雅でリッチな暮らしをして、一般の民衆(労働者)は、どんなに努力しても一生貧乏なままにいる。
そこで労働者階級が決起して王や貴族階級を打ち倒し、その特権を剥奪して新たに労働者階級のための政権を打ち立てる、というのがマルクス的革命論ですけれど、その中心にあるのは、
「すべての階級は、おのれの利得のために行動する」という確信です。
王や貴族階級の人たちは、自分たちの階級だけの利権や利得のためにだけ行動する。
これに対して、労働者階級が、やはり自分たちの階級の利権や利得の獲得のために立ち上がるのが革命です。
つまり、革命の主体となる労働者、あるいは市民といった存在は、革命を実施した後に、自分たちに利得があるという期待があり、そのためにこそ、革命を起こすわけです。
実際、たとえばフランス革命は、飢えて怒ったパリの商工業者たちが、ルイ王朝を襲撃して打ち倒し、王朝の財産を奪い取って、パリの商工業者たちでこれを分取りました。これがパリの市民革命です。
ところがルイ王朝の領土は、フランス全部に及んでいるわけです。
そのフランス全土に及ぶ財産を、どうして「パリ市民と名乗る、パリの商工業者」だけで分取るのか。フランス国民はパリ市民だけでなく、パリ以外にも、フランスの国土全部にいるのだから、滅んだルイ王朝の財産は、全フランス国民に分け与えるべきだ、と、こういう主張をして辺境の地からパリを目指したのがナポレオンだったわけです。
この一連の大騒ぎで、フランスではなんと200万人が殺されたりして死んでいるのです。
このことは、ロシア革命でも、あるいはChinaの辛亥革命でもみんな同じで、ようするに、革命によって滅ぶ側も滅ぼされる側も、どちらもおのれの欲得(利権、利得)のために戦っているのだし、そのことを「階級闘争」という言葉でまとめているのです。
ところが日本の明治維新は、いくら「階級闘争論」でこれを説明しようとしても、まったくそれができないのです。
なぜなら、革命を推進した武士たちは、革命が成就したあと、四民平等、廃刀令などで武士としての身分をすすんで放棄し、また藩籍奉還といって、藩主としての地位まで放棄し、捨ててしまっているからです。
維新の推進力になった武士たちが、維新成立後に武士政権を打ち立てたというのなら、これは革命です。
けれども、維新成立後に、その武士たちが武士の身分を捨てているのです。
これは、「欲得のために階級闘争を行う」というマルクス史観では、まったく説明がつかないことです。
つまり、明治維新は、Chinaの漢語的意味での「革命」ではないし、西洋的意味での革命(revolution)でもありません。
維新はあくまで「厥政惟新(そのまつりごと、これあらたなり)」であって、これは同じひとつの国体の中におけるおおきな「政権交代」を意味します。
明治維新は、私心を捨てて、公(おおやけ)のために尽くす武士たちによって実現されました。
けれど、その武士たちは、公(おおやけ)のために、自ら率先してその身分を捨てました。
これは、相当に民度が高くなければできることではありません。
なぜなら、誰しも欲があるからです。
そんな私欲を捨てることで、どこまでも公(おおやけ)に尽くす。
それは、世界史的にみれば、あるいは世界史の現実からみれば、ほとんど神に近い所業、人間の世界ではありえないといっていいほどの、すごいことです。
そういうことを私たちの祖先はやったのです。
明治維新の始期が「黒船来航」にあったということは、学者さんたちの間でも争いのないことです。
ということは、外圧という脅威のなかで、わたしたちの国の自立自尊を守るためにどうしたら良いかを希求したのが明治維新であったということです。
そしてそのために、従来の政治の枠組みである幕藩体制を捨て、挙国一致して富国強兵を図り、列強の支配に対して断固、国を守り抜くという覚悟と成果を世界に示したのが、まさに、わたしたちの先輩たちが行った明治維新でした。
そしてその私心を捨てた覚悟は、ついには世界を征する欧米列強の植民地支配との全面戦争を招き、世界の被植民地は次々と独立し、日本企業の進出と日本の経済協力によって、いまや欧米に負けない経済力を身につけるにまで至っています。
明治維新の初期の頃の志士といえば、吉田松陰、佐久間象山、高杉晋作などです。
彼らは倒幕を見ることなく全員亡くなっていますが、彼らが私心を捨てて夢見た東亜の平和と繁栄、民族自立と自尊の理想は、ついには世界を動かし、世界から植民地を一掃し、支配にうちひしがれた被植民地国の人々までにも、平和と自立と繁栄をもたらしたということができます。
ちなみに明治維新の中期に活躍したは維新の三傑とよばれる、西郷隆盛、大久保利道、木戸孝允などが登場しますが、三人とも明治10年前後に亡くなっています。
私心を捨てた戦いというのは、わが身の犠牲さえもいとわないものです。
日本にも維新を標榜する人たちは政治家にもたくさんいますけれど、私心を捨て、身を捨ててかかるところに、次世代が開けてくるのです。
次世代のために私心を捨て、新たに日本を興す。
そういう政治と、それを支える国民が、いま、求められています。
※この記事は、先般行われた藤岡先生の講義から、私が感じたことを書かせていただきました。ですので本旨は藤岡先生の講義そのものの内容とは異なるものであり、上の文の文責はあくまで私にあります。(藤岡先生の講義は、もっと広く内容の濃いものです。)

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