
3月11日は、東日本大震災の日です。
お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
先日、「歌会始」の記事でも書いたのですが、和歌は、日本のあらゆる伝統文化の中心をなすものです。
相手の心を察する、その察するところに思いやりがあり、おもてなしの心があります。
物事を額面通りに受け取るのではなくて、言葉にない部分を互いに察しあう。
そこに日本の伝統文化の、ある意味核心があるのではないかと思います。
さて、今回は、16番、17番の在原行平、業平兄弟と、18番の藤原朝臣の3首です。
この3首も、伝えたい思いは、表面上の言葉ではなく、言葉の奥にあるのですが、この3首はなかでも、意味のとりやすい歌であろうかと思います。
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16番歌 中納言行平
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば今帰り来む
たちわかれ
いなはのやまの
みねにおふる
まつとしきかは
いまかへりこむ
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昔は、飼っている猫などがいなくなると、この歌を短冊に書いて、猫の餌箱の下におき、猫の帰りを待ったりしたのだそうです。
いったんいなくなった人や動物が、また戻って来てくれるようにとの「おまじない」に、この歌はよく使われました。
この歌を詠んだ在原行平(ありわらのゆきひら、818~893)は、第51代、平城(へいぜい)天皇の皇子である阿保(あぼ)親王の子です。
続く17番歌の在原業平の異母兄にあたります。
ご皇族ですから、もともとは苗字がなかったのですが、8歳のときに父親の阿保親王の奏請によって、兄弟とともに在原朝臣(ありわらのあそん)姓を賜与され、臣籍降下しました。
この歌は行平37歳の折りに、因幡の国守に任ぜられて、これから任地に赴こうとする際に詠んだ歌です。
最初の「たち別れ」は、接頭語の「たち」に「別れ」と続き、「断ち別れ」、「立ち別れ」など、まさにお別れを意味します。
「いなはの山の」は、「因幡の山の」と行き先を示すと同時に、「山に往(い)なば」、つまり山に行ってしまったならば、という二つの意味に掛けられています。
「峰に生ふる」は、「山の峰に生えている」です。
「まつとし聞かば」は、「山の峰に生えている松」と、「待っていると聞いたならば」と、これまた二通りの意味に掛けられています。
「今帰り来む」は、すぐに帰ってくるよ、です。
通解しますと、「いよいよ任地の因幡に出発します。お別れです。因幡の山に私が行ってしまっても、因幡の山の峰に生えている松が、待っていると聞いたならば、いますぐにでも帰ってきますよ」といった意味になります。
むつかしいのが、「松、待つ」の掛詞です。
「待つ」が都の人で、その都の人が私を待っている、私を必要としてくれているのならば、すぐにでも帰って来ますよ、というのは、ある意味、わかりやすい部分であろうかと思います。
ところが、それなら「因幡の峰に生うる松」は、何を言わんとしたのでしょうか。
その答えのヒントになるのが、詠み手の名前を「在原行平」ではなく、あえて「中納言行平」と役名にしているところです。
中納言は、官位です。つまり職業人として、行平は、この別れの歌を詠んでいるわけです。
まず「たち別れ」は、これまでの人間関係を「断つ」、そして「別れる」、そこに明確な決意が込められています。
これまでの一切のしがらみを捨てて、新たな任地に赴くわけです。
そしてその新たな任地では、「峰に生ふる松」となろうとの決意が、まず述べられています。
松は、ご存知の通り、砂浜や崖地などの痩せた土地でも、立派に成育します。
何があっても、その土地で風雪に堪え、立派に勤めを果たし、まさに「骨を埋める覚悟」で、その任地に赴く。
それが古来変わらぬ、転勤族の覚悟です。
この歌を詠んだときの行平は、37歳です。
まさに働き盛りの壮年です。
いまでいったら、大手企業や官庁の本社の部課長級の人です。
本部にいて辣腕をふるっていたものが、ある日、それは派閥争いに敗れてのことか、定期異動によるものかはわかりませんが、地方支店勤務を命ぜられる。
職業人として、ひとたび赴任を命ぜられれば、その任地にまさに骨を埋める覚悟で赴きます。当然です。
行平も、当然、その覚悟でいます。
だからこそ、「峰に生ふる松」となろうと言っています。
けれど同時にその一方で、「私の帰りを待っていると聞いたならば、すぐにでも戻ってきましょう」と歌っているわけです。
自分を本社でまた起用してくれるというのなら、トンボ帰りで再び帰って来て思う存分腕を振るいたい。
それもまた、同じ思いのなかに共存します。
任地に行くのが嫌だとか、そういうことではないのです。
任地には、まさに「根を生やす覚悟」で赴くのです。
けれど、それと同時に、本社にいて自分の能力を思う存分発揮したい。
この思いは、相互に矛盾するものなどではなくて、同じ働く男の心中に共存する誇りであり、夢であり、プライドでもあります。
実際に、同様の経験や気持ちを持ったご経験のおありの方も多いのではなかと思います。
この二つの思いを、「断ち別れ=立ち別れ」、「松=待つ」、「今帰り来む」と短い言葉のなかに、ぎゅっと押込めた、それがこの在原行平の歌です。
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17番歌 在原業平朝臣
ちはやぶる神代も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
ちはやふる
かみよもきかす
たつたかは
からくれなゐに
みつくくるとは
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17番歌は、平安の色男、在原業平です。
在原業平は、昔から美男子の代名詞のようにいわれる人で、相当モテモテだった人のようです。
日本三代実録には、
体貌閑麗 放縦不拘
略無才学 善作倭歌
と業平を紹介しています。
意味は、「見た目もよく、物腰が優雅で、性格は自由奔放、学問はそれほどできるほうではないけれど、良く善い歌を作る」です。
百人一首の歌カルタでも、兄貴の行平は、いかにも「おっちゃん風」の姿に描かれているのですが、業平の方は、いかにもといった感じのやさ男に描かれています。
ちなみに、いま「東京スカイツリー駅」となっている東武鉄道の駅は、以前の名前は「業平橋駅」でした。
江戸の初め頃、ここに業平天神社があって、そこに業平塚があったことから、その名が残っていたのだそうです。
東京の新名所として「スカイツリー」ができた事で、駅の名前が変わってしまったのは、すこし残念な事に思います。
さて、この歌ですが、この歌は「屏風歌」といって、屏風に描かれた絵の脇に和歌を付けたものです。
古今集の詞書には、「二条の后の春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(みびゃうぶ)に龍田川に紅葉流れたる形(かた)を描きけるを」とあります。
二条の后は、藤原長良(ながら)の娘の高子(たかいこ)のことで、この方は清和天皇の女御(にょうご=天皇の側室)です。
その二条の后が、春宮(皇太子)の御息所(=皇子を生んだ女御)だった頃に、后の屏風に竜田川に紅葉が流れている様子が描かれているのを見た業平が、この句を添えたものです。
たいへんに視覚的色彩的な歌で、上下の句から何かを想像するというよりも、むしろ歌そのものの美しさをそのまま観賞するという読み方の方が楽しめる歌といえようかと思います。
「ちはやぶる」の「千早(ちはや)」は、「いち=激い勢いで」、「はや=敏捷に」を縮めたもので、「ぶる」は「ふるまう」を意味します。
その「ちはやぶる」が、「神代」にかかっていて、「神代も聞かず」と続きますから、「はげしく動いた」というよりも、「さまざまな不思議な事が起こったという太古の神々の御代にさえ聞いた事がない」といった意味となろうかと思います。
で、何を聞いた事がないというのかというと、奈良の斑鳩(いかるが)の里にある竜田川(たつたがわ)が、「唐紅(からくれない)色に、川の水を「くくり染め」、つまり「絞り染め」にしてしまったというのです。
つまり、紅葉が竜田川に流れ、川が真っ赤に染まっている。
その様子は、まるでさまざまな不思議な事が起こったという太古の神々の御代にさえ聞いた事がないほど見事なものだなあ、というわけです。
まさに、豪華絢爛、屏風絵そのものの世界です。
ちなみに「からくれなゐ」というのは、唐の国の緋色のことです。
これを「唐の国」だけでなく、「韓の国の緋色」と訳している人もいるようですが、残念ながら韓は、この場合、関係ありません。
そもそも、日本と唐は、国交を持ち、留学生の交換等を行ってきましたが、当時の韓は、たいへんに国が貧しくて、日本と唐の中間地点にあって、単に盗賊を働いていただけの泥棒国家です。
そもそも染料としての緋色もありません。
この業平の歌を鑑賞するにあたって、ひとつ忘れてはならないのは、日本が神代の昔から綿々と続く文化を保持し続けた国である、ということです。
唐も韓も、王朝の交替の際に先代までの文化を全否定していますから、神話と歴代王朝との連続性が切れてしまっています。
ですので「ちはやぶる神代も聞かず竜田川」という上の句には、奈良斑鳩(いかるが)という場所も含めて、そこには、神代の時代から綿々と続くわたしたちの国の歴史、伝統、文化があり、その文化の上に立って、「からくれなゐに水くくる」と詠んでいるわけです。
語感も良いし、歌だけでも屏風絵の美しさが、なにやら想像できる、ある意味、たいへん分かり易いです。
よく「天才歌人」と称される柿本人麻呂は、歌風からしても天才というよりも、実はものすごい努力の人です。
人麻呂の歌は、一首一首の歌が、まるでよくできた一冊の推理小説の名作もののように考え抜かれていて、しっかり読み、かつ考えないと、その歌の真意がなかなかわからなかったりします。
その一方で、歌意がわかったときには、ものすごい衝撃が読み手に伝わるという特徴があります。
これに対し在原業平は、さらさらっと、分かり易くて美しい歌が多いです。
これこそむしろホンモノの天才歌人といえる卓越した才能の持ち主であったといえようかと思います。
人麻呂が、努力努力で寝ないで必死になって良い歌を考え詠んでいるのに対し、業平は、まさに当意即妙、自然体でいて、その場の思いつきで、誰にでもすぐに意味のとれる歌を即興で読み、しかもその歌が美しい。これが業平の特徴です。
伝説によれば、業平は見た目も美しい人であったとか。
美男で、頭もよく、才能に恵まれ、何をやってもソツがない。
そういう、なんだか産まれたときから何でも持っている、そんなスーパーマンみたいな人って世の中にいます。
業平は、そういう人のひとりであったのかもしれません。
この歌は、そんな業平という天才歌人を、まさに象徴した歌に思えます。
古来、女性にはそういう男性は、まさに人気だし、男性からしてみても、そういう最初から何でももっていて女性や子供たちにありとあらゆる幸せを与えることのできる人生は、男からみても理想です。
けれど現実には、ほとんどの人は、努力して、努力して、それでもうまくいかなくて、歯を食いしばって、努力して、願いに手が届かなくて、どっか妥協しながらも、それでもあきらめきれずに、また努力して、うまく行ったと思ったら誤解され、悲しみあって、涙をこらえてまた努力して、そんな繰り返しです。
神代の昔から、多くの人の人生は、そんなことの繰り返しです。
だからこそ、逆に業平のように、はじめからすべての才能に恵まれた人が、歴史の中に光るのかもしれません。
ちはやぶる神代も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
ほんと、すごい才能です。
ただ、紀貫之は、古今和歌集の仮名序において、業平の歌のことを「その心あまりて詞たらず、しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」と、ちょっと厳しい評価をしています。
ただ、「しぼめる花の色なくて匂ひ残れるがごとし」とは、実によく言ったものだと思います。
ところでモテ男の業平は、実は小町も落そうと狙いました。
そこで贈った歌が
秋の野に笹分けし朝の袖よりも
あはで寝る夜ぞひちまさりける
秋の野に分け入ったときに、朝露で袖が濡れてしまうけれど、あなたと逢わないで寝る夜は(あなたと逢えない淋しさで)袖が濡れてしまいます。それくらい淋しいのですよ、と、こうやったわけです。
すごいラブレターです。
これならどんな女性でも、イチコロかもしれません。
すると、小町から、すぐに返事が来たそうです。
みるめなきわが身を浦と知らねばや
離れなで海人の足たゆく来る
あなたは、私を得物がないのにしつこく海にやって来る海人のようですわね。
さしもの業平も、小町の前に撃沈でした。
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18番歌 藤原敏行朝臣
住の江の岸に寄る波よるさへや
夢の通ひ路人目よくらむ
すみのえの
きしによるなみ
よるさへや
ゆめのかよひち
ひとめよくらむ
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在原の行平、業平兄弟の歌に続くのは、業平の奥さんの妹の旦那、藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん)です。
藤原敏行朝臣は、小野道風が、空海と並ぶ書家と褒めたという逸話の伝わる人で、能書家としても名高い人です。
「住之江」は、大阪の住之江区で、当時はこのあたりは海岸です。
その海岸の岸に、寄せてくる波に、夜の波が掛かっています。
ですので上の句は、
「住之江の海岸に寄せては返す波、夜の波さえも」といった意味になります。
下の句は「夢の通ひ路に、人目を避けるように」と続きます。
愛する人と、夢のなかでも一緒にいたい。
そんな愛する人へのつのる想いは、まるで、くりかえし寄せては返す波のようです。
けれど、あなたは私の夢の中にさえ、なかなか逢いに来てくれない。
それは人目を避けているせいなのですか?
この歌は、そんな愛の焦燥感を歌った歌といわれています。
けれど、ほんとうにそうなのでしょうか。
それだけの歌なのでしょうか。
というのは、この時代は「通い婚」の時代です。
男性が好きな女性の家に通う、そういう時代です。
夢の中の往来であれ、逢いにでかけて行くのは男性の役割で、女性ではありません。
つまり、人目を避けるのは、それは男性の側のことであって、表の往来に出る事のない女性の側が「人目を避ける」必要はありません。
ということは、この歌に詠まれている「夢の中でさえ、人目をはばかる」というのは、男性の藤原敏行の側の事情であることがわかります。
藤原敏行本人か、誰か別な人かはわかりませんが、寄せては返す波のように、つのる思いに身を焦がしているわけです。
そしてその男性は、意中の女性を、いますぐにでも手に入れたいと願っています。
ところが、なんらかの事情があって、その男性は、その思う女性を手に入れることができない。
それだけじゃなくて、たとえ個人の夢の中でさえも、その女性のことを想う事は、人目をはばかられる。
その男性が恋する相手の女性は、そんな女性なわけです。
男と女というのは、不思議なものです。
身分や立場の違いを超えて、「好きになってしまう」ということは、よくあることです。
そしてこれまた古来、不思議なことに、「いけないこと」と思えば思うほど、余計に情熱が燃え上がってしまう。これまたよくあることです。
けれど世の中には、守らなければならない秩序があります。
だかこそ、たとえどんなに「寄せては返す波のような」激情にさいなまれたとしても、その想いは「夢の中」だけにとどめておく。それが、たとえどんなにせつないものであったとしても、「夢の通ひ路人目よくらむ」なのです。
それが「大人の恋」です。
「無法松の一生」といえば、岩下俊作の小説『富島松五郎伝』の原作で、映画や演劇でかつて大ヒットした作品です。
この小説は、福岡県の小倉(現在の北九州市)の荒くれ者の人力車夫である無法松が、戦友であり、先に戦死した陸軍大尉吉岡の未亡人母子の将来を思い、身分差による己の分を弁えながらも無私の献身を行うという物語です。
世の中の秩序を大切にしようとする理性と、理性を度外視しても愛してしまう心の葛藤は、秩序を重んじなければならないということが、世間の常識として、たかい道徳観に支えられた社会であればこそ、ドラマにもなり、絵にもなります。
藤原敏行の生きた時代は9世紀、松五郎の時代は19世紀です。
そこには千年の時の差があります。
けれど、千年前も千年後も、日本人はそういう秩序を、ひとりひとりが大切に育んで来た、そういう社会をずっと築き、守って来たということなのであろうと思います。
さて、次の19番歌は、女性の伊勢の歌です。
18番の藤原敏行が男性の慕情なら、伊勢は、女性の側の慕情です。
難波潟短き蘆のふしの間も
逢はでこの世を過ぐしてよとや
さて、この歌にはどんなドラマがあるのでしょうか。
続きは、また今度。

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