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ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!第二巻「和」と「結い」の心と対等意識
2014/04/12発売 ISBN: 978-4-434-18995-1 Cコード:C0021 本体価格:1350円+税 判型:四六 著者:小名木善行 出版社:彩雲出版 注文書はコチラをクリックしてください。
書泉ブックタワーで出版記念会が開催されます。
ねず本第二巻の「立ち読み版」が公開されました。
(本の画像の下の「立ち読み」というところをクリックしてください。)

新刊ラジオでも紹介されています。ねずさん本人も出演しています。
ねず本第二巻の紹介ニュースが新刊JPから流れました。
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http://www.sinkan.jp/news/index_4550.html
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第二次百年戦争

中世ヨーロッパの王様と王様の戦いといえば、映画やドラマなどでおなじみのことと思います。
ところが多くの日本人が、この戦いについて、これを古代ギリシャのアテネとスパルタの戦いのような都市国家同士の戦いと勘違いしている方が多いようです。
古代ギリシャにおける都市国家同士の戦いというのは、日本で言ったら、さしずめお城の奪い合いみたいなもので、村(城塞都市)同士の、ある意味総力戦です。
ところが中世ヨーロッパにおける戦いは、こうした総力戦とはぜんぜん違っていて、いわば辺境部における領地の奪い合いといった側面があります。
そもそもヨーロッパは大陸です。
その大陸に、様々な民族があるのですが、それが「民族」という概念によって、対立と闘争のための集団となっていくのは、むしろ近代国家成立以降のことです。
それまでは、いわゆる「民族」という概念さえありません。
ただ種族同士の、いわば同じDNAを持つ者通しの、近い遠いの別はありますが、いわゆる親戚同士、同じ血縁同士という関係式はあります。
ところがヨーロッパでは、猛威を振るったバイキングが、ヨーロッパ各地の各種族を征服して、そこに「王朝」を作ってしまうわけです。


たとえばフランスは、もともとはバスク人が住んでいた土地ですが、そこにある日突然、バイキングがやってきて、ブルボン朝(ルイ王朝)を作ってしまうわけです。
いわば、他民族による支配です。
そのブルボン朝の貴族が、ある日、得意の海を渡って英国に住むスコットランド人たちを征服し、そこに王朝を作る。
こうしてできたのがテューダー朝(エリザベス王朝)です。
要するに英国王朝も、外来王朝です。
では、その王朝とは何かといえば、それは王による人や民の私有です。
私有ですから、私有者である王が死ぬと、王の莫大な遺産をめぐって、跡目争いが起こります。
それで追い出された兄弟が、別なエリアを征服して、そこで王を名乗って、その地域の部族を支配するわけです。
ところが、部族支配と言っても、ヨーロッパは大陸です。
異なる種族が、ある程度、地域ごとに団子になっているとはいっても、その周辺地域では、人々は隣の部族の人たちと恋もすれば結婚もします。
つまり、ごく自然に、血が混じるわけです。
そうなると、周辺地域というのは、いったいどっちの国の支配地かわからなくなる。
そこで、王様の私有権の及ぶ範囲をめぐって、王様同士の争いが起こります。
最初はもちろん、話し合って解決しようとしますが、その話し合いでどうにもならないとなれば、戦争になります。
ところが、ヨーロッパ中世の王様の兵というのは、王様が自分のポケットマネーで雇っている、これまた王様の財産のひとつです。
雇われている兵たちは、戦うことを生業とする人たちで、いまでいう傭兵です。
体力に自信のある彼らは、故郷を飛び出し、腕一本の強さを誇りながら、王様に雇ってもらう。
王様にしても、そういう暴れ者のならず者たちを、野放しにしておいて領地内で暴れ回られるよりは、酒でも飲ませて飼い殺しにしておいて、戦があったら、そこに向かわせる方が利口なわけです。
日本における江戸時代くらいのヤクザの親分さんをイメージしていただければわかりやすいのですが、ヤクザ
の親分さんが、子分たちに縄張りの周辺部の争いの鎮圧に向かわせ、その親分さんの子分が、全滅してしまったら、親分さんは、ほんものの「裸の王様」です。
ですから、戦いといっても、ある程度、カタチだけ戦って、ちょっと分が悪くなったら、そこで白旗を揚げて降参し、「今回はこれで勘弁してやらあ」とばかり、縄張りの一部を譲って、また時を待ちます。
ほとぼりが冷めて、国力が充実したら、また戦って奪い返せば良いだけのことだからです。
このことは傭兵の側にしても利害が共通していて、ただ金で雇われているだけですから、何も命を犠牲にしてまで戦う必要はない。
勝ち戦なら暴れもするけれど、負けそうになったら、すぐに逃げなきゃ死んでしまいます。
兵たちに逃げられたら、引率している貴族(王様の身内)は、責任を取らされますから、旗色悪しとみれば、適当なところで、軍を引き、手打ちをしてしまうわけです。
こうした伝統は、ヨーロッパでは、ごく普通のことで、ですから第一次、第二次大戦においても、多くの局地戦は、ものの半日どころか、数時間で、終わっています。
日米戦にあった玉砕線のような、「どこまでも戦う、いつまでも戦う」などという恐ろしいことは、世界史では、あまり類例のない出来事で、ですから2000年前にあった、スパルタ王レオニダスが、わずか300の兵を連れて、100万のペルシャ軍に挑んだテルモピュライの戦いが、いまだにヨーロッパでは、伝統の語りぐさになるわけです。(テルモピュライの戦いについては、最近の映画「300」でも詳しく紹介されました)。
けれど考えてみれば、兵力に乏しい旧日本軍の戦いは、China事変においても、大東亜戦争においても、いずれもテルモピュライの戦いに匹敵する戦いが行われているわけで、逆に言えば、彼らから見れば「日本は恐ろしい枢軸国」と映るのも、ある意味無理からぬことといえるかもしれません。
ちなみに、中世ヨーロッパで、前線に派遣される王の軍は、もちろん、王の親戚(貴族)が率いました。
ところが実は王様は、この貴族もあまり信用していません。
いつ寝返るかわからないからです。
そこで考案された方法が、実は「近衛兵」です。
中世ヨーロッパの王様の近衛兵といえば、すっごいかっこいい服装をしていて、まさに王様の親衛隊であり、他の兵とはひと味もふた味も違った「かっこいい」存在といったイメージがありますが、これは当然そうなのです。
なぜなら、近衛兵というのは、王様の周囲にいる貴族たちの跡取り息子たちなのです。
その跡取り息子たちを、「近衛兵」という名目で常に王様の周囲においておく。
そしてもし、その親の貴族が、前線などで王を裏切ったら、その息子を血祭りに上げる。
つまり、近衛兵というのは、ていのいい人質だったわけです。
ちなみに旧日本軍にもかつては、近衛兵がありましたが、そこにいる兵士たちは、ただ優秀だから近衛兵に抜擢されているだけで、特段、華族の息子たちというわけではありません。
さらに江戸時代よりも以前になりますと、近衛という貴族の名字はありましたが、近衛兵なるもの自体が存在しない。
天皇直轄の軍隊自体が存在しないのです。
近衛兵どころか京都御所には、城塞やお城にあるような武装装備さえ何もありません。
これが2700年続いた我が国の姿なのです。
和と結いを大切にする天皇のシラス国と、常に裏切りと対立と闘争が連続する王権支配のウシハク国では、こんなところにも違いが出ているのです。


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