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シベリアの大地

「異国の丘」といえば、スナックやカラオケなどで、ある一定の年齢以上の方ではいわば定番となっている名曲です。
たぶん、これをお読みの方の中にも、誰かが唄っているのを聞いたことがある、という方は多いのではないかと思います。
もちろん、ご自身でお歌いになられる方も、たくさんおいでのことと思います。
この歌は、歌詞をご覧戴くとわかるのですが、戦後、シベリアに抑留されていた方々の思いを歌った曲です。
作曲したのは、昭和の歌謡界を代表する大作曲家の吉田正(よしだただし)です。
吉田正の歌としては他に、街のサンドイッチマン(1953)、赤と黒のブルース(1955)、好きだった(1956)、有楽町で逢いましょう(1957)、東京ナイト・クラブ(1959)、誰よりも君を愛す(1959)、潮来笠(1960)、再会(1960)、いつでも夢を(1962)、傷だらけの人生(1970)、子連れ狼(1971)などがあります。
どの曲も、いまだにカラオケの定番となっている曲ばかりです。


吉田正は、茨城県日立市の生まれで、会社の都合で満洲に渡り、昭和17年に陸軍水戸歩兵第二聯隊に入隊しています。
その部隊にいたときに、「大興安嶺突破演習の歌」というのを作曲したのですが、これが満洲に駐屯する兵隊さんたちの間に広がり、さらに終戦後、シベリアで抑留されると、この曲に同じく抑留者だった増田幸治が詞を書いてできたのが、この「異国の丘」です。
戦後、シベリアから帰還した兵隊さんが、NHK­のど自慢に出て歌ったことから一躍有名になり、昭和23(1948)年には中村耕造の歌唱で、レコード化されました。
このことがご縁で、吉田正は、昭和24年にビクターに専属作曲家として入社し、次々とヒット曲を生んだわけです。
今日の記事の冒頭にある絵は、早田貫一画伯のシベリア風景です。
画伯は、やはりシベリア抑留経験を持った方で、抑留当時の絵をたくさん残しておいでです。
冒頭の絵にあるような荒涼とした大地が、どこまでも広がっていて、そこが冬になると一面雪に閉ざされる。
「今日も暮れゆく異国の丘に、友よ辛かろ、切なかろ。我慢だ待ってろ嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る 春が来る」
荒涼とした景色の遥か向こうの祖国を思い、毎日の厳しい強制労働に耐えながら、いつかきっと祖国に帰れる日が来る。
それまでは「ガマンだ。いつか帰る日が来る」、「泣いて笑うて歌って耐えりゃ、望む日が来る朝が来る」。
おもい雪空、陽が薄いシベリアの地で、「倒れちゃならないぞ。祖国の土に辿りつくまでその日まで」、そういって励まし合った仲間が、何人もシベリアで死んで行ったわけです。
早田貫一画伯の絵に、下の絵があります。
なんだと思います?

シベリアの小便の富士山

この絵のタイトルは、「小便所は富士山になった」です。
それだけ厳しい環境の中で抑留され、強制労働を強いられていたわけです。
笑えない絵です。
シベリアには57万人の日本人が抑留されました。
そして酷寒や飢餓によって、少なくとも5万5千人が命を落としています。
そして、このうち2万1千人については、戦後69年経ったいまでも、身元が確認できていません。
国家というのは、国民の生命や財産を守るための共同体のはずです。
では戦後の日本というのは、いったい何なのでしょうか。
【異国の丘】
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る
今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る
今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

私は、たまにカラオケでこの歌を唄うのです。
そのとき、前奏の間に、
「この歌を、こよなく祖国を愛し、肉親を愛し、祖国を思いながら散っていかれた英霊たちに捧げます」って、ちょっとナレーションを入れたりすることがあるのです。
でも、それをやると、途中で泣けて来て歌えなくなるのです。
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吉田正 異国の丘 1975
是非、この動画、ご覧下さい。

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