中央日報に「九条の会」の沢地久枝さん(77)の活動を紹介しながら、自衛隊田母神俊雄元航空幕僚長の論文を非難する記事が掲載されました。
≪記事≫
<グローバルアイ>日本の良心と歴史歪曲の亡霊2008年11月05日17時40分 / 提供:中央日報
あきらかに「報道」でなく「論評・論説」に相当するヒダリ寄りの記事なのですが、このテの記事の通例として、書いた記者の署名がありません。
反対に、たいていの新聞社が、反・左寄りの論評記事を掲載するときは、必ずと言っていいほど、記者の署名がはいっています。
これはいったい何を意味するのでしょうか。
記者の署名のない記事=その新聞社の意思
記者の署名がある記事=その新聞社の記者個人の意思
ということなのでしょうか?
ただ思うのです。マスコミの本来の役目は「事実の報道」であり、次いで「論説」。ただし、論には必ず左右があり、対立意見もあります。であれば、社会の公器であるマスコミは、左右それぞれの意見をきちんと報道する責任があるのではないかと。
もし、どちらかに偏った記事を書くなら、それは書いた記者の名前をあきらかにして書くべきです。そうでなければ卑怯だ。
論でありながら、無記名で誰が書いたかわからない記事は、要するに書いた本人も責任のもてないいい加減な記事であるということです。
こういう記事が、なにやらもっともらしい顔をして世論を操作しようとする。嘆かわしい限りです。
さらに続けます。
この記事には、以下のような記述がありました。
≪引用≫--------------------------------------
沢地氏はこの本で、ミッドウェー海戦で勝利した米国は34人の日本軍捕虜を返したが、日本軍は30余人の米軍捕虜を殺害したことを日本社会に知らせた。
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これは実際にあったことです。
ただし、このことには次の点を重ねておかなければなりません。
日本軍に逮捕された爆撃機搭乗員は、捕虜ではなく都市の無差別爆撃を実施した疑いにより戦争犯罪人として裁かれたということです。
このことをアメリカは『野蛮人の蛮行』として大々的にプロパガンダに利用しました。沢地氏はこれを日本で紹介する本を書いたにすぎません。
都市に住む一般人に対する攻撃行為はジュネーヴ条約によって固く禁止されています。無差別爆撃は国家としての正当な戦争行為ではなく、戦争犯罪であるとされます。戦争犯罪を犯した者は国際法に従って処罰(死刑を含む)されても仕方がない。これが現代に続く国際法上の考えかたです。日本軍はこれを実行したにすぎない。
日本軍の措置は正当なものと評価できます。
米国での報道は戦時中のプロパガンダにすぎない。
こう書いても、人を殺したのだから良くないのでは・・・米軍は紳士的だったのに、日本軍は野蛮だったんだ、という方もおいでかもしれません。
もっというなら・・・
こうした報道に接したとき、多くの日本人は、なんとなく・・・
 「日本軍は残虐だった。
  米軍は紳士的だった。
  戦地ではやく降伏すれば、物資の豊かな米兵に助けてもらえたのに、
  バンザイ突撃した日本人は、バカだ。
  民間の日本人までがバンザイと叫んで死んだのは、
  東条英機が戦陣訓で「生きて虜囚の辱めを受けず」としたからだ・・・」
と、信じています。
ところが、ここに、
 「翼よ、あれがパリの灯だ!」
という映画で、世界的に有名になったチャールズ・リンドバーグの手記があります。
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出典、『孤高の鷲 リンドバーグ第二次大戦参戦記 』上下 学研M文庫
著者/訳者名 チャールズ・リンドバーグ/〔著〕 新庄哲夫/訳

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1944年6月21日(水)
偵察隊の一人が日本兵”捕虜”に煙草と火を与えた。煙草を吸い始めた途端に 日本兵”捕虜”の頭部に腕が巻きつき喉元が「一方の耳元から片方の耳元まで 切り裂かれた。
1944年6月26日(月)
ニューギニア戦線で2000人の日本人捕虜を飛行場に連れて行き 機関銃を乱射して殺害した。
1944年7月24日(月)
そこには1人の日本軍将校と十人~12人の日本兵の死体が、切り刻まれた 人体だけが見せるような身の毛もよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま 横たわっていた。頭蓋骨を覆う僅かな肉片だけが残っている。
1944年8月6日(日)
「オーストラリア軍の連中はもっとひどい。日本軍の捕虜を輸送機で南の方に 送らねばならなくなった時のことを知っているかね? 」
あるパイロットなど 僕にこう言ったものだ・・・。
「捕虜を機上から山中に突き落とし ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告しただけの話さ」 (或る読者より)
日本兵の死体に金歯があると、靴で踏み付けたり、棒でつついてその歯を取り出して集めて、小さい袋にため込んでいる兵士が何人もいる。
砲弾で出来た穴の中に日本兵の死体を投げ込む。その上をゴミ捨て場にする例もある。死体処理はブルドーザーでなされ、墓標がたてられることは、けっしてない。
ちょうどそのころ、日本軍は泰緬鉄道の捕虜犠牲者のために、四メートルの大理石の慰霊碑を立てていたことを考え合わせてみよ。
わが軍の兵士たちは日本兵の捕虜や投降しようとしている者を射殺することを何とも思っていない。彼らは日本人を動物以下のものとして取り扱い、それらの行為がほとんどみんなから大目に見られている。
ジャップの病院を占領した時には、病院に生存者をひとりも残さなかった。
捕虜として投降してきた者は即座に射殺、そのため日本人は、投降もままならず、ジャングルの中で飢えに苦しみ抜いて死んでいった。
日本人の死体は切り刻まれた。
金歯を抜き取る者、おもしろ半分に耳や鼻を切り取り、乾燥させて本国に持ち帰る者、大腿骨を持ち帰り、それでペンホルダーやペーパーナイフを作る者さえいた。
ドイツ人がヨーロッパでユダヤ人に対して行ったことを、われわれアメリカ人は太平洋で日本人に対して行っている。
負傷兵であろうと手を上げようと、みな射殺してしまう。それが残虐な日本兵にたいする報復だとし、自らの残虐行為を正当化した。
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マックス・ヘイスティングス(イギリスの歴史作家)著
「ネメシス 日本との戦い 1944―45年」
ハーパースプレス社、ロンドンからの引用
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沖縄本島には、千二百隻の艦船に分乗する十七万人のアメリカ軍が来攻した。わが軍と陸海空において、凄惨な血戦が繰りひろげられた。先の本から引用しよう。
「一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。とくに沖縄戦がそうだった。
(アメリカ軍兵士の)クリス・ドナーは、こう記録している。
地面に十五歳か、十六歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。
日本兵の仕業であるはずがなかった。
しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。女が動かなくなった。
アメリカ兵が日本人を人間だと思わなかった。
故国への土産(スブニール)として、日本人の頭蓋骨を蒐集したが、ヨーロッパ戦線においてドイツ兵については、頭蓋骨をそのように扱うことはなかった。日本人の頭蓋骨を飾り物として、珍重したのだった。
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真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年<25>
凄絶極めたサイパン 米兵、婦女子らに残虐行為
昭和十九年七月九日、元陸軍大尉、田中徳裕(のりすけ)氏ら生き残った兵隊は山の中腹の洞窟(どうくつ)から眼下の飛行場で繰り広げられた惨状。
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三方から追い込まれた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。
幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。
婦女子が全員、素っ裸にされた。
そして、無理やりトラックに積み込まれた。(略)婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。
婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴があがった。
ガソリンがまかれ、火がつけられた。
飛び出してくる老人子供たち。
その悲鳴……。
米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。
あの投降勧告は一体なんだったのか。
常夏の大空をこがさんばかりに燃え上る焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。
残虐な行為は凄絶をきわめた。
火から逃がれ出ようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。
かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴(け)り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。
二人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。
「ギャッー!」という悲鳴。
人間がまるで蛙のようにまたさきにされ殺されていく……。
彼らは、それをやっては大声で笑った。無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。
七月十一日。
東の空が白むころ、追いまくられた住民がマッピ岬にむかって死の行進をはじめた。
数百、いや数千人はいたろうか。
もう、だれの制止もきかない。
魔術にでもかかったように、怒濤岩をかむマッピ岬に立った。老人が先頭をきった。
「天皇陛下萬歳、皇后陛下萬歳!」
と叫んだかと思うと、海中めがけて飛び込んだ。
我々が潜んでいる洞窟のすぐななめ上である。投身自決は、次々とおこなわれた。
後から後から、子供も、婦人も、押されるようにして飛び込んでいく。
その海中に、群れをなしたサメが泳ぎまわっている。
海はたちまちまっ赤に染まり、飛び込んだ人たちは次々と食いちぎられて沈んでいく。
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マッピ岬とは、のちに「バンザイクリフ」と呼ばれるようになるサイパン島の最北端の岬です。この本ではほかにも、青竹に串刺しにされて死んでいる婦人の姿など、凄絶な場面が綴(つづ)られている。
ここで忘れてならないのは、このような場面を目撃した日本人の中で一番多かったのが、ほかならぬ沖縄の人たちであったという点だ。生き残った彼らが、サイパン島での玉砕の様子をさまざまな形で、故郷の親戚(しんせき)や縁者に怒りと悲しみをもって伝えたことは間違いないということです。
米軍上陸の前から、沖縄をはじめ日本人は敵軍の「鬼畜行為」におびえていた。
ちなみに、冒頭述べた東条英機の戦陣訓は、太平洋戦争のために書かれたものではありません。
中国戦線で、中国兵に捕虜にされると、上にある米兵どころではない、さらにいっそう残虐ななぶり殺しに会う。相手が日本人だからとかの問題ではない。
中国兵が、撤退するとき、同胞である中国人に対し、日本人に対したのと同様、惨い仕打ちをしています。
だから、それならいっそ、自決したほうが、はるかに楽だったという、当時の状況があった。
そういうことなのです。
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満州回顧録 満州開拓団の惨
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ソ連軍が急追してくる。さらに現地人たちが匪賊のように襲ってくる。
軍の根こそぎ動員によって屈強の者がいないと分かると、それまで親しんできた満人の友さえも加わり、暴徒となって日本人難民に波状攻撃をかけてくる。
屈強の男無く武器も無い開拓団は、それでも、レンガや鍋、釜を割っては投げつけ応戦する。十五、六歳の少年達までが斬り込み隊となって戦い、最後には全員が自決した。
この老人のグループは、祖国日本は降伏したに違いないとの考えに至る。そのことがいっそう絶望的な気分を蔓延させ、誰もが無慈悲になり、疲労困憊した者や負傷者を置き去りにするようになっていく。
取り残された場合には、やがてソ連軍の攻撃や現地の暴民によって皆殺しにされることを知って、逃れようと皆は必死の思いで歩き続ける。
何度も何度も暴民や武装匪賊の襲撃に遭遇し、すべてを奪われ乞食以下となった日本人の行列に、中国人が「子供を売ってくれ、女の子は500円、男の子は300円でどうだ」と声をかけてくる。それは執拗そのものだったという。
そして、最も悲惨だったのは子供たちだ。多くの子供が力尽きて野垂れ死していった。こうして疲れ果て、絶望した開拓団の集団自決が、8月20日を過ぎた頃から始まる。
守ってくれるべき軍隊もなく、包囲されて脱出の望みを絶たれた人々にとっては、最後に残された選択肢は死だけとなる。人は忍耐の限度を越えると、生きていることも苦痛になるのでしょう。
8月25日午前4時過ぎ、満州東部のある開拓団では、夜明けの空を震わせて自決の銃声が響き渡る。一足お先に・・・・と、子を両手に抱え、または胸に抱きして、涙で顔をグシャグシャにしながら引き金が引かれていく。
妻を、子を、親を、知人を。
火葬場と決められた馬小屋は、絶え間なく銃声が続き屍が折り重なってゆく。
読経が低く流れるなか、泣き叫ぶ子を抱き抱えた母親も、目を血走らせて銃声の中へと消えていく。
27日には、この場所に集結していた別の三組の開拓団千数百人が、ソ連軍の包囲攻撃を受けてほとんど全滅した。
ソ連軍の攻撃は徹頭徹尾苛烈で、弾雨のなかで青酸カリ自決をする人、ちっぽけな武器ともいえないようなものを手に突撃して果てる人、砲弾にやられ木っ
端微塵になって散る人。どうにかして生き延びることはできないものかと空しくも願いつつ、曠野の土くれと化していった。
8月15日に日本は無条件降伏しているのに、ソ連軍は何故無抵抗な民間人を殺戮しなければならなかったのだ!
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「満州開拓史」によると、全滅、あるいは自決した者11,500名。帰国までの病没と行方不明者を合わせると、開拓団の人々の死亡は78,500名で全開拓団の三人に一人が死んでる。
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ようするに、戦争というのは、人間の狂気の総和です。
そうした中にあって、日本軍ほど規律に厳しく、ジュネーブ条約や、これを踏襲する軍規をきつく守り抜いた軍隊は、ある意味、世にもめずらしかった。
それは、日本軍が物資が乏しく、余計な行動で武器・弾薬を消耗することを極端に嫌ったことも、理由のうちにあります。
実際、太平洋戦争の初期、シンガポールを陥落させたとき、山下中将率いる日本軍は、最後の弾の1発まで打ちつくし、もうこれ以上は「戦うことすらできない」状況にあった。
「サア、どうしようか。もう反撃されたら逃げるしかない。困った」と言っているところに、オランダ軍から白旗があがり、じつはほっとした・・・・なんてことも史実として残っています。
標記の記事は、沢地久枝さんを讃え、返す刀で田母神氏の論文を否定する内容ですが、きちんと歴史を学べば、田母神氏の論文内容のほうが、よほど史実に忠実なものであることがわかります。
だからこそ、書いた新聞社も“書いた記者がわからないように”匿名で記事を出している。
まったくもって卑怯な手口の記事だと思います。

アメリカ軍の戦争犯罪
国家の行う戦争行為と、戦争犯罪はまったく異質なものです。

大東亜戦争の真実

南京大虐殺の真実 The truth in Nanjing

日本軍の残虐行為としてプロパガンダに利用された映像は、実は日本軍のものではなく蒋介石率いる国民党の中国兵のもの。殺されているのは中国共産党兵。
この映画によって、日本の80万人以上の民間人が米空襲の被害者となった。

ねずきちは、だから米が悪いとか言うつもりはありません。
戦争は狂気の総和であり、異常な出来事が起こるものだと思いますし、戦争には断固反対です。。
しかし、戦争をしなければならなかった当時の状況や、その狂気の世界。その中にあって、すこしでも条約や規律を守り通そうとした日本人がいたこと。そうした事実は、ちゃんと子に伝えてあげたいと思っています。
単なるプロパガンタや、左翼的扇動に踊らされて歴史を見失うことは、そのまま自分自身を見失ない、人としての誇りを失うことに繋がると思うからです。
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