ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
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新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。
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ノモンハンに向かう兵士たち
ノモンハン事件02

5月11日は、満蒙国境でノモンハン事件が勃発した日です。昭和14(1939)年のことです。
ノモンハン事件は、この日から9月にかけて続いた旧ソ連軍との国境紛争です。
このノモンハン事件について、戦後、いろいろな教科書を含む書籍や雑誌、メディア等において、
「旧式な装備しか持たなかった日本の関東軍が、ソ連軍の機械化部隊によって完膚なきまでに叩きのめされ完敗した」
「1万70000人もの犠牲を払い大敗を喫するという汚点を残しながら、日本陸軍はついに陸戦装備を近代化しなかったという愚行を犯した」
などと紹介されています。
要するに、旧式の装備しか持たない日本が、ソ連の近代的機械化部隊に完膚なまでに叩きのめされながら、その後反省もなく、ついに陸戦装備を近代化することはなかった、なんと日本軍はバカだったのだろう、という論の延長線上で、ノモンハンは、日本が「負けた」と宣伝されているわけです。
本当にそうなのでしょうか。


ところが、ソ連が、その自慢の機械化部隊で日本軍に圧勝していたのなら、どうして大東亜戦争の末期になって参戦したソ連は、わずかな手勢しかいなかった満州、樺太に120万もの大軍を出動させたのか。
また、ソ連がノモンハンで日本に大勝利したというなら、どうしてその後、ソ連は大戦末期まで満州攻略を停止しいていたのかという疑問がわいてきます。
それにそもそも論として、ソ連側がノモンハンで大勝利したというなら、どうして事件後の停戦協定で、戦闘がはじまる前の、もとの国境で停戦協約が結ばれたのでしょうか。
どうしてソ連は、領土権の主張をしなかったのでしょうか。
現実問題、ノモンハン事件よりもはるか以前から、ソ連はシベリアから満州、朝鮮半島、樺太、北海道へと、その勢力範囲を伸ばそうと、種々な画策をしていました。
まごまごしていれば、満州はおろか朝鮮半島までソ連の版図にはいっていたのです。
それだけ、アジア太平洋への進出を夢見ていたソ連が、ノモンハンで勝ったのに、南下して東亜に進出する動きを止めたのは、いったい何故なのでしょうか。
ソ連が紳士だったからなのでしょうか。
そもそもどうしてノモンハン事件で、日本が負けたとされているのでしょうか。
実は、その根拠となっているのは、ソ連側の発表数字によります。
そのソ連発表によると、
 ソ連の損害  9,284名
 日本の損害 52,000~55,000名
なるほど、この数字だけをみたら、ソ連大勝利、日本完敗に見えます。
ところがそのソ連は崩壊し、旧ソ連時代の内部機密文書が次々と公開されました。
それによると、なんと、
 ソ連の損害 25,565名
 日本の損害 17,405名
と書いてあるのです。
実際の死傷者の数は、圧倒的にソ連側の方が多いではありませんか。
そしてさらに、ソ連の「近代的機械化部隊」などというのも大ウソです。
そもそも、ソ連が機械化部隊などを組織できたのは、ドイツに押されてソ連が連戦連敗していたときに、英国のチャーチルの要請で、米国のルーズベルトが米国の戦車や航空機の図面から製造のための機材、製造のための技術者までソ連に派遣し、さらにワシントンの地下金庫に眠っていた幕末の日本から為替相場のいたずらで奪い取った大量の金塊をソ連に渡してから、出来たものです。
つまり、ノモンハンの時点では、ソ連には機会化部隊などという強烈な戦車部隊など、そもそも存在さえしていなかったし、ソ連製戦車はあったことはあったけれど、乗員の訓練不足で走行射撃もできないという水準でしかなかったのです。
なるほど、砲塔などは、日本よりも立派な砲を数多く所有していましたし、それなりの戦車群も用意したうえで、ソ連はノモンハンの国境を越えて攻め込んで来たのですが、それらはことごとく日本軍の速射砲・高射砲のえじきになっています。
ソ連戦車は、またたく間に、約800台が破壊されているのです。
ちなみにこの、4ヶ月にわたる戦いで、日本側の戦車の損害は、わずか29台です。
このことは航空戦においても同じでした。
ソ連のイ15、16は布張りの旧式飛行機で、日本の最新鋭の九七式戦闘機に対して全く太刀打ちできていません。
おかげで、戦後に明らかになった旧ソ連の公開資料をみると、ソ連の航空機は、1,673機もの損害を出しています。
対する日本側の損害は10分の1の179機にすぎません。
なるほど、そうはいっても、日本側の死傷者は、戦死8,440名、戦傷8,965名の、合計17,405名という大きな損害を出しています。
しかし、わずか3万の日本軍に対し、ソ連側は、いきなり30万の大軍を投入していたのです。10倍です。
当時、日本は、基本路線として「ソ連を刺激しない」という不拡大方針をとっていました。
ですからいきなり国境を越えてきた30万のソ連軍に対し、日本軍将兵は、わずか3万の兵力で戦うしかなかったのです。
もっというならば、昭和14年という時点です。
この時点で、満州には、旧清王朝皇帝が、そのまま横滑りしてきた清朝の王室と、その政府がちゃんと存在しています。
日本からみれば、同盟国とはいっても、あくまでそこは外国なのです。
にもかかわらず、建国して間もなく、優秀な軍団も育っていなかった満州国を保護するために、満州国人に代わって、日本が、代わりに戦ってあげていたのです。
そのことさえも、戦後の学者や評論家は、満州は日本軍の傀儡政権に他ならなかったと、いい加減なことを言っていますが、仮にも満州は国家である以上、自国の防衛は自国でまかなうのが、本来のあたりまえの姿なのです。
ところが満州国は、五族共和を標榜した国家です。
人口の中心は、Chineseであり、満州人であり、Koreanたちです。
申し訳ないが、彼らの力では、ソ連の大軍を前に、戦いはできない。
ですから彼らを守るためには、強兵を持って鳴る日本が出て行くしかなかったのです。
ところがその日本には、ソ連の大軍団と五分の兵力など存在しません。
はじめから、10倍の戦力差があるのです。
たったひとりで、武装した10人を相手に戦ったら、普通、負けます。
けれど、それを日本の軍人さんたちは、果敢に戦い、逆に勝利をしているのです。
人類史上、あり得ないような、これはものすごい戦果です。

捕獲したソ連戦車を前に万歳をする日本兵
ノモンハン事件03

もっとも、日本軍も、ソ連のあまりの兵力の大きさに、戦力の逐次増強を図っています。
最終的には約6万の兵力をノモンハンに送り込んでいます。
ソ連のスターリンは、30万の軍団を満蒙に送り込み、それこそまたたくまに日本軍を粉砕して、豊かな満州までも手に入れようとしたのですが、結果は、逆にソ連の敗北となりました。
慌てたスターリンは、リッペントロップを通じて、敵方であるヒットラーに停戦の仲介までも頼み込んでいます。
どれだけソ連が、ノモンハンの大敗に怖じ気づいたかということです。
そして不拡大方針をとる日本政府は、一方的に国境侵犯攻撃をしてきたソ連軍の非さえも、一切とがめることなく、この停戦協定に応じています。
どこまでも日本に野心はなく、ただ平和を願ったのだということが、この事実は、はっきりと証明しています。
大東亜戦争の終戦直前、対日参戦したソ連は、すでに装備も武器もほとんどない関東軍の攻略のために、120万もの大軍を派遣していますが、なぜそこまでの大軍を派遣したのかといえば、ノモンハンで実際に日本と戦った経験を持つソ連は、それだけ日本を恐れていたとことでもあるのです。
一方、最前線で戦っていた日本の軍では、停戦命令に激怒しています。
当時ホロンバイル地区でソ連・モンゴル連合軍と戦った23師団は、熊本に司令部がありました。
戦後、熊本日日新聞社が『熊本兵団戦史』(昭和40年発行)という本を出しているのですが、それによると、
「(ノモンハンでは)生き残った者の大多数が敗戦意識を抱いていない」
「ソ連軍には友軍同士の横のつながりがまったくなく、隣の隊がどんなに困っていても、上から命令がなければ決して協力しなかった」
「(ソ連軍は)友軍機が落ちても、それを友軍機と思わなかった。おちるのは皆敵機と信じ込んでしまっていた」
「野砲兵中隊は、のちのちまで敵戦車の数が多ければ多いほどエモノは多いと勇み立って、すこしも戦車を恐れなかった」
「ソ連兵が負傷すると大声で泣きわめくのでなんだ弱虫と笑った。格闘となれば(中略)1対1なら絶対勝つと確信していた。わが死傷者も多かったが、敵の死傷はさらに多かった」
この戦いで、さらに重要なのは、この戦いの2年前の昭和12(1937)年に、外モンゴルでモンゴル人によるソ連への大規模な反乱があったことです。
この事件で、ソ連は、モンゴルの前首相・参謀総長を含む2万8千人を処刑し殺害しています。
当時のモンゴルの人口は80万です。この事件で人口の4%近くを殺しているのです。
このことは、いまの日本の人口比でいったら、なんと500万人が殺されたのと同じです。
そしてノモンハン事件の年にも、モンゴルでは、約千人が参加した反革命蜂起が起こっているのです。
当時のソ連は、そうしたモンゴルでの粛清の仕上げとして、モンゴル人を楯にして満州に攻め込んだわけです。
そして日本軍によって、叩きのめされ、終戦直前まで、満蒙から樺太、千島などへの攻略をあきらめざるをえなかったのです。
先日の縄文弥生のような古代史の話にせよ、戦前の近代史の話にせよ、戦後の日本では、おバカなジャーナリストか何かが、どんでもない言いがかりともいえるような嘘八百の述べて、それを活字にする。
その活字になったものを、肩書きだけ立派なおバカな学者が真に受けて、資料をねつ造したりまでして、日本を貶めるような作文をして本にする。それをまた別な偉い学者の先生が、引用して、また別な切り口で本にすする。そして一方で、本当のことを書いた史料などを焚書にしておいて、「引用がなければ学説の名に値しない」などともっともらしいことを言いながら、嘘にウソを塗り重ねて行く。その繰り返しでした。
そんなことが戦後69年も続けられてきたのです。
そしてそういうウソやデタラメを書いた学者が、大学の主要なポストに座る教授となり、学会を支配し、権威あるポストを独占し、メディアがそれを煽るということが、繰り返し行われてきました。
なんだか、いまや左巻きの大学の教授たちを総入れ替えでもしない限り、正しい日本の知識は戻って来ないような気さえしてしまいますが、そういう乱暴なやり方は、日本式ではありません。
日本はシラス国です。
人々に正しい知識を普及する。
その運動を、みんなが協力して、地道にコツコツとし続けることで、これまで権威で無理矢理ウソで塗り固めていた戦後教育の牙城を突き崩していくことが、やはり正しい日本人的な道なのではないかと思います。
日本人なのです。
日本人の良心を、私はどこまでも信じていきたいと思います。

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【杉之尾宜生】「辻政信遺書」が明かすノモンハンの真実
杉之尾氏は、従前のノモンハン評価を気にして非常に慎重に事件を語っています。
しかし、よく話を聞くと、↑の趣旨をきちんと語られています。

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